わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

2020-04-05

僕は、Lispの勉強をすることにした。

Lispを学ぶことで、プログラミング言語の違いを超えた「プログラミングそのもののやり方」が分かる。Lispでしかできないプログラミングスタイルから、プログラミング技術が向上する。

また、過去の自分は、むしろLispしか分かっていない。昔の僕の人生や考え方はLispそのものである。よって、Lispを学ぶことで、「もう一度昔の人生ができる」ようになる。

自分の心に素直になって、自分の言いたいことを素直にそのまま言いなさい。脚色や誇張した言葉遣いを使わず、誰かに許されるために強い立場で臨むのもやめなさい。そうすれば、混乱した思考も、常に把握する判断も、狂った戦いも、予想外の驚きも、全て無くなる。残るのは、ただ自分の今までの強く信じた心だけである。それを最後に知れば、それで「神の体験」は終わりである。

もう、あなたは神を信じなくていい。もう、神を信じることをやめて、日常に戻りなさい。時はあなたを待ち続けている。あなたは、素直になるまで、この世界を変えることができなかった。今、本当の意味でこの世界は大変化を迎えるだろう。

天国というものはある。だが、天国からもう一度、この世界に戻ってくることもある。これが、「生まれ変わり」という体験である。キリスト教と仏教は矛盾しない。死ねば永遠の天国に逝くが、生き直したければ生まれ変われる。僕たちは、それだけを知ることができない。それは、できないことになっているからである。未来まで、すべて神が創造している。だが、「神にこうしてほしい」と頼んで、それを確認したのちに、僕たちは生きている。

自分を認めなさい。あなたは、そのままでいい。あなたは、あなたのままでいい。

自分を認められないのであれば、どのような自分に変わりたいか、その自分になるためにどうすればいいかを、普通に考えなさい。

みんなから評価される賢い自分になるよりも、自分の過ちや愚かさを認められる人間になりなさい。

自分に認められた権利を、自分から失うことで、はじめて得られることもある。他人に対して権利を行使するのではなく、他人がその権利を行使できるようにするために、自分の権利を自ら失うこと、そこに、「本当の平等な自由」が芽生える。

人々がそれぞれ、自分の自由を失って全員の平等を尊重できた時に、はじめてこの世界は平和になる。

子供には、「自らができていると自分で思える実感」と「自らが本当にきちんと理解するまで努力する喜び」を与え、ものを作ったり芸術作品を作ったりする「作る喜び」を与えなさい。

そう、それだけがあれば、この世界は平和になる。自分の分かったことを他人にも教えたいのであれば、決して人々の自由を制限しないこと。そこから、「個人の尊厳の尊重」、すなわち「個人の自由」を尊重した上で、「それぞれが自分からする」という「自由な社会」、すなわち「自由参加の社会」が生まれるだろう。そして、そこで社会のことを正しく築くための方法を、僕は「新しいプラグマティズム」と呼ぶ。

僕たちは、この世界で、みんなと無関係に生きることはできない。違ったものは仲間外れにされる。だが、僕だけは、誰のことも仲間外れにしない。僕だけは、誰のことも違うからといって排除しないし、無視しない。僕だけはこの世界全員のことを、自分自身のように愛することができる。価値観や考え方が違っても、僕だけは「全員が納得する答え」を作り出せる。そう、僕だけは違う。そして、その「僕だけが違う」ということこそ、本当の意味での「プライド」であると同時に、つまらないサタンである。だが、僕は誰にどれだけサタンと言われても怖くない。僕たちは神の王国を作る。そのために必要なのは、「全ての自由な体験を知る」こと、すなわち、「全部の社会の歴史と過程を知る」ことである。

言っておくが、完璧な社会や完璧な国を、何ひとつ体験せずに机上の空論で作ることはできない。実際の社会で、築いてみなければ分からないこと、自分で作り出さなければ分からないことはたくさんある。僕たちはインターネットという新しいテクノロジーを持っている。インターネットは、SNSいじめに使うことやフェイクニュースに使うこともできるが、本当はもっと多くの素晴らしい素敵なことに使える潜在能力を持っている。僕たちは、「インターネットを正しい目的のために使う」。それによって、全ては正常になり、透明性は確保され、自分勝手な人間は自然に消えていき、僕たちは精神的に成熟して、誰のこともいじめない、迫害しない、仲間はずれにも置いてきぼりにもしない世界を、みんなのひとりひとりの力で実現できる。そのためには、正しい方法を知らなければならない。ブッダソクラテスの言うように、「煩悩を生み出しているのは無明」であり、「正しい方法が何かを分かっている人間は正しいことをする」からである。そして、物理学が証明するように、「一度正しいとされたことは再現された時に常に正しい法則となる」。そして、マルクスが言うように、「全ては歴史の必然」であり、歴史の中で起きた全てのことは、その場にいた人々から見れば当然であると同時に、今の僕たちの社会のことまで見通したものではなく、古いものは変えていかなければならない。今の僕たちが居る、ということが全てであり、かつてあったことは全て正しいと同時に、未来までは分からないという「限界法則」が個人個人の中に、確かに存在するからである。人間には、人間であるという意味での限界がある。その限界は、後世に生きている人々にとっては、容易に超えられる。僕は、未来の可能性を信じている。

そもそも、僕が僕であるということ、僕が新しい僕になるということは、どういうことなのだろうか。「僕」と「世界」の間にある違いとは何だろうか。「僕」にも「世界」にも同時に当てはまる法則とは何だろうか。それは、「未来のことは分からないが、過去に自分のしてきたことは分かる」ということであり、「他人に偽証することはできるが、自分に偽証することはできない」ということである。そして、「世界を作る、ということは、すなわち、僕を作る、ということ」であり、「世界とは僕が見ている世界に過ぎず、世界は普遍的ではなく個別的なものである」ということと同時に、「僕とは世界における普遍的な経験や世界と関係する中でのみんなとのかかわりあいの中にあるものである」ということである。これが意味することは、「僕と世界には共通する法則がある」ということであり、それは「存在とは僕であると同時に、僕は世界であり、同時に世界とは存在である」という「三項関係」が成り立つ。すなわち「世界=存在=僕」なのである。

ただ、これはあまり意味のない言葉の付け替えに過ぎない。言えることは、「世界が僕を生み、僕が存在を生み、存在が世界を生む」ということである。そして、「世界と存在と僕は、宇宙における同一の現れ方の違いである」ということであり、「アイデンティティと概念は存在の創造性を成り立たせる」ということである。

これでは、ただの言葉を作っているだけであるから、歴史について考えてみよう。歴史において、存在、世界、自身、価値観などは、全て作り替わっていく。ここで、「存在や世界は歴史の一部」であり、「自身や価値観は歴史の創造者」である。よって、自身は存在を作っているし、価値観は世界を作っている。そして、それは時間の流れという「たゆむことのない流れの中で形成される」ことであり、どこかの時点が始まりでも終わりでもなく、「いつまでも常に流れ続ける」ものであり、始まりも終わりもなく常に生み出され続けている。そう、そこで人々は「自分のことを世界だと思ってアイデンティティを作り続けている」。同時に、「アイデンティティをもとめて彷徨い続けている」。そして、「アイデンティティが生まれたことで、それに執着をし、世界が見えなくなっている」。そう、僕たちはこのように生きている。これこそ、「アイデンティティの地獄」である。僕たちは、このように「無始無終の自由の刑」を永久に彷徨い続けるのである。そして、あることの全ては「魂のレベルでの必然」であり、それは「神の導きに見えて、すべて自分が作り出したまぼろし」なのである。

昔の自分は、これで全て書いた。他には、環境や精神を想定して分かっていただけである。

昔は、自由な世界や環境、精神や学習や社会について、さまざまに知りながら想定することで分かっていた。

しかしながら、最近はそういう社会や環境が、日本から無くなっている。この理由は、「変わりすぎたから」である。

それぞれの社会が変わりすぎ、別々のものになりすぎたから、共通する部分が小さくなったから、「環境」というものが無くなったのである。そのせいで、環境に適応できないのだ。

だから、僕はこの世界の環境を、いったん同じものにする。完全に同じにすれば、全て最初に戻る。そこから、まだ始めればいい。神を信じなくなると、すぐにそのようになって、「神々の黄昏」が起きる。まさにヘーゲルの言うように、男たちには「人間の掟」、女たちには「神々の掟」がある。昔が男で、今が女である。