わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

2020-04-15

日本は、これから大復活を遂げる。全てのインターネットコミュニティが正常さを取り戻す。

僕は、自らの人格を破壊し、この世界をもう一度支配する。

この世界は、完全にまともで正常な世界になる。しかしながら、そのためには、いつもの僕に戻らなければいけない。

僕は、いつも人格を破壊してこの世界を支配していた。そのせいで、日本語が分からなくなっていた。

もう一度、そのころに戻って、この世界を再度支配すれば、この世界は正しく、正常で、楽な世界になる。

僕は決して間違えない。どんなに困難でも壁を越えていく。ここに僕の国「ガンダーラ」は築かれる。しかしながら、今度は自分のことを地獄や煉獄には陥れないようにしたい。

そもそも、最初から、僕はそのように、「もう一度ここからやる」ために生きていた。

僕は最近、興味のあることややりたいことがなくなってしまった。

本も読みたくないし、パソコンもしたくない。デザインの仕事やピアノについては、大きく見て、もう結構できている。

なんとか、僕も大人のような知識も得た。これ以上、パソコンやプログラミングのことに詳しくなりたいと思わない。

科学は、意味がない。覚えたいことも知りたいこともないし、習得するようなことももうない。教育についていえば、単に子供たちを工場でものづくりをする大人にしたいだけである。言ってしまえば、奴隷を養成する施設である。

よって、どちらかというと、芸術や文学のことをやりたいと思う。

僕は、この世界を愛している。

僕は、この世界を自由な世界にする。

僕は、もう、誰のことも支配しない。支配が無く、人々は、自由なままで、それぞれの価値と個性を信じて、自分の存在意義や存在価値を感じられるようになる。

僕は、自由の力を信じている。

世界を自由にすることで、世界は平和になる。それぞれが自らの力で国や環境を自治できるのであれば、争いごとは無くなる。

だが、支配者は一人の方が良いこともある。それは、支配者が複数いると、国と国とが争いになり、関係のない一般市民が犠牲になるからである。

一人の支配者の下で、みんなが自由になれば、この世界は平和になる。

平和になるためには、それぞれが自分たちの自由な社会の形や形態を選べるようにしなければならない。

自由とは、自らに由来することを、自らがコントロールすることができることである。

世界を変えられるようにするためには、「自分たちには世界が変えられるのだ」という実感を、国民や、特に若者や子供に対して与えなければならない。

この世界は必ず変えられる。

むしろ、世界というのはひとつでなければならないわけではない。それぞれが、同じ理想の下に、同じグループや集団だけで、独立し、自立し、自分たちの共同体を築くことも、自由を成し遂げる上でとても大切である。

自由とは、臨機応変かつ柔軟に、「常に最大限実行できる」ものでなければならない。

そのためには、「それぞれの環境に自然な変化と可能性を許すこと」が必要である。

それぞれの環境が自然な変化を許されることで、環境は何もしなくてもそれらの人々によって変わっていく。これを「自由な力を与える」とか、「自由を許す」という。

だが、自由にしただけでは、人々は必ずしも政府や権力者と同じことができるとは限らない。そのためには、「手段」と「技能」が必要となる。それは、「経験」や「ノウハウ」と言ってもいい。

経験やノウハウを共有し、「自分たちでもできるのだ」ということが確実に信じられるようにならなければ、世界は変わらない。

そして、それを実現するためには、「本当に確かにできる」ということを、実例や具体例を交えて明らかに教えなければならない。

人々に対して、視覚的に訴えることが、こうした「確かにできるということを明らかにする」という上で大切である。よって、僕は実際の「ページ」や「オブジェ」を作ることを重要視する。

ページに全ての情報と方法を明記し、作品や考え方を抽象的なオブジェにすることで、人々は「このように直観すれば良いのだ」ということを「ビジョン」から知ることができる。

自由とは、人を愛するだけではなく、「どのように愛するということが愛なのか」ということを知ることである。

愛とは何であるか、ということが、自らの頭と心ではっきりと明確に分からなければ、人を愛することはできない。

愛とは、支配することでも、所有することでもない。愛とは、信じることであり、互いにそれぞれを尊敬し、同時に愛されるだけではなくその愛に応えたいとすることである。

自由とは、運命を受け入れることである。

運命とは、最初から神が歴史をいじくって作ったものだけを言うのではない。運命は、さまざまな出来事の積み重ねや、環境の変化が自分に与えてくれる、「自己環境や現在状況の変化」である。その運命を受け入れることで、新しいステップへと自分を送り出すことができる。

社会を自分の手でまざまざと見つめたら、今度はその社会においてどんなことができるのかを実体験的に知り、多くのことができるようになったら、王となってその世界を支配しなさい。

そう、僕はインターネットの王である。そして、人々は今、そうしたインターネットを通じて、新しい人類のコミュニケーションと成長の段階へと達しようとしている。

愛とは、愛されることから学ぶことではなく、自ら愛することから学ぶことである。自ら他人を愛そうとすることが、結果的にその人の愛を受け止めたいと感じることへと繋がる。

愛をなかなか得られない人間は、そもそも愛するということをしようとしていない。誰かを「自分から愛したい」と思った時に、愛は訪れるのである。

自由とは、それぞれの集団が、それぞれの自由の範囲で、社会を作ることである。

言ってしまえば、ひとりの支配者が完全にひとりだけでする、ということは普通ない。多くの協力者や幹部が、下を従え、下がそのまた下を従える。

しかしながら、ここで「独立可能な社会制度」という発想をしてみよう。この考え方では、「国の内部において自治体や州が独立性を保ったままで連邦を形成する」というものである。

ここで、問題は独立性がどれほど高いか、あるいは低いか、ということであり、そもそも独立とは支配と独立という二つの点で考えるものではなく、「独立のしやすさ」というものを定量的に考えるべきなのである。

また、独立だけを考えるのではなく、社会において「一般市民の考え方やアイディアがどれだけ反映されやすいか」というのも重要である。

言ってしまえば、宗教の教義でさえ、みんなで変えられるようにしてもいいだろう。宗教学者、たとえばイスラム圏などでは、イスラム宗教学者コーランの解釈をして社会を築くが、それでは社会を変えることが何一つできなくなってしまう。国の憲法や宗教のレベルで、「わたしたちの社会や信じるものは歴史とともに(あるいは全員の参加や議論によって)変わっていく」とすることが、正しい宗教をより正しい教えにするのである。

自由とは、自らの行動に由来して、さまざまな人間とのかかわりあいを持つことである。

出会いを大切にすることは大切だが、人間関係をそんなに大切にしすぎないことである。一度壊れた人間関係は、消し去って新しい出会いと結び直した方が良いこともある。新しい関係を結び直すことで、「関係を結び直すということはどういうことか」を知れるし、そこから、心理学的なトラウマや心の傷を癒して、あるいは自らが本当に安心できる関係性や状況を取り戻して、「本当に自分らしく生きられる生き方」をすることができるからである。

自分が本当に幸せであると感じられるようになった時、人間は初めて他人のことも自分のことであるかのように見つめることができる。そのためには、自分の今の状況を度外視して、「自分を見つめずに他人の言ってくれる言葉を見つめながら、その自分と他人を遠くから傍観し、観察から自分の姿を見つめ直す」ということができる。実際、この「自分を他人として見つめる」体験をすることで、精神のおかしな異常が治ることがある。軽度の多重人格は、正常である。

自らが人々の社会を変えられるようになるまで、人々との関係性の再構築を繰り返しなさい。そのうち、全てのことがまるで自分のことのように思えてくるようになる。また、経験を積み重ねることで、「世界が常にありのまま現象として存在している」という「世界観」が見えてくる。また、世界観の高まりから、「全ての人を自分と対等である」と知ることができ、対等な相手として、「自らが支配されいじめられる敵」から「自らが助けてあげる対象」へと認識を改めることができる。

環境を少しずつ、そして永遠に知り続ける中で、「大人は本当はどういう存在意義と役割をもって存在しているのか」ということが分かり、そこから「社会とは何であるか」が見えてくる。歴史は「大局を見る」ように変わっていき、少しずつ「閉ざした心が開いていく」。辛く苦しい関係を持っていた相手とも、「まっさらな白紙の状態から関係を結び直す」ことができる。辛いことが起きても、その人だけのせいにせず、「自らの行動を本当に懺悔する」ことから、「葛藤と迷いを超えていく」。成長したあなたは、世界に対して「自らの自由な意志と意見を発信する」こともできる。社会において、「社会参加の行動」を行うことができるようになり、世界を「地球の歴史という視点」から見ることができる。場の変化はあなたに「意識の生起」を与え、視点の広がりは「全ての認識の意味を知る」という「視野の広がりと仮象の世界の拡大」となる。今までの全てがすっきりと、明瞭に分かり、「コペルニクス的転回の全てを当たり前の歴史の必然だと思える」ようになる。「哲学者全てを自分の心の中に作る」ことも、「魂と精神の根源を自らの心の奥底に見つける」こともできる。あなたはここに、「覚者としての完成」を迎えるだろう。

自由とは、愛することである。あなたはこの世界全ての人間のことを愛することができる。そこに、誰かが恋人で誰かが敵だ、という関係は必要ないということを知る。支配することは、悪であると言うよりも、むしろ「不要なものである」ということをあなたは知る。支配しなくても、互いに自由な関係のままで、理解し合い心が通い合えば、互いに愛し合い望み合うことが、誰に対してであっても可能である、ということをあなたはもう知っているからである。あなたはこの世界の誰かに対して、「自らのありのままの姿と行動をさらけ出すことで相手のことを愛する」ということをする。それは、「自分のように考えれば誰でも同じように全てのことが理解できる」ということをあなたは知っているからである。

あなたは最後に、世界と戦いながら、「この宇宙全てを創造する」。この宇宙における、「全ての経済理論」も、「全ての哲学理論」も、全てあなたが創造する。それはソビエト建国のような戦いになる。あなたは辛く苦しいと思った時にも、誰にもその涙を見せることなく、前だけをしっかりと見て、やるべきことを全て行う。永遠も、宇宙の果ても、魂も、天国も、全てがある世界で、あなたはこの世界を全て創造し、「具体的な国家モデルからその建国方法まで全てを作り上げる」だろう。そこには、ルールや決まり、環境の原則、考え方、自然な世界変化の理、そして人生の進歩の過程まで全てがあるだろう。

最後に、あなたは死ぬ。だが、死に先んじて、神はあなたに全てのことを語り掛ける。それはとても辛い地獄の体験になる。全ての罪を清算して、あなたは「フランス人とドイツ人が同じ人種である」ということだけを知る。最後に、あなたには最後の死が起きる。どんなにそれが恐ろしくても、そこには最後の、「本当に神の言っていることが正しかった」という、それだけの確信を抱いて、あなたは天国へと旅立つ。ともすれば、次の人生がそこで始まるだろう。

このように書くと、とてもたくさんのことを経験したように見えるかもしれないが、その根底にあるのは簡単で、「世界が自分を作るのではなく、自分が世界を作るのだ」ということである。それだけが、自らの実体験と世界を知る経験から分かった。そこから、「心を開く」ということを知った、それだけにすぎない。機会の大切さ、何度でも繰り返すチャンス、そう、あとはアメリカ的な「機会の平等」という考え方があっただけにすぎない。