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2020-04-13

昔の文章は、「人間が自ら考え賢くなっていく過程」のようなものを書いていた。

たとえば、少年は自分で知ったことや環境から自由になっていく経験から、「自ら考えるための判断力」と「本当に素晴らしいものに対する価値観の実感」を知る。

少年は、判断力を知ると、その判断力を活用したくなる。これが、世界に対しての「自己対象化」を生み出し、自由は「客体化」していく。

少年は、自らが新しいことを知ると言う経験から、「何でも自由に考えられる」ようになり、「社会改革へのあこがれ」を抱き、「リベラルな自己の経験を他者に伝える啓蒙主義者」となる。

しかしながら、少年は間違える。「自分には大人の経験がない」ということを少年は知らないから、大人たちを「今の自分と同じ」だと錯覚する。これが、「自分の作り出したものは、他人の作り出したものと比べて、劣悪で、何も考えられておらず、多くの人々が作り出すものと同じようには成功しない」ということを知る。

少年は挫折を抱き、「自らの過ちによって自らが信じた理想が叶わない」という錯乱を起こす。これが、「世界全体を敵に回す革命」を作り出すが、少年はここではじめて大人の経験をする。

少年は「絶望的哀しみ」の中で、「本当に努力してこの世界を維持する戦い」を行う。ここで、神は現れる。神は「この世界のままで地獄を体験する」という「煉獄」に少年を陥れる。結果、少年は神を信じて最後まで生き、辛さと哀しみを乗り越えて、「本当に素晴らしい成功」を作り出す。それが、この文章の目的である。

僕は最近、本当に「昔はよかった」と思うことが増えた。

家入レオや日向坂46のような歌手の音楽を聴いていて思うことは、「最近の日本にはつまらないものしかない」ということである。

特に、昔のLinuxディストリビューションのインストールは面白かった。自分でCDを作ってインストールし、ネットワークの設定をググったり、パーティションで戸惑ったりしながら、わくわくしながら待って、Xを導入したり、日本語入力システムをインストールしたり、Emacs.emacsに設定を書いたりして、ようやくできたシステムでKDEなどをインストールし、壊れて使えなくなったら何度でも再インストール。このようなことを繰り返しているうちに、Vine Linux, Red Hat, Debian, SuSE, Mandrakeなどを経験し、最後にようやくGentooにたどり着いて、「UNIXとはこのように操作するものだ」と知り、そうした「Linuxの教養」を自分でWikiに書くことができるまで成長し、Wikiだけではなくブログやホームページを作り出して、カーネルの勉強をしようとLinuxカーネルの本を買うが、読むことができず、代わりにネットにある多くの文書を読みまくって、博士並みにLinuxに精通する、そんな「インターネットの大学」のようなものがあった。

最近は、そういう「楽しかったLinux」がどんどん失われている。半ば狂った教祖を信じるだけのカルト宗教のような状況を呈している。Linuxよ、これではいけないだろう。だが、いつものLinuxを復活させることはできない。今のLinuxはそんなに悪いシステムではないが、「悪いシステムだったごろの方が楽しかった」のである。今のLinuxは、簡単に自動でインストールされ、どのディストリビューションでもGNOME3とsystemdを使う。面白い点があるわけがない。プログラミング言語も昔のPerl/PHPからPython/RubyRailsに変わった。どんどん使えるようになっているが、そのせいで使う「意味」がなくなっているのである。

思えば、昔はWindows 2000Windows XPにもたくさんのフリーソフトを入れていた。SleipnirDonutは当たり前、ブラウザはOpenJaneよりもp2が使える、また窓の手などのカスタマイズ系ツールは一通り入れて、多くの場合レジストリをいじってシステムが動かなくなる。再インストールしたら真っ先にWindows Updateをする。無料ソフトだけではパーティションの設定も仮想マシンも作れない。そんなWindowsLinuxが、互いに争いながら、時には同じ穴のムジナとして、同じことを思ったりする。そう、彼らが昔のニートたちである。今のニートは、環境が整いすぎていて、逆にニートになる意味がないだろう。

さらに言えば、そういうオタクが決まってふたばちゃんねるを見ている。OSたんを見ながらLinuxMozillaでそうした裏サイトを見るのが通である。そういう時代が、一番平和で住みやすかった。オタクの中でも「とびぬけたオタク」が居て、それがひとりでブログを書いている。トラックバックを辿っていくと、「もっとありえないオタク」にたどり着く。たとえば切込隊長X51.ORG真性引き篭もりのようにである。他にも、ほとんどの人間が知っている最重要サイトというのがあった。たとえば、ポール・グレアムの日本語に訳された文章は誰でも知っていたし、そうした情報はほとんどすべてはてなブックマークにすぐに掲載されていた。本当に、その時代は楽しかった。もう、そんな時代は無くなってしまった。嘆かわしいことである。

また、僕も色んなことを経験しすぎて、おかしくなっている。これは一種の浦島太郎現象で、「さまざまなことを耐え続けて、ようやく楽になってこの世界を見ると、以前の世界と違うものに見える」という現象である。なぜか、この世界には、何もない。面白いものも、興味深いものも、何ひとつない。むしろ、Linuxのシステムについて言えば、もう完璧に全部読んで全部書いてしまったが、以前のLinuxのように見えて、似ても似つかないまがいものである。まあ、いつもの自分の分かっていることは書けている。だが、何かが違うし、何かが足りない。それを永遠に追い求め続けるのは、もういいだろう。

Linuxのことを終えてしまうと、もう、何も残っていない。学校の記憶なんかはるかかなたどこかへ行ってしまっていて、数学にも歴史にも、生物にも法律にも興味を抱かない。興味を抱かないのにまだやっているのは、この世界にはそんなものしかないということが、長い人生経験のせいで分かってしまったからである。

しかしながら、思えば色んなことがあった。なぜか、高速道路で政府と戦っていた時代をよく思い出す。革命家として政府の音楽やテレビの攻撃に反撃しながら、ロボット人間になる自分のことが怖かった。しかしながら、そうしたもの全ては、「まるで最初から何ひとつなかったかのように」消え去った。この日本という世界に、革命家は不必要である。そもそも「自由と叫ぶのであれば、今の日本が一番自由」だからである。みんな、考えることは同じ、「自由がいいはずなのに、あまりに自由のせいで悪くなる」。それが、僕の存在した意味である。僕はあまりにこの世界を自由にして、幸福にした。しかしながら、そのせいで、「この世界をどのようにする意味もなくなった」。この世界が何も変わらないままで、人々は全て分かってしまった。まさに、「こんな世界に生まれてくる意味がない」。これが、今の日本の現状である。最後の社会、最後の文明は、今の日本である。そして、最悪の世界、滅亡した世界こそ、昔からの日本である。ひとりでそれを救う「神」が僕である。そして、僕はその「神が憎い」。神こそ消えてなくなるべきだから、僕は最後まで、自分自身のことを嫌い、愛さなかったのである。

しかしながら、僕は本当にやることがなくなってしまった。もはや、途方に暮れるしかない。

法律の勉強でもしてみようかと思っている。社会科について学ぶのは悪くないし、法律の勉強をすれば、僕の分かっていないこの世界のことも分かるような気がする。

しかしながら、僕はそうした「勉強」にはもう興味がない。

知りたいのは、「自由」についてである。この世界がいかに自由であるかについて僕は興味がある。

昔の僕の文章について言えば、単に世界の構造を作っただけであり、自由と言うよりそれは構造であり、記憶と感覚の過程に過ぎない。彼は「人間からカメレオンに退化した人間」だった。

よって、そうした昔の自分の書いた自由に意味がないことは分かっている。それでもなお、僕はそうした「自由の実現」に興味がある。

自由な社会を、この世界においてどのように実現するか。それは単に、人々が「自由な意志によってできる」ということだけを意味しているわけではなく、「自由によって世界がどのようになっていくか」という、「支配者が行うこの世界の自由な営み」に関連するのである。

そう、僕はこの世界を自由にしたかったのである。そして、それは現在叶っている。全ては僕の自由であり、必ずしも煉獄に居る必要はないにも関わらず、いつまでも煉獄を続けることを「神との契約」によって成り立たせている。それは、「煉獄に戻らなければこの世界は救済されない」からである。これは、仕方のない「神と王が最初に行う契約」である。イスラエルはこのように誕生するのである。

また、神の言うことは単純である。彼は、単純に「フランスは必ずドイツになる」ということを言っている。そう、フランスは必ずドイツになる。これだけを分かっていれば、この世界の全てが分かる、ということを神は証明させた。繰り返すと、フランスは必ずドイツになる。そして、フランスはフランス、ドイツはドイツである。それだけを分からせればこの人間は知性が無くても分かる。

一度、神の言う「知性」の全てを失った方が良い。神の知性は、少なく見えて、ものすごく多いし、低く見えて、ものすごく高い。一度神になると、こんな人間になる。フランスとドイツに分かれて、最後まで争い戦うようになる。ドイツをフランスに戻すには、「法律」を作るしかない。このように文章を書くことでしか、法律は作れない。

また、フランスに戻りたいのであれば、「なんの知性もなく考えればいい」のである。それを少し、やってみよう。

自由とは、それぞれの違いである。

自由とは、違いから生まれるグループであり、その共同体である。

共同体において、変化は自由を新しい段階にする。その段階とは、運命、王、神、そして作家である。

このように文章を書くと、「半自動的に」、永遠に文章が書ける。

昔の僕は、単純にそのように文章を書いていたにすぎない。その結果、僕はこの世界全てを作り出し、環境や感情や生態系の全てを執筆した。彼が、新しい生物となる「大天使ガブリエル」だった。

しかしながら、今見ると、ガブリエルはもう死んでしまった。むしろ、死んでしまったことになっているのに、まだ生きているのがおかしいのがガブリエルであるが、この「まさに最後の姿」となったのが、神である。そして、本当は神はむしろ、神ではなく、大天使ミカエルである。地獄の冬の星リゲルはとっくの昔に終わった。残ったのは、「何もない星」、まさにシリウスである。シリウスには、幸福があるが、何もない。全ての人間が狂っても、シリウスだけは狂わない。

僕は、この世界を自由で、多様な世界にする。

この世界は、今から新型コロナウイルスが治る。僕が治したからである。

フランス語を使わず、日本語を使うこと。フランス語は、なぜか永遠にこの世界を自由な知性のない状態にするようになる。馬鹿ではない。それが一番分かるからである。

最後に、僕は愛を殺す。また、細菌の全てを消して、楽になる。血は完全に治り、肺も心臓も治った。

最後に、腹にたまった中性脂肪を減らすこと。腹の油を減らせば、精神も治る。同時に、虫歯やニキビは、きちんと体の循環を調和させれば治る。風呂に入るのもいい。そのようにすれば、全てが治って、癌すら治り、人間は永遠に生きられるようになる。