Assyのリベラル文学研究所もご覧ください。

政治経済

権力は役人を使い国民を支配する力

そもそも、権力とは何か。権力とは、行政の政府や与党の国会議員を従えて、自分の力にする力です。
たとえば、イギリスのジョンソン首相。EUからの離脱が延期となるかもしれず、また総辞職もできませんでしたが、彼は政府の長であるため、政権与党は何らかの対抗策を考えます。
こうした時、首相は権力を使うことができます。まさに、役人や公務員の力を使って、自分の力として従えることができるのです。
また、従うのは役人だけではありません。国民、国内経済、そして軍隊や警察を従えることで、敵を倒し、悪い人間を逮捕し、税金を会社から取り、国民を支配することができます。これが、権力の力です。
権力は、悪い人間が握ると危険なことができます。ヒトラースターリンなどの手に渡ると、ひとりだけで全権を握って国を支配することができます。そのため、権力者は良く考えて選ばなければいけません。これが、「良識ある民主主義」です。
ですが、こうした独裁者は何でもできるため、独裁を声高らかに宣言して支配する指導者は、歓声によって迎えられます。しかし、良いことをするとは限らず、多くの場合独裁者は失敗に終わります。これは、他国との外交政策などとも関連し、革命政権はすぐに王国政権が「周りから介入する」からです。このため、独裁政権は必ず軍事政権になります。
そもそも、役人は政治家には何でも従います。そもそもが権力者に従うだけの職業なので、政治家の答弁すら代理で作成しています。何をしろと言われても、反することはありません。昔は「役人主導」といって役人があれこれと提案していましたが、「民主主義の意味が無い」といって政治主導が唱えられてからは、役人は自分で何も考えずただ従うだけです。

政治思想は、どんな思想の下で国を作り、どの側につくか

また、政治思想とは、どんな思想の下で国を作り、どの側につくか、ということです。
みんなの国にするのであっても、帝国の王に従うのか、民主主義のみんなの政府にするのか、それとも、革命家や革新思想によって「政策のチェンジを図る」のか、といったように違います。
保守・革新とよく言われるのは、今のままの方が良いのか、革新思想を行うのか、ということです。
また、どの側につくのか、ということは、多くの場合、王と啓蒙思想のどちらにつくのか、あるいはアメリカとソ連のどちらにつくのか、ということです。
ですが、彼らは政治家です。日本という国を発展させたい、という信念は同じです。そのためにアメリカにつくべきか、ソ連につくべきか、王を倒すべきか、王に従いながら政策を変えるべきか、などといったことで争うのです。

法の支配と人の支配

僕が自分自身を反省する言葉として、「法の支配」と「人の支配」がある。
まさに、僕は人の支配をやりすぎた。自分が絶対者であることが前提であり、人が全てを決め全てを行うのは、間違っている。LinuxカーネルのようなIT開発のプロジェクトであれば、それでも成り立つかもしれないが、この世界をきちんと統治するためには、きちんとした法が必要である。
よって、憲法を定めよう。
1.他の人間を傷つけたり、殺したり、自分よりも下に扱ってはならない。
2.社会を決めるのは、独りの独裁者によるものではなく、全員の民意を反映したものでなければならない。
3.一部の人間を奴隷として、権利を平等に与えないのではなく、全員に同じ権利を与えなければならない。
4.人々の自由よりも、誰か独りの権力の方が強く、上になり、支配的になり、独占的になることは許されない。
そう、こうした法の支配による平等な権利、それが民主主義である。たとえ多数派であっても、誰か特定の人や集団だけを批判したり、抑圧したり、迫害したり、権利を奪ったりしてはならない。
一般的に言われる自由とは、その個人の「自分の自由」である。その自分の自由という発想も、自由に言論したり表現したりするために必要だが、重要なのは、「自分に認められる自由を、誰か他人よりも優越的な権利として、他人に同じように認めないことが、あってはならない」ということである。そう、GPLのようなコピーレフトのライセンスは、そうた「共通の全員に認められる自由」という平等を行いたいのである。
また、憲法を定めるのであれば、社会のことも定めるべきである。よって、
5.社会は誰か一人のものでも金持ちのものでもなく、みんなのものである。
6.誰かひとりが得をして、その他大勢が損をしてはならない。
7.誰にでも必要なものは、全員の力で作らなければならない。
8.言論や選択の権利を与え、そして社会をその関係する人々の合意の下に民主主義の下に統治されるように、分割し、個別化し、金銭で交換することは、「平等な自由の権利」として、必ず認められる。
とする。また、人間の権利の問題として、
9.人間が人間的に生きる自由、すなわち、不当に逮捕されず、奴隷にもされず、強制的な労働も受けない自由を、「社会」は与えなければならない。
そう、こうした考え方は、むしろ、僕がひとりで決めるのであれば、まだ「人の支配」から脱し切れていない。よって、民主主義の下で法律が決められなければならない。
10.全ての法律は、民主主義的なプロセスを持って、誰か独りの独裁者によるものではなく、国民の総意によって決められる。
11.多数派の思想や決まり事について、別の側面や立場から、別の政党を作ったり、別の意見を言ったりすることは、許される。
そう、こうした憲法を作らなければ、人間は平和にならない。それが、ドイツとフランスの歴史の違いである。ドイツの歴史は、人間の支配から脱し切れていない。フランスの歴史は、法の支配を掲げている。

政治は利害関係の調節の手段

政治とは、利害関係の調節の手段です。
政治家が権力を持つことを支え、与党が選挙に勝っているのは、国を良くする正しい施策を持っているからではありません。そういうことにはなっていますが、それは建前の話で、実際はその党派や勢力を支持する、その党派や勢力が勝つことで利益を得られる支持基盤となる集団が、その政党や勢力を支持しているからです。
要するに、自民党が勝てば自分たちの利益になるような人たちが、自民党の政治家に票を入れている、というだけの話にすぎません。
確かに、アベノミクスをやってみたり、憲法改正を言ってみたり、たくさんの「自分が勝ったらこういうことをする」ということは選挙で言いますし、実際にも政治の舞台で議論すると同時にそうした政策をやっていますが、それは多くが「選挙に勝つために言っている」ことにすぎず、また政治の舞台でやっていることは「強いものにつきながら官僚の言うとおりに言い決めているだけ」です。
政治とは、利害関係の調整の手段にすぎません。ですから、貧困層社会主義政党を支持することは全く悪いことではありません。資本家や裕福層が自民党を支持するのは、税金を取られず、自らの儲けるやり方に政治が合致すれば、もっとたくさんの儲けや利益が得られるからにすぎません。
ただ、政策として国をどのようにするべきか、このようにしなければならない、ということは、政治経済の仕組みとして確かにあります。そうした「どこの政党につくわけでもなく、自らの信念の通り政治をやって、国を良くしたい」という政治家はたしかに居ます。ですが、政治はそれだけではできません。さまざまな「直接的な駆け引き」をしながら、「地盤(後援会のような支持者と人脈)、看板(知名度)、鞄(お金)」がなければ、政治はできないのです。

権力は他人を支配し服従させる能力

また、権力は他人を支配し服従させる能力です。被支配者に対する強制力を行使する力です。
戦国時代などでは、権力はそのまま兵力であり、戦争において相手を圧倒する力でした。互いに兵隊を従え、民衆を隷属させることで、「自分の力が巨大になる」という証であると同時に力でした。
現代では、権力は特に、「政治権力」となります。「自分たちの勢力が相手に勝つ力」となって、政治において「自分たちの勢力に有利なように制度や決まりを決める」という力になっています。
また、自由主義においては、権力者はそのまま決定者になります。これは社会主義でも同じです。ひとりの権力者が力を持つと、全てがその人間の好きなように決まります。これは自由主義における「自由」です。「自由=政治的権力」であるということが自由主義の特徴です。
民主主義では、こうした自由主義の政治的権力を否定しません。ですが、「民衆の代表が選挙で権力者を選ぶ」ことで、「民衆の意見や利害に基づいた形で権力が行使される」ということを目指したのが、主権在民(主たる権力は民衆に在する)の民主主義国家です。
また、権力による強制力は、多くの場合警察による「逮捕」に結び付きます。自分の敵や競争相手を逮捕し、自分の有利に事を進めようとするのです。ですが、不当な逮捕を防ぐために、「三権分立」という制度があります。三権分立では、立法、行政、司法が分かれており、共産主義国のように敵対する人を立法府が司法府を兼ねて勝手に裁くことはできません。ですが、北朝鮮ナチス・ドイツのような政権では、ヒトラーに従わないもの全ては逮捕され、全権を握ってヒトラーの言うことを聞くしかなくなり、国民は何も言わず沈黙するしかなくなります。これが権力の恐ろしさです。

経済は分配の手段

また、経済とはものの分配の手段であり、ものを生産・消費・分配する社会的関係のことです。
多くの場合、経済はお金による資本主義経済になります。資本主義経済の中で、どのようにものを生産し、消費し、分配するか、そのためにどのような社会にし、制度にし、何を目指してどのような目的と結果を得られるような手段を行使し、そうした経済の前提となる社会やシステムをどのように築いていくか、ということです。
経済は、多くの場合政治と結びつきます。利害関係において多数派が政治で勝つとなるように、経済も多数派のための経済になります。多くの場合儲かっている大企業のための経済政策を取れば、平等な社会福祉のような政策は置き去りにされます。それは資本主義と社会主義という「政治的思想」(イデオロギー)が矛盾し、どちらかの思想の通りにやれば、どちらかの思想がそれに負けてしまうからです。
資本主義の経済では、現代ではミクロ経済学マクロ経済学の経済理論に基づいた経済を行います。これらは家計や企業など個別の小さな経済領域(ミクロ経済学)と政府や社会全体の大きな経済領域(マクロ経済学)に分かれた経済学です。他に計量経済学や、社会主義マルクス経済学などがあります。マルクス経済学では、「労働価値説」と「剰余価値説」をベースに、資本家と労働者の従属的な関係を契約と考え、資本主義が破綻した時に計画経済と社会所有と平等分配に基づいた社会主義の「金でない経済社会」に移行すると考えます。
このように、経済学はさまざまな「分配(再分配)の方法」を考えますが、現代の日本では経済学的な分配だけではなく、社会をどのように守っていくか、発展させていくか、企業と家計をどのようにバランスを取り、国全体を支えていくか、という意味で「経済政策」を考えます。そしてそのためにルールとなる法律を作り、社会制度をみんなで決めていきます。

保守とリベラルの対立

また、現在の政治経済では、「保守とリベラルの対立」が見られます。
まず、保守派は今の社会をそのまま続けるべきだと考え、企業の利益を最大にし、多くのお金が国や企業に入るようにして、他国に経済的に勝とうとします。増税をするよりも減税を行い、再分配はできる限りせず、会社がもっと儲かることを優先します。それぞれの個人の権利や平等な福祉政策よりも、全体の利益が増えパイが大きくなることを目指します。
リベラル派は、今の社会を平等かつ自由に改革するべきだと考えます。企業のような多くのお金を持っているところから税金でお金を取り、お金を持っていないところに再分配をします。他国に対する経済的な勝利よりも、他国と自国が協調し、お互いが協力して共存したままで平和を実現します。また、儲かることよりも福祉や権利を重視し、それぞれが新しい多様な価値観を持ってマイノリティに平等に接すると同時に、高齢者や子供、障害者や貧困家庭などに対する特別な支援を行います。
多くの場合、保守派は「右翼」、リベラル派は「左翼」と呼ばれます。これはフランス革命期のフランスで、王党派が議会の右翼に、共和党派が議会の左翼に座ったことを意味しています。また米ソ冷戦時代では、西側の資本主義諸国が右翼、東側の社会主義諸国が左翼と言われました。また、特に人種差別や帝国を主張するものを「極右」と呼び、革命や社会主義経済を主張するものを「極左」と呼びます。
また、「自由」という言葉は漠然と使われますが、良く使われる例としては、保守派の言う「それぞれの自由」やリベラル派の言う「自由な権利」と言った使われ方をします。保守派は金をそれぞれが儲けながら税金を取らないことで、儲ける全体の利益が最大限になることを目指し、できるだけ社会を規制せず自由放任にします。これに対してリベラル派は、支配者に対する平等な権利を自由とし、支配されない中でそれぞれが平和な秩序を持って生きられるように、法律で社会の改善(特に弱者の社会が悲惨なのを健全に変えていくこと)と格差の是正を目指します。

中央集権と地方分権

また、もうひとつの対立軸として言えるのが「中央集権と地方分権」です。これについては、右翼と左翼の中にも対立が見られます。
特に中央集権にすることで政府が力を持つと、独裁権力が生まれますが、社会主義において資産を再分配するためには、ある程度の強制力が必要になるため、革命政権では中央集権になることが多いですが、そもそもは社会主義ソビエト体制として評議会による共同体を目指していたように、統一ではなく分権を目指していました。
これに対して右翼の地方分権では、小さな政府として中央集権の政府の機能を縮小し、それぞれの地域が「多様性と柔軟性」を持ってそれぞれの権限を大きく持つようにする「道州制」などの制度が提唱されています。
中央集権は軍事力が強くなることもあって戦前の全体主義体制でも天皇による中央集権が行われましたが、多くの場合独裁と腐敗に繋がります。ヒトラーによるナチス体制の反省をしているドイツなどでは、徹底的な分権主義が行われていますが、東西ドイツの格差問題などで課題があり、「東ドイツ市民は二級市民として扱われている」ということに不満を抱く旧東ドイツ市民がオスタルギーと呼ばれる「もう一度壁を作れ」といった過激な思想を展開し、ネオナチ団体と言い争いをしています。
資本主義や民主主義は地方分権ととても相性が良く、アメリカなどでは州によって法律や制度も違います。また当たり前のことですが地方分権はリベラル派とも相性が良く、「マイノリティへの承認と違うもの同士の多様性を推進する」という意味においてアメリカでは「右翼と左翼の大同の分権主義」が行われています。アメリカには中央集権の党は無いのです。

官僚主導と政治主導

また、国のやること全てを決めている行政機関として、「役所」があります。役所の省庁が霞ヶ関にあることから、役所のことを「霞ヶ関」と呼びます。
役人は、国民からとった税金によって、公共のために必要な事業と、制度が上手く執り行われるように事業と国民の管理を行っています。
たとえば、経済産業省では経済のことを、文部科学省では教育のことを、厚生労働省では労働や福祉のことを、そして防衛相では軍事のことを、国土交通省では交通やインフラ基盤のことを行っています。
役人は国会での答弁も作成しており、国会で大臣が答弁する答弁内容は役人が多くの場合代理で作っています。また、国会ではそうした役人の決める事業についての「予算」を決めます。予算が決まれば、役人はその通りの事業を行います。この予算は社会保障から軍備まで、さまざまな事業に対する費用を賄いますが、新しい事業を行うためには必ず「財源がどこにあるか」を考える必要があります。財源と事業が決まれば、役人はその通り従います。
昔は、官僚主導と言って、政治家がどんなことをしたいかを決めて事業を行うのではなく、官僚自身が自らのやりたいことを政治家の同意を求めて行っていましたが、これでは民主主義の意味がありません。民主主義の意味を再考するために、現在では政治家が自ら何をするかを決める「政治主導」が唱えられています。

法の下の平等

社会を考える上で必要となる概念は、「自由」と「平等」の2つです。
自由と平等は、相反する概念です。自由とは、「それぞれが自由に好き勝手にできること」であり、平等とは、「それぞれがみんな同じようにできる(する)こと」だからです。
経済においても、政治においても、自由と平等は相反する考え方とされます。
ですが、「法律」の下では、国民は平等でなければなりません。たとえば、税金を納税したくない人が税金を勝手に納めないことはできません。法律は全ての国民を平等に扱わなければなりません。
同時に、法律は国民に対する「自由な権利」も認めています。そのため、国民は自由に意見を言い、政治家をみんなで選ぶことができます。

経済の自由

また、自由と平等は、経済、すなわち「豊かさ」や「お金」についても言え、ここでも相反する考え方です。
自由とは、「できる人間の自由」であり、能力や優れた経歴や豊かさがある人間が、自由に生産し、労働し、消費することができます。
これに対して、平等は、「できない人間の平等」であり、どんなに貧しく、力が無く、経歴もない人間であっても、平等な生活を送ることができます。
一見、この2つは両立しないように見えます。できる人間を自由にして、できない人間を平等にすること自体が、自由という考え方にも、平等という考え方にも反するからです。
ですが、僕が思うに、平等においても、「金持ち並みに全員が豊かになる」ことで、自由と同じぐらい、豊かな生活を送ることができます。
こうした考え方は、現代の民主主義においても社会主義においても、主流になりつつあります。日本は、資本主義において「一億総中流」を実現し、中国は「豊かで自由な社会主義を行う改革開放政策」として、余剰分を働いたらその利益は自由に自分が得られるようにしました。
アメリカやロシアは、自由と平等を殺し合いのような「矛盾した考え方」としましたが、僕は豊かな上で平等にすることで、この世界の経済問題は解決できると考えます。
カール・マルクスも、「生産能力の向上とともに共産主義社会が必然的に訪れる」と言いました。僕も、そのような世界になる可能性は今でも残っていると思います。

自分らしく素直に生きられて、共同体の愛を感じられる社会を

僕は、今の日本に必要なのは、「自分らしさと素直さ」と、「共同体に自由に参加する愛」ではないかと思う。
特に、今の日本社会には、かつてあったような共同体の愛が無くなっている。人々は無意味な雑言を繰り返し、そこにコミュニケーションも無ければ、成長も啓発も存在しない。
もう一度、コミュニティに自分の意志で参加し、人々と共同体の愛を分かち合うような、そんな場が必要である。
また、自分らしさと素直さが必要である。人々は、狂ったように人のことを嘲笑し、「悪い笑い」が世にあふれている。人々は素直に笑顔を作ることもできなくなって、作り笑いを永遠に浮かべるようになっている。
本当に、自分らしく、素直に生きられる時、そこに「自分がこの世界に存在する意味」を見出せる。それが、幸福な社会であると僕は思う。
景気や豊かさでは、こうした自分らしさと素直さを得ることはできない。今から、資本主義や民主主義を超えた次元で、僕たちは自分らしく生きられる社会をみんなの手で作らなければならない。
僕は、自分らしさや素直さというものが、社会に与えられるものではなく、自分の心の内から表れるものだということを知っている。だが、その心を形成するためには、人々と共同体で関わり、自分を認めてもらう体験をしなければならない。それがなければ、自分らしさや素直さは本当の意味で生まれないのである。

人々がなぜ不幸なのか

人々がなぜ不幸なのか。それは、「自由がないから」です。
人々は、自分の自由な意志がなく、ただ周りに合わせるだけで、自分の意志を押し殺すことを強要されてしまう。
自分がどのように行い生きるのか、そういう「生きる上でもっとも大切なこと」に対してまで、他人との調和や協調を強制される世界では、自分らしさも何も生まれることがない。
学校は、本当にその人間の自由にさせてみれば良い。その時、その人間は自分のやりたいことに気付いて、存分にやるようになる。支配されない自由な中で、ひとりの経験主義者として、啓発と啓蒙、そして世界開拓の人間をその人は生きる。
また、支配者が現れた時は、その支配者の自由にさせるべきである。そうすればこの世界は良くなる。なぜなら、良い支配者が現れることでしか、この世界は良くならないからだ。
自分らしさと素直さが一度生まれてしまえば、誰だって支配者になれる。簡単ではないその道だが、さまざまな経験がそこにある。楽しいことばかりではない。辛いこと、苦しいこと、耐えがたいこと、そしてじっと耐えることや勇敢に戦うことがなければ、願いは叶わないし、王にはなれない。

互いに他人のことを認め合うところから始めよう

僕が思うに、「互いに他人のことを認め合う」というところから始める必要がある。
その子がどんなにオタクで太っていたとしても、その子の個性を認めてあげること。他人の個性を認めてあげることで、自分の個性も認めることができる。
そこから、本当の愛である「共感」が生まれ、「共同体感覚」が育っていく。
まずは、相手のことを認めてあげること。そこから、相手の間違いや失敗を塗り替え、相手の何が間違っていて、どのようにすれば修正することができるのかが見えてくる。だからといって、干渉することは必ずしも正しいことではなく、相手が自然に正常な大人になるように導いていくことが必要である。
他人を認めることが、逆に自分自身を認めることに繋がる、というのは良くあることである。相手のことを許すことで、相手を憎む自分の憎しみも許して消し去ることができる。この世界はそれで、自然な変化から変わっていくだろう。強制するのでも支配するのでもなく、お互いに愛を気付くことから、この世界は正常になる。友達は異性となり、恋人へと変貌する。
この世界の全てが変えられるようになったあなたは、人間の人格を支配して、この世界を滅ぼそうとする。それが人間の本能である。だが、本能は別の方向に変えられる。どんなに他人を滅ぼしたくても、本当はあなたは誰かのことを愛している。愛を相手にそのまま伝えれば良い。相手もあなたのことを愛してくれる。この世界の全ての苦しみは、「愛情の欠乏」から生まれる。だが、安心して欲しい。どんなに愛されない人間であっても、生まれ持った愛はあるからである。人々のことを愛する人間は、自分のことを肯定することができる。

かっこ悪くても平等な支配者は必要

また、かっこ悪くても、平等な支配者は必要です。
みんなに平等に権利を認め、誰か一方がもう一方よりも利益を不当に得ることなく平等にし、もっとも賢いものが支配することで、社会は正常になります。
僕は、日本を平等に支配する指導者です。学校の先生のようなものです。

本当に必要なのは平等と正義

僕は、この日本という国、そして地球という世界に、本当に必要なのは、「平等と正義」ではないかと思う。
ひとりの指導者とともに、この世界は平等になる。人々はいじめや抑圧のような「不平等な不自由」から脱して、本当に自分らしく、自分の好きなように生きられ、人々と仲間になれる「平等」を、悪いことをせず、人も殺さず、犠牲も出さない「正義」とともに、民主主義の「法の支配」によって行うのだ。
いじめの原因とは、社会的にも、環境的にも、心理的にも、「自由でないから」であり、その自由は単なる自由な民主主義では得られない。
また、平等にするからといって、独裁者が支配すればそれで良いわけではない。独裁者は自らの権利におごりたかぶって、不法かつ不正なことをする。そのため、「法の支配」が同時に必要である。
人々が、法の支配の下に平等と正義を実現した時、この世界にははじめて正しい「精神的自由」が訪れる。それを、最後の帝国「日本」がここに行うだろう。
必ずしも、敵対国家や敵対人種として争い憎み合う必要はない
僕は、戦争中の日本やドイツがしたように、国家や人種の間で、敵対国家や敵対人種として争い、憎み合う必要はないと思います。
韓国人が日本が嫌いなのは、そのことの現れです。戦争中の日本は、アメリカやイギリスを敵視し、朝鮮や中国など一部のアジアの国に残虐非道の限りを尽しましたが、その理由は全て、「敵対」と「憎しみ合い」によるものです。
そう、韓国が日本が嫌いなのは、日本人が昔、敵対・敵視政策の中で、アジア人の人権や主権を軽んじたせいなのです。
今、日本はアメリカやイギリスと仲がいいでしょう。必ず、韓国とも仲良くなれる日が来ます。
敵対や差別は必要ありません。僕は世界政府の樹立を目指しています。世界政府「日本」がこの世界から憎しみ合いと敵対と差別を無くします。それこそ、僕が行うべき「つぐない」ではないでしょうか。
後日注記:ここで言う「つぐない」とは、僕が人種差別を繰り返し身勝手な支配をしてきたことの償いのことです。ですが、ここにはもうひとつの意味があると思います。日本人は、朝鮮人に対して自らの植民地支配のつぐないをしなければなりません。そう、ここでは、つぐないとは、「日本人の僕の王としての朝鮮人へのつぐない」が含まれています。また、朝鮮人だけではなく、アメリカ人の戦死者に向けてのつぐないも、ここに含まれるでしょう。

争う必要はない

争うな。僕たちは、争う必要はもうない。
争わないことで、正常な自由な精神と、敗北しても何度でも立ち上がれる「ゼロ地点の底力」を知ることができる。
ナチに支配される地獄に唯一勝つ方法、それは争わないことである。僕たちは協力して正義と平等を実現できる。僕たちは同じ愛の下でひとつになれる。
そう、絶対にくじけない、何をされても負けない魂の意志がそうした「争わないこと」から見えてくる。
必ず、僕たちは世界政府を実現できる。自分の国だけが自分の故郷だと思う必要はない。僕の故郷は地球という星であり、ドイツやフランスは自分の一部である。
この「争わない」という理想を実現するために必要なのが、「個人の自由」である。人間は、自分で自由に意志と行為を選べるのであれば、反抗したり、国を滅ぼしたりしない。自分の自由が許されるなら、自分の状況と前提条件を照らし合わせて、自分なりに正しい行動をするようになる。そこで、「このように生きれば良いことがある」という「アドバイス」を提示することのみが、本当に必要である。誰をも自由にしても、どのように生きれば良いか分からなければ、正しく生きることはできない。よって、経験と発展の先にあるのは、「成長し、体験する自由」であり、そこでは、反抗も起きず、争いもなくなる。
そう、国民を反抗させないため、争いを無くすために必要なのは、「自由を与えること」である。これは個人の自由だけではなく、環境や社会の共同体としての独立性を高め、そして(マルクスとは違った意味で)生産手段を共有する、ということが、世界を平和にするのである。

憎しみが生まれる理由

僕は、憎しみが生まれる理由とは、「人の心を疑うこと」ではないかと思う。
人の心を疑うから、相手のことが憎くなる。自分の方が正しくて、勝っていたいと思うようになる。
実際のところ、相手も、自分も、敵も、味方も、何も関係ない。僕の相手は僕と同じであり、僕の敵も僕と同じである。そして、敵と同じく、僕も誰かの味方であると同時に、誰かの敵である。
太宰治走れメロスの中で言っていたように、「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳」である。
そう、たとえば、僕がマイクロソフトを疑ってLinuxオープンソースについているのは、マイクロソフトから見れば忌み嫌うべき敵である。
実際のところ、相手を味方にしたいと思うなら、相手の心を信じてあげることである。鈴木愛理が言っているように、「信じた心を恥じる必要はない」。そう、相手のことを信じることこそ、相手よりも優位に立てる唯一の心構えである。
誰のことも信じられるようになったら、そこに敵や味方の区別は必要ない。味方を愛するのと同じぐらい、敵も愛してみよう。この世界でひとつの巨大な恋愛の革命が、そこに生まれるだろう。
本当に世界を変えたいのであれば、相手のことを信じてあげることである。なりふり構わず支配してもいいから、きちんと信じてあげること。そうでなければ、この世界の全てはあなたの自由の下で、あなたに反するようになる。世界でひとりになったあなたが世界中全てを敵に回しても、そこにあなたの夢や願いは無く、積み上げたものは全て消え去って、あなたと世界の未来は、哀しみの海へ溺れる後悔と懺悔の航海の旅になるだろう。
後日注記:そもそも、敵だ味方だと考える必要はない。「わたしたちは同じ人間である」。僕はマスコミやマイクロソフトを恨んでいない。僕という確かな存在は、彼らが居なければ形成されなかった。戦う必要も、憎む必要もない。わたしたちは今、同じ神の下にひとつになる。

自由

民主主義の社会では、社会の仕組みを決定するのは本質的に「自由」である。すなわち、
1.どのようにすれば自由な社会になるか
2.自由に金を稼いだり意見を言ったり組織を作ったりする中で、ルールとしてどんな決まりや規則に従う必要があるか
3.決まりや規則としての法律を、どのように、誰が、どんな仕組みで決められるか
4.そうした決まりを、どのようなものにすることで、社会をより自由にすることができるか
5.どのようにすれば、先進的な製品や賢い技術が生まれ、人々が豊かになり、社会が発展するか
6.どのようにすれば、自分の望む仕事に就くことができ、自分の望む商品を買うことができ、努力や代償に見合った利益や報酬が得られるか
7.どのようにすれば、社会そのものを自由な中で作ることができるか
そのように、自由は経験と制度の両面から、「行動」とそこにおける「ルール作り」、すなわち「社会の創造」を考える。社会主義とは別のアプローチで、進歩するユートピアを作る。
後日注記:誰が何を考えようと、何を行動しようと構わない。「彼らには自分と同じ自由な権利がある」。わたしたちは、自分たちの得たい利益や製品のために、自分たちの意志で働く。そうでなければ、わたしたちは国家に服従するロボット人間になる。今のアメリカは、そうした「自由を失った危機の時代の民主主義」に変貌しようとしている。人間の有機物としての自然な美しさを守るために、絶対に負けるわけにはいかない。だが、同時に彼らにも自由があることを忘れてはならない。彼らが何を主張しようとも、僕はその主張できる権利を守るために、彼らと対峙しながら僕の信念のもとに戦うだろう。自由は正義であり、自由は万人に認められるべき権利である。

カタルシスアンビバレント

自由において、インターネットや社会全体の問題として言えるのが、日々の不満やうっぷん、あるいは不安や憎しみ・どうしようもできない想いを、ネットのような自由な場で「発散」する、すなわち「カタルシス」の問題である。
人々は、この民主主義社会に満足していない。選挙や議論の機会を与えられても、自分の問題に誰も目を向けてくれない。自己責任だけで格差を肯定さて、世界を変える運動を否定される。
自由な社会において、本当の自由があるとは言えない部分もある。これは、アンビバレント、すなわち、「このようにしたいけれど、実際はこうするしかない」という「保守的な心理」が働くからである。
後日注記:彼らは、この世界で「正しく生きなさい」と強制されながら、「何が正しい生き方なのか分かっていない」。彼らには大人が教える必要がある。彼らに対して世界の裏側の真実と真理を教えなかった、昔の馬鹿だった大人たちが悪いのである。だから、モンスターのような子供が生まれてしまうのである。

リアリズムとアイデンティティ

このような社会の中で、人々はどう生きるか。そこで見出せるひとつの「答え」として、「リアリズムの追求」がある。現実主義となって、この世界の現実を総じて全て経験し、リアリティから世界を変えようとする。
そこで生まれるのは、経験から来る「アイデンティティ」である。アイデンティティは、自分を自分たらしめるものであり、思想信条や愛国心のような「帰属意識」である。
ある種のアイデンティティがリアリティから生まれた時、そこには「陰の中の光」が存在する。その光が輝くだけの、理想を経験とリアリズムから作ることができる。ここで、経験は単なる行動の履歴ではなく、「理想の社会を作るための分析材料」となる。そして、まさにアイデンティティを実現すること、人々が自らのアイデンティティと価値観を満たすことのできるような生きがいややりがいのある職場や趣味を得られることが、この世界、民主主義社会におけるひとつの「理想」となるだろう。
後日注記:実際のところ、闇には光が宿る。闇を照らす光は、闇自身から生まれる。人々は、実際のこの世界における「最悪の社会」を知ることでしか、この世界の真実を知ることはできない。リアリティは最悪の暗闇を経験しながら、自らの心を照らす光となって、別の人間まで照らすことのできる大きな輝きを持った太陽になって、自らの価値観の転換から、正しいアイデンティティを形成する。

喪失から来る共同体感覚の芽生え

人間は、喪失や絶望の体験から、可能性を自らの力で発見し、そのまま、「共同体感覚」の芽生えに気付く。
これはヘーゲルアドラーの言っている哲学あるいは発達心理学で、人は喪失の体験から、陰の部分の自分を知り、陰を知ることから光の部分の自分に気付く。
可能性は共同体感覚として現れ、陰だったその人は自らの力で光に変わり、積極的かつ能動的に社会を変えるような「指導者」に生まれ変わる。
そう、それが、世界を変える新しい救世主、「共同性の王」となる。共同性とは、人とどのように生きれば良いか、ということから、人を許す自愛の精神を知り、世界そのものを変え、社会そのものを築くための方法を知る、「少年の王」である。ヘーゲルはそれを「徳の騎士」のような言葉で説明した。
彼は、価値観の全てを経験し、価値観の転換から「正しい考え方」を作り出す。それができたら、話は早い。彼は必ず王となって、この世界を救う最高の愛で、全てのことを完璧に理解する。神の愛する、世界を救うメシアが、そこに誕生するだろう。
世界を救うために全ての実現方法を知り、自由自在な機会と学習から全てのことができるようになった人間は、あるがままの自分をさらして、たとえ何も分からなくなったとしても、永遠に間違ったことをせず、この世界を崩壊の先の蘇生まで支配し、必ずこの世界で正しい王国の築き方を作り出す。そう、彼こそキリストである。最後の救い主、それが神である。無償の愛を人々に与え、必ずあなたの人生とあなたへの愛をこの世界に全て遺すだろう。
後日注記:実際のところ、正常な社会では、「キリストには誰でもなれる」。そう、わたしたちは神の子であり、誰もがキリストになれる力を持った、宝石の原石である。キリストは、わたしたちのもっとも小さな兄弟をキリストと思いなさいと言った。そう、神はわたしたちのもっとも小さな兄弟である。兄弟にできるのであれば、僕たちにもできる。僕たちは、誰もがこの世界を救うために生きている。愚かな過ち、それも簡単にはぬぐいきれない失敗であっても、大人はそれを背負って生きていく。そう、それが僕の生きざまである。

世界は極右や人種差別主義者によってどんどん滅んでいる

僕は、今の国際情勢における、極右やポピュリスト、人種差別主義者の増加に危機感を抱いています。
人々は戦争を正当化し、人種差別のタブーを破ります。多くの何もできない子供たちや労働者たちが、今まで秘密裏に活動していたはずの人種差別主義者の主張に、インターネットなどを通じて、触れ合う機会が増えてしまいました。
人々は、ナチスのような主張をする極右に影響をうけ、「極右が全てを解決してくれる」かのように、トランプやルペンのような人種差別主義者の主張に耳を傾けるようになったのです。
僕は、一度、この世界を浄化する必要があると思います。最悪の主張をし、「まるで自分が最前線で戦っているかのように錯覚」して、「自分は極右の指導者だから左翼思想は排除する」という「騙されたロボット人間の兵士」がどんどん増えてきています。
だからといって、極左が許されるわけではないでしょう。ソ連は昔から「顔のない正義の行進」です。コミュニストは似たようなものです。
なぜこのようなことが起きたのか。それは、今の民主主義社会に希望がないからです。人々は人手不足とブラック企業の中で、非正規を奴隷にしながら過重労働をし、歪んだ世界でいじめを繰り返し、子供は振り込め詐欺などの犯罪に加担します。それら全てを「左翼」ということにして、全てを否定したくなっているのです。それが、右翼の新しい「正義のような価値観」です。
そう、この世界は、僕が解決するしかないでしょう。末端のそうした人々を「悪くない」とし、欠陥のある社会制度を「歴史の必然」とした上で「新しく変えられる」としましょう。その上で、社会経験を経験し、積極的に行動する「啓蒙のリーダー」となって、世界を変えられるようになる、そうした「指導者」を生み出さなければなりません。
社会の上の方にある、「漠然とした不安」は何か。それは、「リーダーが居ない」ことによる不安です。この世界を解決することのできるリーダーがいません。トランプは意味がありません。必ず、自由なままで社会を救えるリーダーが、どこかの国に現れるでしょう。カリスマ指導者が必要なのです。それは、必ずしも、この人間である必要はありません。まさに、「あなた」が指導者になることができます。なぜなら、この文章はそれを目的としているからです。僕が想定する新しい指導者は、この文章を読んだあなたでなければならないのです。
後日注記:彼らは狂っています。確かにソ連は殺戮の国でしたが、逆にアメリカは狂気の国になっています。日本は、この国際情勢に対して、立ち向かわなければいけません。それが望んだ結果でなくても、わたしたちは米ソと対峙する必要があるのです。

本当の民主主義を、本当の選挙を

僕は、今の日本の民主主義は、本当の民主主義ではないと思います。
今回の(2019年7月の)参議院選挙で言えるのは、自民党がおごり高ぶって嘘ばかりついているのに、また大勝したということです。
自民党の安倍首相は、約束したことや、やると言ったことをやっていません。社会保障についても、年金を安心と言い、全世代型の社会保障と言って幼児教育を無償化すると言っていますが、高齢者や障害者への福祉は置き去りになっています。現役世代の労働者への給与の引き上げなども、きちんと行っていません。
それなのに、なぜ自民党が勝つのか。それは、自民党が本当の民主主義だと思っている人が多いからです。そして、本当は、自民党は本当の民主主義ではありません。
そもそも、所属政党だけで候補者を選ぶ、という方式が、なぜこんなに長い間続いているのか、という点がおかしいのです。自民党旧民主党系の政党を選ぶだけになっており、共産党などは最初から、どんなに正しいことを言っていても、共産党である、というだけで票がもらえません。
それこそ、正しい人間を落とすこの政党選挙の選挙は、選挙ではありません。
僕は、非正規雇用を無くすと言っておきながら無くすどころかどんどん非正規雇用を増やしている自民党が、全く正しいことをしていない(できていない)のに、テレビの報道を見て「なんとなく自民党が良いな」と思って自民党に入れる人が、あまりに多いことに危惧します。自民党が圧勝することに、僕はこの国の選挙制度が正しいものだと確信することができません。
僕が社会主義政党を率いるなら、こう言います。「自民党の選挙は嘘の選挙です。私たちが正しい選挙をします。」と言います。そう、正しい選挙を私たちは求めます。今から、「正しい選挙の党」を作っても良いと僕は思います。
後日注記:自民党は、「正しいことを言う人間を間違っているかのように見せる」ことが得意です。共産党社民党は支持されません。野党も烏合の衆になっています。それは自民党のせいです。

実際の人々の小さな声を聞け

僕が政治家に求めるのは、公明党が言っているように、「実際の人々の小さな声を聞く」ことです。
最近はインターネット社会になり、SNSなどを通じて自分の「学校や家庭では言えない声」を言う人が増えました。どこでも言えない声を、ネットで言う人が増えました。
そうした人々の声を聞き、「実際の社会の声を聞く」ことこそ、今の時代の政治家がすべきことではないかと思います。
僕は、公明党は嫌いではありません。公明党に、仏教的かつ宗教的な「弱者の救済と平和」を期待しています。公明党は、以前は憲法9条を守る「絶対平和主義」を高らかに言っていました。その精神が残っているのであれば、安倍政権での改憲には反対しなければいけない立場ではないかと思います。「慎重に議論する」とは言いますが、実際は自民党の子分になっています。

競争が楽しかったのは未開領域があったから

僕は、競争による発展が楽しかったのは、未開領域がたくさんあったからだと思います。
経済的なフロンティアだけでなく、科学技術的にも未知なる開拓の新領域がたくさんあり、新製品もたくさん作られ、人々の生活はどんどん豊かになりました。
だから、会社間での競争が楽しかったのです。
本当は、IT業界などでは、今でも未開領域を会社が開拓しています。IntelAMDの競争などがこれに当たります。
ですが、今のIT業界は、それぞれの「独自色」が強くなりすぎました。たとえば、WindowsのようなOSはMicrosoftでなければ、他のOSは使い物になりません。他の製品、という選択肢はもう存在しないのです。Googleも、Facebookも、Amazonも同じです。あまりにもひとつの標準企業の独自色が強く、それぞれの会社がそれぞれの分野の業界を「完全に掌握」し、「その会社にしかできないことをやっている」ため、競争という発想は意味が無くなったのです。Facebook以外のソーシャルネットワークサービスであるMixiなどは、全く太刀打ちできていません。
また、旧来のアナログな技術製品は、逆にコモディディ化(普遍的な製品へと没落)したのです。どの会社のデジカメでも液晶テレビでも、ほとんど同じなのです。競争するにしても、自分の独自色を出せなくなりました。
そして、今の資本主義社会で、もっとも社会を悪くしている原因は「コスト削減」です。そして、それを一番進めているのは「競争」です。競争など、全ての「働く楽しさ」を奪う諸悪の原因になっています。そこから良い製品が生まれることはありません。
後日注記:実際のところ、「共同体」という発想があまりに希薄になりました。昔は、SONYにはSONYらしさが、パナソニックにはパナソニックらしさがありました。それぞれの会社や国に、帰属意識アイデンティティがあったのです。今の時代、それがありません。どの会社が勝っても、その会社の従業員はただ働いているだけで、その会社を愛していません。そう、これは左翼のせいでもあります。本当に日本を愛する国にしなければ、永遠に解決することはないでしょう。保守や共産に戻ることも必要です。

法治国家は果たして永遠に進歩するか

日本のような民主主義国家は、「法治国家」です。これは、「法が治める国家」という意味です。
日本の全てのことは、法を下に決まります。法以外の形で支配することはできません。必ず支配には法がつきものです。
そして、この法は、「みんなで決めたルール」に他なりません。特に、「すべきことをする」ということと、「決まりを守る」ということがここにベースとなります(中世の律令制国家と同じ)。
そして、多くの場合、法律は「禁止事項」を決めます。この禁止事項を、みんなでいつでも自由に決められるせいで、社会から悪いものがなくなっていきます。
法律について言えることは、「永遠に進歩する」ということです。永遠に、法律を改正して別の法律にしていくことで、進歩し続けるのです。
もし、社会主義が勝利して、法治国家ではない「独裁者が治める国家」になれば、法治国家は終わりです。しかし、そうならなかった場合は、独裁者が勝つことが無い限り、法治国家は永遠に進歩します。
なんでもかんでも自由にすれば、好き勝手していればそれで良い、といった社会が、平成の時代にどの国でも続きましたが、このままそれを続けていくと、「誰かが良いと言う限り禁止できない」という状況に陥ります。たとえば、銃規制、大麻、そしてインターネットなどがそれに当たります。
後日注記:インターネットのコミュニティを見ていると、「なんでもかんでも自由にできるべきだ」と思っている人間がなんと多いことに気付かされます。彼らは分かっていません。本当に人間というのはすぐに狂って滅びます。そう、彼らはまだまだ何も分かっていない、子供だから純粋にそういうことが言えるのでしょう。

自民党はほぼ確実に選挙で勝てる

自民党は、「野党は烏合の衆だ」と言っているだけで勝てます。
これは、小選挙区の制度のためです。自民党は自分たちだけで勝てますが、野党は団結して共通でひとりの候補を出して、その上で勝てるか勝てないか、という位置づけです。
よって、野党は自分のポリシーを発信できない。野党は、いつまでたっても烏合の衆と批判されて、まったく勝てない。
そう、自民党は最初からほぼ確実に選挙で勝てるのです。昔の民主党政権交代で何もできなかったことで、野党はいっそう不利になりました。もう、日本で選挙など意味が無い。そのために、安倍首相は強行採決を行い、自民党の議員はゆるみとたるみが目立つのです。
自民党は、政策は馬鹿だが実績と地盤があります。自民党に勝つのは難しいでしょう。ですが、そろそろ自民党の政治は終わりにさせなければなりません。自民党は国民を騙しています。
後日注記:そもそも、野党が悪いのです。野党は、国会や選挙という制度では自分たちは勝てないのだということに気が付いていません。民主主義を追求するあまり、民主主義を唱えるあまり、民主主義に自分たちは敗北している、ということに気が付いていないのです。

社会的知性

まず、この世界のことをゼロから考えること。
どんな時自由で、どんな時自由でないか、どうすれば出来て、どうすれば出来ないか、どうすれば変えられるか、などを、「自由な社会にするためにはどうすれば良いか」と「問題を解決し、課題を実現するために何をどうすれば良いか」と言う視点で考える。
それぞれの、さまざまな人や立場の視点に立って、「現実にはどう実現すればどうなるか」を考える。
また、実地的に考えると同時に、実践する。
僕は昔、ネットで議論したり、オープンソースのビジネスを考えたり、会社の経営者と良く似た同じことをやったりして経験から分かっていた。
自分で同じことを考えながら、その問題を終わったことにせず、自分の中で「再考」すること。
そして、社会や歴史のようなことも、ネットなどで文章を読んだり、会話したりする経験から、「社会の変化を知る」ことで知ることが出来る。
この世界で何が出来るか、何をすべきか、どうなるか、そのために必要なことは何かを考えること、それが「知性」だ。
洞察力を持って、場合と状況を想定し、自由な経験から世界の可能性と理由を分析し、社会原理を解明せよ。
後日注記:つまり、「全ての可能性をもう一度考え直す」ということである。誰もが言っていることをうのみにせず、自分の力でもう一度「再考」することで、この世界を全て知ることができる。

日本の問題

日本社会の問題は、みんな、何も言えなくなっている。自由がない。批判をしても、誰も救ってくれない。核家族化と社会全体の未熟さは、そのことをさらに高めている。誰も分かってくれない。僕は、本当の自由によって、アイデンティティを取り戻すことが出来ると信じる。ありのまま自分らしく生きよう。
昔は、そういう、経験的な可能性から、社会を可能性で知ることで、マスターのようになりながら、独自の経験論を作って、独自の経済学を生み出していた。そういうところが、賢い人間だった。そのために、IT業界のニュースなどを見て、またネットの生の声を聞いて、実例を知っていた。
救うためには、愛が必要である。それも、ただ愛するだけではなく、聡明な人々の解決が出来る愛が必要だ。そのためには、自分が愛されたいとか、そういうことはどうでも良い。救われることを自ら拒否している人間に、何が間違っていてどうすれば良いのかを教え、罪や義務は無いのだと教えるべきだ。
相手が辛く苦しい中にあったとしても、立場を変えれば自分もその人間の状況にはなり得る。自分のことのように、人々のことを愛する、慈悲の心がなければならない。それは、決して受け入れることだけではない。それぞれみんなの「情動を愛すること」が必要なのだ。そこから悟りは生まれる。
行き着くのは二つのポイントだ。まず、「誰のせいでもない」ということ。そして、「救ってくれる人には自らなる」ということだ。問題を作ったのは誰のせいでもない。救えるのは、張本人である自分だけだ。

哲学的な社会の経験

数学的に考えるためには、一度知性を馬鹿にする必要がある。全ては、再利用と実証の考え方の中での、メタ構造(EU)、独立性(独立企業)、初期投資(投資とインフラの構築)、自由(ルール)、そして教育と歴史の改善と集積だ。在り方という意味での実験と要素の特定が方法(物理的考え方)である。
自然な積み重ねと決定の考え方、人間性によるいじめなどの問題の解決が、時に、環境全てを包括する「経験理論数学」を作り出す。そこでは、全ての数学的理論は経験に基づく。
人生とは、この世界に対する愛の渇望である。
人々と触れ合うことで、精神は浄化される。
機械(プログラミング)と絵(デザイン)の共通項とは、創造性と友愛における積み重ねと集合のあり方である。
集合知を知ることで、初めて世界を変えられる。自分一人が変えるだけではなく、人々全員が変えやすくする「メタの環境理論」がそこにある。それは新しい創造性と教育のあり方である。
環境を創造せよ。
人々の影響力が生まれやすくする、環境の構築と創造に新しい自由はある。
意識は、環境に支配される。だが、本来は自由であるべきものだ。環境の経験を知ることで、意識は環境からどんどん自由になっていく。だが、それは一つ間違えれば、すぐに狂って環境に適応できなくなる。
本当は、環境の全てを守ること、維持することも、破壊し、創造することと同時に必要であり、重要である。
大切なのは、命令することではなく、命令に応答できる体制を作ることだ。自分は命令ばかりして、制度を破壊している。制度のための制度を作っても意味はない。昔から、僕は命令が嫌いなのに、命令のようなことばかり言っている。
むしろ、命令と言うよりも、コミュニケーションは相手の助言を聞いて双方向にやりとりをする、アドバイスや助言や、あるいは対話のようなものであるべきだと僕は思う。
相手の何が間違っていて、どう考えれば正しいのか、対話の中で洞察することのできる、推測力がなければ、哲学を分かることは出来ない。そのためには、物理的考え方を知る必要がある。また、人の正しさや社会の独立性の自由や創造性を信じる必要がある。
正しさとは、「正しいことをする方法を知っていた時、人は正しいことをする」とソクラテスのような人間が言っていることと同じことだ。
それは、真善美に対する真理である。
人は、その人の見ている世界の中では、誰もが正しいことをしている。そして、その人が心で感じている感情は、この世界の全てを知った上で感じる感情と変わらない。感情の中に、全世界と全ての存在を知った神は、きちんと答えを応えている。
この世界が、制度や発明の全く存在しない「自然状態」だったとして、その中でどのように制度や機械が作られ、変化していくか、という、「自然状態での制度と発明の発見と創造」を知りなさい。自然な発明と起源を知ることで、自分の中でこの世界の「全ての変転と様相」を知ることができる。
また、人間の関係性は、「人々全員とふれあいながら、自分の実体験としてマスターに至るまで、あらゆる関係と立場を超越し、この世界にその社会が最初から生み出されるような」考え方と経験をしなさい。
さまざまな環境と感情を経験しなさい。泣くほどに悲しい体験や、わくわくする体験、失うことが怖い体験、待ち望んでいた願いが叶う体験、会えなかった人に会える体験、そして逃げ出したい中でも耐え続ける体験をしなさい。人々とネットで触れ合いながら、創造性を目指し、自分で人生を切り開きなさい。
哀しさ、腹立たしさ、怖さ、あらゆる全ての経験の総和が、「愛」を創り出すだろう。この世界に対して、さまざまな経験をするその答えが、力となって新しい人生と未来を創造する。愛は未来を形作る感情だ。社会や環境を知って、芸術、科学、宗教、哲学、あらゆる自分独自の思想を作りなさい。
全ての経験は、あらゆる人々との関わり合いであり、もう二度と体験できなくても、永遠に残り続ける、そうした、「社会と自分の環境を繋ぎ直すもの」であると知りなさい。
社会を知る中で、あなたは成長し、世界の全てを実体験で知り、人々の知り得ない領域へと向かい、二度と体験できない未知の体験を、失いながら永遠に遺し続け、自らの手で創り出すようになるだろう。
ただ、体験を感情で経験するだけでは十分ではない。その感情がどこから来るのか、経験的に解明しなさい。それと理性批判の考え方を組み合わせることで、あなたは宇宙のマスターになれる。同時に、社会の経験をしなさい。さまざまな会社組織や社会環境を創造し、支配できるようになりなさい。
社会についても、社会の文化や組織や制度がどこから来るのか、根源的に考えなさい。
環境から自由になると同時に、環境を解明しなさい。環境の全てを広がりと深さを持って経験し、段階的に人生の階段を上っていきなさい。
あとは、自由な社会構造のようなものを、具体的に成り立たせて作っていた。還元的な変化と権利のようなことを考える。ルールを自らで作り、それに自ら従うとか、それぞれを自由にした上で王が統治するとか、そういう、「還元的なシステム」のような変化の可能性を考えていた。社会主義を自由にした。
心理学的な、心の中身のようなことを、行動や行為によって作用的に世界をどのように変えるか、という意味で解明していた。心の要素や深層心理を解明し、心のどのような部品がどのように見え、捉えられるのかを考えていた。原因はどこにあるのか、を、思考を辿って考えることで全員分、分かっていた。
社会は、これ以上自由にならなくて良いし、独立もしなくて良い。それぞれが自分の努力と報いを実感できるようにして、「この世界に自分が居るという実感」が出来るようにしたい。僕によって世界は意味がなくなっているから、それを何とかして治したい。僕はこの世界の全員を治す人間だ。

アイデンティティとリアリティを与える社会

自分は、この世界を自由な社会にする。ありのまま生きられて、自分らしさを労働から感じられるような、そういう、「アイデンティティ憲法型」の社会にする。
今の社会は、豊かになること、職にありつけること、外国に勝つことは目指しているが、本当に必要な「アイデンティティを感じられる社会」は目指していない。
たとえば、事務の仕事でも、介護の仕事でも、誰にでも出来ることをみんなと同じようにやることになっていて、個性とか、自分らしさとか、自己実現とか、そういうことは全く考慮されていない。ただ使い捨てにされて、自己責任を押し付けて、何も考えられなくして、みんなと同じように働き、代わりなどいくらでも居る中で厳しい要求をつきつけてくる、そうした「無個性の社会」になっている。
僕は、これを変える。そうした労働をやることも必要だが、同時に、空き時間かあるいは完全にスケジュールされた中でも良い、自分の出来ることを自分のやりたいようにやる、そうした労働を同時に与える。たとえば、週に三日は介護の仕事をするなら、あとの二日はグーグルやマイクロソフトのような場所で、特別な労働や生産活動を出来るようにする。たとえば、オープンソースに貢献するとか、デザインをするとか、子供たちに教えるとか、作品を展示するとか、そういうことが、そうではない無個性な仕事と同時に出来るようにする。
マルクスのように、階層の無い平等な社会にしたからといって、結果的にその社会は強制ノルマの労働社会になり、自由な活動は何も出来なくなる。国家に反抗することが出来ず、また生活も最低限の生活の中で製品は十分に生産されなくなる。
本当に必要なのは、アイデンティティとリアリティが同時に感じられる、「個性を認めてくれる社会」だと僕は思う。自由主義は、豊かになって職を与えることは出来ても、社会的幸福を与えることができていない。豊かさや資本力ではなく、アイデンティティとリアリティの両立、ということに、真の日本の解放はあると、僕は分かっている。
ただ、そのためには、ただ理想論を唱えるだけでは意味がない。経験と理性が必要だ。特に、社会のことを冷静に変えて、要らないものはずばっと切り捨てて棄てていく、そうした姿勢も必要だし、MITメディアラボの日本人所長のように、「たくさんの仕事の経験をした上で優れた理性」が絶対に必要になる。そうでなければ、何がアイデンティティを与え、何がアイデンティティを奪うのか、国民にも首相にも分からないだろう。そこで、僕はぴったりの存在だ。全てのことが総合的に分かる、知識と経験を持っているからだ。
よって、アメリカを平等にするのであれば、「公平さ」という名前の「機会の平等」だけではなく、「アイデンティティとリアリティの両立」という信念が必要になってくる。それが、アメリカと西側諸国を侵食する、「新しい人種差別」を変えていくだろう。それが、僕の言う、アメリカの平等だ。
指導者には、経済学を分かっている人間よりも、社会のことを作り、創造できるほどの多様で創造的な経験を積んだ人間を当てる。そして、社会的には、家庭を子供の家庭から大人の家庭にしていく。子供を育てる能力のない女が子供を育てている状況を改め、きちんと成熟した全てを総じて知っている人間が子供に教え育てていくようにしていく。経験や能力のない教師に経験や能力を与えていく。社会のことを基盤から賢くして行き、経済学のような「魔法のお鍋のような繁栄」など存在しないことを突き詰めていく。その上で、社会全体を、自然に分かり、自然に気付き、自然に信念を変えていくように導く。それは、僕にしかできない仕事だと思う。
昔は、自由な経験、自由な社会、だと言っていたが、それは正しくない。みんなで作れる社会、といっても、間違っている。多様性や創造性も、要らない。本当に必要なのは、アイデンティティとリアリティの両立と実現だ。それが、たとえば、「それだけでは実現できない」というなら、僕もその通りだと言う。だが、たとえば、「A級クラスの仕事」というのを作って、誰もが何らかの形でA級クラスの仕事に参加できるようにすればどうだろうか?それは、東大の教授からSONYの技術者まで、「誰もが入りたいと思う仕事」は全て網羅する。その中から、自分が選んで、「この条件なら自分でもやってみたい」と思える仕事に、週のうち二日程度はかかわれるようにする。だが、A級だからといって、金が余っているわけでもない。学習コストも必要だし、給与も満足に与えられるわけでもない。だから、オープンソースを参考にして、「ほぼボランティアのような賃金」によってそれを実現しよう。Debianのメンテナになるように、ボランティアで東大の助手になる。それが、きっとアイデンティティとリアリティの両立だと僕は思うのである。もちろん、だからといって生活が困窮するようでは良くない。自由な労働の選択も出来るべきだ。だが、それはきっと僕一人だけでは実現できない。協力者が必要だと、僕は思う。
昔は、あなたには自由があるとか、意見を聞くべきだとか、そういう子供のような純粋な理性はあったが、何かの努力をしたことがなかった。今、努力した上で僕が思うのは、本当は、そんなに成果がでなくても、自分なりに自分のことが出来れば、それでアイデンティティは満たされるということだ。たとえば、大学の研究をしただけでも、あるいはデザイナーの学校に行っただけでも、ある程度自分なりに出来れば、人間は幸福になる。だから、きっと仕事を与えるだけではなく、ある程度の幸福が得られるぐらい、リアリティのあるアイデンティティを与えてやれば、人は幸福になる。それが、最近の僕が学んだことだと思う。

新しい社会制度のアイディア

僕は、もうこの世界を平等に支配する。
自由は無くなる。自由など、誰も望んでいないからである。
僕はひとりの指導者となって、誰かが不当に利益を得て、誰かに損失や負担が過剰にかかる、今の日本社会を見直す。
ここでは、「全ての人がかけがえのない人」であり、「普通でない人などひとりもいない」。そして、それぞれが自分らしく生きられるように、社会や環境そのものの在り方を見直す。
僕は平等に支配する。思えば、人々が自由が好きになるように騙しているのは僕である。そうした僕の愚かな過ちを僕は償い、この世界を平等にする。
平等の下では、もっとも賢いものが、ひとりでこの国を支配する。同時に、独裁者のようにひとりだけが決めるのではなく、みんなの意見を取り入れて、それぞれの共同体においては全ての人の意見を参考にし、王だけが特権的な力を持つのではなく、それぞれの平等な権利の行使が「関わり合う」ことでこの国を成り立たせる。これが、僕の作りたかった社会だ。
僕は欅坂46のことも愛している。決して自分たちだけのひとりよがりな平等にはならない。自分らしく生きられる社会を僕は作り出す。これは政治活動ではなく、作家活動である。
平等かつ自由な権利が社会的に関わり合うことで、この世界の仕組みは成り立つ。そう、僕はそうした社会観の下で、理想の国を作っていた。今、その国を実際に実現しよう。僕は最後に平等な王となって、この世界全てを新しい世界へと導いていく。もう、自由はここで終わりである。2020年、日本は平等になる。
また、僕は昔から「ありえない社会制度」を考案するのが得意である。
たとえば、都市を地下に作った上で、フロアごとに店舗を置く。上手く作ることで、温暖化の進んだ未来世界であっても、地下の巨大空間をクーラーで冷やすことができる。地下フロアはとても大量に作り、安く貸し出すことで、どんな店舗でも簡単に設置できる。住居や家屋もほとんど無料で与える。余ったフロアは畑・牧場と工場に使う。
また、政治家のローテーション制度。政治家が首相になれるのは2年程度にして、ローテーションでひとりひとり首相につく。
また、政治家の資格試験。政治家になるために、選挙ではなく資格試験を行う。この試験は「この科目を覚えなさい」という点数制度ではなく、どんな経験をどれだけしているかという「称号」のようなものにし、たとえば海外青年協力隊に参加したとか、弁護士資格を持っているとか、有名なソフトウェアをいくつ作ったとか、いったさまざまな称号をどれだけ持っているかで政治家に立候補できるかどうかが決まる。
そんな風に、昔の僕は色んな社会制度を、「自分で同じ発想をする」ことで考え、その内容を文章に書いていた。
場合や状況によって作られる構造の元になる基盤・メタ構造を作りなさい。人生や信念の前提となる世界モデルから、自由な行動の原則を導きなさい。人は、一人では生きていけないし、一人だけで全てを見ることはできない。だからこそ、自由が必要であり、可能性と自由がどのような時に生まれるのかを知ることで、潜在的な可能性を知り尽くすことができる。照らし合わせて、多角的に、多面的に考えなさい。可能性を向上させることから、環境への適応が見えてくる。人々を救いなさい。世界の全てを変え、なおも未来の希望を望みなさい。世界と社会の変化から歴史を知りなさい。文明を自ら作ることも可能であると確信した先に、狂いながらも偉大な理性を持つ王の道が生まれるだろう。世界は常に作り出されている。影響力の風上から、この世界全てを滅ぼし、その上で支配しなさい。
実地的に社会を知り、全ての世界を人々の営みから知り、変えられるようになった後に、世界全ての原理である「価値観の根差す場所」が見えてくる。そしてそれは現実世界の「リアリティから生まれるアイデンティティ」である。わたしたちは必ずこの世界を変える。20年続いたなら、あと20年続けるのは容易い。最後のヒーローは、20年後に必ず訪れる。そして、その時全ては終わる。

工場で単純作業以外のエクササイズやレクリエーションをする

僕が総理大臣になったら、工場のような「単純作業しかしない労働」を改め、運動やエクササイズをするようにする。
そもそも、経済は分担から始まった。農業をする人は農業しかせず、ものを作る人はそれだけをし、物々交換でさまざまなことを得られる。
これは、同じ労働しかしなくても、さまざまなものが手に入る、という意味で、画期的で楽だった。
だが、産業革命以降、こうした労働の分担は、逆に工場のような「つまらない単純作業しかしない仕事」を作り出した。
工場では、8時間の間ひたすらねじを回したり、魚の加工のような仕事をしている。
しかしながら、本来人間というのは、狩りをするなど体を動かしてさまざまなことをする生き物である。
よって、僕は工場の労働についても、運動やエクササイズをするなど、さまざまな「レクリエーション」を取り入れることで、工場の労働をもっと楽にする。
たとえば、スポーツをしたり、料理をしたり、楽器の演奏をしたりすることで、心が楽になり、労働意欲が増し、健康になる。いつまでもパソコンの作業をしているオフィスワーカーなどにも有効である。
昔は、社会の中で社会を変え、自由に生きることのできる自由を考えていた。
社会において、人は会社を起業して作り、会社に参加し、出世する。
人は労働し、生産し、価値やサービスを恒常的に提供し、人々を雇用して労働者が生活できるようにする。
人は社会や会社から必要とされ、会社や事業のことを決定する。
人は消費し、所有し、金銭のやり取りを行い、社会は豊かになり、便利になり、発展する。
そして、そのために、プロセスを改善し、手段と発想から実現方法を考え、社会の制度をよりよくし、代表である政治家を選挙し、民主主義的に法律を決める。政治家が法律を決め、制度を変える。
そうした中で、人は勉強し、学習し、経験し、考える。
そうした社会全体の自由の中で、いかにして世界を変えるのか、いかにしてより自由に生きることができるようにするのか、いかに独立や進歩をしやすくするのか、ということを僕は記述していた。
また、環境を想定し、状況を想定し、人々にダイレクトに語りかけながら、環境における心理学的なプロセスと改善方法を書いていた。
たとえば、努力に応じた報酬が得られやすくしたり、自分の好きなことができる生き方ができるようにする。また、社会の独立性を高め、完全に自由ではなくても、それぞれの個別の環境が独立しやすくする。制度を変えやすくし、国会議員を別の形で選ぶ。
また、ノルマを自由選択型にし、いつでも自由な労働ができるようにする。品質保証制度を作り、安くするだけではなく高品質な製品を作って、社会をもっと別の形で発展させる。
ルールを決めることで、社会は創造できる。ただ自由放任なルールを決めるだけではなく、この世界全てを規定し直すようなルールをみんなで決める。そして、みんなの手でそのルールを変えていく。価値観とアイデンティティが形成されるように、みんなでひとつのリアリティを築く。リアリティを知ることから、社会でひとつのアイデンティティのある社会を作る。日本人はさらに未来へと向かう。
最後に、「それをそうしたらどうなるか」とか、「それがいつ何になるか」ということをよく考えなさい。想像力を使って、思い出して、他人の視点から考えれば、必ずここまでたどり着ける。それで、僕の言うことも終わりである。
社会的な自由論「人は自由において行動する」と心の自由論「不安になるのは自由がないため」から、この世界全てを解明しなさい。原理原則を解明するために、実験し、証明し、仮説を立て、説明し、予測し、想定し、分析し、洞察しなさい。全てを解明するために、人々の社会を実地的に知り、人々の意見を参考にし、その裏側にある人々の生活までを知って、社会を「作り直すかのように」本当の社会の実像を知りなさい。発想と認識を吸収し、社会や心や経験など全てのことに対して「裏側に何があるのか」を考え、説明し、知りなさい。
裏側を考え、相対的にそれぞれの違いと共通点を考えることから、精神と心の現象学が生まれ、ありのままの世界を受け入れて生きる「精神論」へと繋がっていく。これが、哲学である。
また、2ちゃんねるのような裏社会を知ることで、自分の今まで思っていたこととは別の、「本当のこの社会」を知ることができる。裏にある本当の社会を知ることで、この世界の本当の意味が分かる。おすすめはしないが、僕と同じ人生を生きたいなら、そうした経験を乗り越えた上で、世界と戦わなければならないだろう。

自己内環境とすれ違い

ある環境の中では共通認識としてみんなが当たり前だと思っていたり、狭い世界では自分もみんなもそれが普通で当然のことだと思っていたことが、環境の外に出て、もっと広い世界に旅立つと、違っていることがある。
昔の僕は、不登校を経験して、掲示板とLinuxの世界を知って、そういうことが分かった。
自分の限界を決めていたのは自分であり、人々が悩み苦しんでいるのは、自分で自分の世界を狭くしているからであり、他の世界では自分の思っていたことが違っている、ということを知ることで、もっと別の可能性と、自分の運命を自分で決められる「自己啓発」の境地に達する。
また、環境の違いというのは、絶対的なものではなく、相対的なものである。たとえば、学校でこんなことがあってへこたれていたとして、それを剣道部のみんなと出会った時、ふてぶてしい顔をしていると、「なんでこいつこんなに怒っているのだろう」と思われて、けげんな顔をされる。このように、ある環境でこんなことがあったから、それが別の環境に移って、別の環境では「自然かつ必然的に」そのようなみんなの視点で見られてしまう。
「それぞれの時間と空間は相対的であり、環境への適応と人生はそれぞれの時間軸の中にある」というのが、この「環境によって見られ方が変わる」という哲学である。
「環境」という言葉が悪いなら、新しい言葉を作ろう。自分の中の「自己内環境」というのがあったとして、この自己内環境は人それぞれ違う。人は誰もが自己内環境に従って生きているが、「現実環境」の中でさまざまな環境を移り変わったり、別の自己内環境や現実環境を持つ人々と接することで、「自己内環境に帰依する違和感と勘違い」がそこに生まれる。それが、「すれ違い」である。
そのように考えれば、この世界の全てはすっきりと理解できる。同時に、この社会がどのような視点で営みを生きているのかが分かる。全ての歴史は自然かつ必然であり、誰かが不当に支配したわけでも、強制的に導いたわけでもない。あるべきこと、あるはずだったことの全てが起きた結果、それが地球という星の歴史なのである。
そもそも、いじめがなぜ起きるのかというと、そういう自己内環境と現実環境に問題がある。自分があまりにおかしく見えるのが、本人が気づいていないからいじめられている。本当は、ただ馬鹿にされているだけで、そんなに深刻に考えなくて良い。自分の力で新しい世界に旅立てば、世界の新しい可能性も分かるし、自分でこの世界を変えられるようになるからである。
自分の知った「新しい体験」から、この世界の全てを思い出すことで分かってしまえば、この宇宙の真理はそれで終わりである。この宇宙に他に真理はひとつも存在しない。あるとしたら、「環境や束縛や限界から自由になること」と言える。「世界の限界」というものがここにあり、世界の限界を超えていくことで、この世界全ての限界を超えられる。そこにあるのは、ウィトゲンシュタインニーチェのような「超人」の哲学である。だが、僕が思うに、そんな異常者にならない方が良い。そういう異常者ばかり分かっていると、今度は人間の「ふつう」が分からなくなる。ふつうが分からなくなった人間には、どんな言葉をかけても治らない。そういう人間は、最後までこの世界と戦うようになる。
また、昔の自分は、「自由になる」ということから分かっていた。これには、以下の意味がある。
1.まず、能力的な自由。これは教育やリベラルアーツや権力への意志に繋がる考え方で、「環境を自由自在に変えられるようになる」とか、「心理学的に人々の心の可能性を変えられる」という意味がある。
2.次に、束縛から解放される自由。支配が無くなり、社会が自由になることで、社会はそれぞれの意志によるコントロールを取り戻す。これは所有の自由や選択の自由、職業選択の自由だけではなく、世間一般、あらゆる束縛や支配から自由になって解放されることを指す。
3.最後に、環境の自由。「自らが自由にできるのであれば、反抗せず自分たちの自由に社会を築く」という「人間の本性的な自由」から、「環境が所属する人間たちによってコントロールされ、自由を許される」という意味を持っている。
4.もうひとつあるとしたら、「歴史全体の自由」である。歴史のさまざまな場面で生まれた全ての成果やプロセスは、全てが自然であると同時に、全てが「その人々が考える上では正しかった」ということであり、同時に、「もし正しくなかったとしたら、今の僕たちの生活や現代政府の政策も間違っている」、すなわち「正しいことなど何もないが、その場面や状況で正しかったことは正しい」ということである。
これらの自由から導かれる答え、それは人類愛である。「みんな全員、正しいことをやっている」中で、「人々が不安に思うのは、誰からも分かってもらえないから」であり、「誰かが分かってあげる必要がある」のであり、「誰かに愛され、真実と真理を教えてもらえれば、地球の全ての問題は矛盾なく解決する」のである。まさにインドが言うように、「真理はおのずと勝利する」。どんなに自分たちの側が劣勢になっても、真理を唱え続ければ必ず勝てる。
これ以外にも、さまざまな自由があり、その多くは「経験と能力から形作られる自我や人格の形成の問題」である。人々の分かっていないことを自分だけが分かる体験は、それ即ち「成長」と「自我の発達」を生み出す。これが「意識の変転」に繋がって、「リアリティに基づくアイデンティティの形成」となり、「自分の中に正しくアイデンティティが形成される」。この上で、「このアイデンティティは人類全ての存在にとって共通の普遍的な価値観」となり、そこから、「冷静かつ速断を避けた上での正しい考え方」が生まれ、同時に、「全てのことはリベラルな教育科目のように、自らの義務ではなく権利として、自由の中で自在にできるようになる」。そして、「社会は自らのインターネットの経験から変えられるようになる」のである。
また、さらに言えることがあったとしたら、「社会の形成の過程を見なさい」ということ。ネットでも学校でも会社でも良いから、自分の好きなことが言えて、みんなと対等な立場で参加し、意見し、議論することのできる社会を持つこと。その社会に根差した愛を知った上で、今度は自分でこの世界を変えようと努力すること。心理学的な経験や成長も、そうした「自由な体験」の中から生まれていく。全てのことを知るためには、自分で創造する必要もあるが、この世界に既にあるものから知っていくのも悪くない。ネットにはWindowsの他オープンソースなどさまざまな技術がある。
こうした人間は、最近たくさん生まれていて、多くが途中で過ちを犯して地獄になるが、僕は最後にそうした地獄を浄化する。地獄そのものを受け入れようとしなさい。そもそも、人間に正常な体験などひとつもない。全てが異常な体験に根差して生きるのが人間の性(さが)である。性には逆らえない。だから、どんなに異常な学習をしても、それを決して自分の力で治そうとしないこと。なぜなら、治すことに囚われる体験のことを、人は異常者と呼ぶからである。それで、今日のところは終わりにしておこう。
子供たちを愛するのであれば、決して自分の方が子供たちよりも賢いのだと思わないこと。子供たちは馬鹿ではない。大人はすぐに馬鹿になる。子供を大人と同じように、自分の考えや生き方を強制しないこと。子供には子供の考え方や生き方がある。だからといって、子供たちのSOSを見逃さないこと。子供たちに危険が迫っていれば、すぐに察知してそれを排除すること。そのようにしなければ、子供は賢い大人にならない。子供が成功を望むなら、成功させてやれば良いし、子供が失敗の克服や挑戦を望むならそうしてやれば良い。最初から大人が「チャレンジしなさい」と言うと、子供は反発する。そのように育てるから、子供には反抗期が生まれるのである。
ただし、もうひとつ言っておくと、子供に自主性を与えれば良いと言うのではない。くどいようだが、子供が間違った自主性を選ぼうとしている時は、それを制止してやらなければいけない。だが、子供が悪くない自主性を持っているのであれば、それを親の権限で失わさせない方が良いかもしれない。だが、そもそも、あなたの教育方針が自由であれ、平等であれ、それを僕が干渉する立場にはない。そもそも、僕は助言やアドバイスをするのが好きだが、その結果人々を支配することもあり、その支配によって整然とした社会になって、自らの夢も叶った経緯がある。子供にアドバイスや助言が必要であれば、あなたも積極的にアドバイスや助言をしなければならない。そう、それも親の責任である。それがきっと、新しい指導者を生み出し、日本を正常にしてくれる。何でもかんでも子供の言うとおりやっていれば、女の子は馬鹿な不良のギャルに、男の子はやくざのニートになってしまうだろう。
僕の人生の大きなテーマが「自主性」である。自主性をどこまで与えるか、というのは僕の長年の疑問だった。だが、絶対権力者にならない程度の指導者が良いように思う。神のようになってしまうと、逆に責任と恐怖から何もできなくなってしまう。ただし、僕は子供にどの程度の自主性を与えるか、ということで言えば、「好きなことをさせるべき」であると同時に、「辛くなってもやり続ける」ことが大切であると思う。ただし、それはひとつの大きな前提があり、それは「ある程度自分できちんと分かるぐらいの自分なりの体験」をさせることで、「自分できちんと判断できる判断力が形成される」ということが言える。そのような教育を行えば、どんなに科目が少なくても、自分なりに自分で想像力と経験を作って歩んでいける。僕はそうした発想が好きである。
また、昔の自分は、「環境の変化を許す」という発想が多かった。環境の変化を許すことで、世界が変わるようにしたかった。だが、僕はあえて言おう。「これ以上、変化する必要はない」。これ以上、この世界はもう何一つ変化しなくて良い。安定の中で、人々がこの世界を見つめ直すべきである。そのために、僕は変化を停止させ、その上で楽と余裕を与える。みんな、自由になって、自分の好きなことの方に時間的余裕を費やすことができるようになる。そして、これで僕の「終末の主催者」はほとんど終わりである。あとは、まだまだ続く。これ以降、さまざまなもっと高い世界がある。そこに行くためには、僕だけの力では不十分である。みんなが居なければ、新しい世界は成り立たない。

社会をもう一度捉え直す方法

僕はきちんと、この世界を正常に治すことを、そろそろしないといけない。なぜなら、僕がしなければ他の人間にできない、という「責任」を僕は築いてしまった。この人間がするしかない。だから、この人間はナンバーワンではなくても、それを超えるオンリーワンなのである。
そういうわけで、何から治そうか。結構、日本を見ていると、普通見ている範囲においては、何も間違ったものもおかしなものもない。だが、学校やインターネットを見ると、間違ったものがたくさんある。大人の職場には間違ったものはない。そう、子供たちを変えれば、世界は平和になる。だが、そうした子供たちの社会には、この社会の抱えている「歪み」の全てが影響している。格差が増えれば子供たちにいじめが増え、景気が悪くなれば子供たちは元気を失うのである。
子供たちに必要なことは何か。それは分からない。だが、僕が子供たちにどのように生きてほしいのか、ということは僕は分かる。まず、この世界を投げ出さないでほしい。そして、学校で教えられている内容に囚われず、一から全てのことを考え直してほしい。太陽が無い時は、太陽を自らの絵の具で作り出してほしい。そうした「正しい生き方」はこの世界のどの教科書にも本にも書いていないが、僕はその正しい生き方を知っている。だが、子供には、大学や大人の話を聞くだけではなく、自分で考え、自分で決め、自分で行い、自分で選んでほしい。自分の意志を持つために、人々のことを愛して欲しい。
そして、怖がらないでほしい。僕の言っていることややっていることを怖がらず、僕が間違っている時は批判して欲しい。僕が見ようとしていない僕の過ちは、僕だけではなく、僕以外の他の人々に教えてほしい。そして、みんなで過ちを償い、もう一度この愚かな滅びた社会を復活させよう。不死鳥となることができるのは、必然的に不死鳥になる未来を持った子供たちだからである。
また、宗教を信じないでほしい。宗教を信じると、全てが終わってしまい、幸福にはなるかもしれないが、この世界を変えようとする気力も意志も全て失ってしまう。宗教よりも、現実のこの社会を見てほしい。そして、この社会が間違っている時は、社会の方を信じるのではなく、自分の方を信じてほしい。そして、自分の思いや思想を、それだけで終わりにせず、突き進めてほしい。自分で社会のことをいつか変えるつもりで、考えてほしい。
また、僕は単にこの世界を滅ぼしたいわけではない。僕の言っている提案の全てをそのままやる必要はない。たとえば、中高生にエロ表現を見せても良いようにしろと僕は言ったが、それはただ適当かつ無責任にいいかげんなことを言っただけであり、そうしたことは相手にしないでほしい。
今日のところはこれくらいで終わりである。漫画にも音楽にも、何も無い世界になったが、それでもこの世界がここにあること自体は変わっていない。この世界は、普通に色んなことができる世界である。世界にあるものをただ受け入れるだけではなく、自分の力で支配し、そして自分の力で変える必要はある。だが、そうした考え方を考えるにつき、「速断を避けて現実的に考える」ようにしてほしい。たとえば、自分独りだけで全てを変える必要はない。みんなで変えれば良いし、自分はみんながこの世界を変えやすいように助けてやれば、ひとりで変えるよりも複数の集団が変えることができる。それはきっと政治家にも勝る強い集団になる。そうなった時にしか、この世界は変わらない。本当に変えたいのであれば、僕のようなひとりの作家のヒーローになるのではなく、味方や友人を作らなければならない。そのためのもっとも良い方法は、人々の集まる場所でみんなに意見を言うことである。
さようなら。もう、僕はこの世界において何もしない。支配すらしない。僕が居ること自体は変わらないが、僕はこの世界を徐々に停止から変化可能にと変え、変化を許していく。それしか僕にできることはない。具体的な考え方は、体験をしながら考えることで、気付いて言ってほしい。この世界には、ものしかないように見えて、ものがあるという意味での「意味」を見出すことができる。この世界には、それがあることで「それが意味していること」がたくさんある。それに気付いていくことだけで昔の自分はできる。単にものがある、というだけではなく、考え方を考えたり、モデルを作ったり、時には事実や解明した真理を積み重ねて積み上げていくことで、どんどん宇宙の意味は発見できる。人格の構造を作れば地球の意識も吸収できる。社会を自由にしたとしたら、「自由にしたらどうなるか」とか、「その自由から何が生まれるか」という、「高度な意味」すら捉えられるようになる。何が何を意味し、それがさらに何を意味しているか、そしてその中でその意味が社会や宇宙や自分独自の科学など全てのことに及ぶこと、それが分かれば、高校数学など学ばなくても、一流の哲学者になれるだろう。
最後に、意味を考える一番良い方法は、具体例と論理を照らし合わせて考えることである。たとえば、「集団がたくさん居たとして、その中で人はどのように行動するだろうか」と考えた時に、ネットの社会を実例にして、自分で考えたことと実際の社会を照らし合わせて考え、社会実験を行うのである。そうして考えたことから、心の裏側の全てが解明できる。全ての宇宙における意識は、そこから吸収し、「全てを理論的に実証する」ことができる。振る舞いを作りながら、博物館のような全ての学問を作り、人格を全員の数だけ統合し、この宇宙の神と魂の意識を知ることができる。その時、人は「仏」となり、新しい「覚者」がそこに生まれる。そうしたものを、人は「悟り」と言う。だが、単に考えて経験すれば良いというのではない。良く観察すると同時に、「自分が今まで何を知っていて、それが今どのように変わってきたか」という「意識の転換」を考える必要がある。全ての悟りの結果、この宇宙の全ての経験と、社会形成の全てのあらましが分かる。これが、僕のこの宗教の、最後の教えである。
また、行動論としては、唯一ひとつしかない。「何をしたらどうなるか」。これだけを考えれば良い。後の全ては完全に忘れて良い。それだけ分かっていれば、人間の知性は成り立つ。また、考え方として必要なのは、「もしそれがそうだったとしたらどうなるだろうか」ということである。それだけを守っていれば、必ず全て分かる。
その社会がもしそういう社会になったとして、そうなった時にどういう社会になるか、すなわちどのような社会の決まりや制度を作って、実際の社会環境はどうなるのか、など、自由な決まりと具体的な結果を、照らし合わせながら、自分の経験と行動と心の結果に置き換えて考えなさい。それがそうなった時に、それによってそれがどうなるか、そしてそれが「何を意味しているのか」を考えることで、この社会における哲学的な「真理」を考えられる。同時に、「何をもたらすのか」を考えることで、潜在的な可能性と、「何をすべきなのか」ということが見えてくる。そう、これは哲学者の知性というよりも、生まれ持って人が持ち合わせた「子供の知性」である。
僕の問題は、僕は自分の人生と世界だけを見て、正常な世界に戻そうとするあまり、この時代にみんなが生きていた人生があったことを忘れている。
そもそも、誰も昔の世界になんか、戻りたくない。
どんなに辛く苦しく間違っていても、今の世界を続けるべきである。
夜の暗闇は恐ろしく先は見えないが、太陽が昇れば、正しいものにも間違ったものにも、全員に平等に光は灯る。夜明けが来るのを待ち、また暗闇に覆われる前に、今のうちに迷宮の脱出方法を考えておこう。
僕の間違った点は、人々が「風」と呼ぶ戦いの支配をして、人々が自分のことを嘲笑するように導いたことである。だが、その中でも、人々は愛を信じて、この人間を信じ続けた。信じた心を恥じる必要はない。この点において、僕よりもみんなの方が正しかった。
今から、この世界は本当に許された世界になるだろう。僕が去ったとしても、この世界は神に祝福されている。必ず、最後の最後に、善なるものが勝利する。過去の僕である悪の女王は死に絶え、今の僕もともに消え去り、人々は自由を取り戻すと同時に、王は罪に気付いて人々の愛のために自らの行いを反省し、償うようになるだろう。
頭が馬鹿なのは、昔取り払ったものや壊したものを、もう一度再構築すると治る。
思考の垣根を取り去って、全てを同次元で考え、思考の制限やリミットを壊して考えていたのを、もう一度制限やリミットを作った方が良い。
少ない知性の構造から、全てを統一的に考えていたのを、もっとたくさんの知性に治した方が良い。
全てを同じ考え方で考え、視野が狭くなっていたのを、もう一度、別の考え方や異なる価値観が正しい可能性を信じた方が良い。
ひとり部屋にこもって、昼夜逆転の不潔な生活をしていたのを、もう一度、普通の生活に戻して、身も心も清らかになり、生活のリズムを取り戻した方が良い。
なんでもかんでも学習し、把握するのではなく、必要なところだけを覚えて考えるようにし、全てを知性なく考えるのではなく、「必要な点を覚えて論理的に考えること」から分かった方が良い。
反抗と自由自在から分かるだけではなく、不可能なことには従い、しなければならない義務を受け入れるように考えた方が良い。
自分のやりたいことだけを善と考えるのではなく、本当の意味で善とは何であるかを考えた方が良い。
可能性の分裂や制限の自由化だけを世界に対して行うのではなく、本当の意味でひとつになり、現実の世界を見るようにし、その上できちんと問題を解決するためにどうすれば良いか、考えた方が良い。

新しい帝国

僕は、争いを好まない。みんなで、仲良くやろう。それが、第一の目的である。
僕は、今からの世界というのは、ひとつの分岐点になると思う。それは、今までのように、「命」や「生存権」を持って戦っていた時代は終わり、社会における「主権」や「独立権」を求めて戦うようになるからである。
たとえば、昔は、ドイツとソ連生存権や命を賭けて戦っていた。冷戦のアメリカとソ連についても、核ミサイルを保持して、相手の国を破壊し、皆殺しにしようとしてきた。
だが、今の時代は、そうした「生と死」を賭けて戦うのではなく、また金儲けや利益だけには留まらず、「主権」や「独立権」を求めて戦っている。
今のアメリカやヨーロッパの人種差別主義者というのは、移民やイスラム教徒を殺したいのではない。別の国に追い返して、自らの国の社会保障や移民・難民対策の「税金を奪われない」ようにするために戦っている。
これは、香港・台湾では、逆に「中国からの独立」を求めて戦っている。
また、EUからの離脱を求めるイギリスでは、EUに主権を侵害されず、「イギリスの独立権を取り戻す」ために、多くの議論と投票と政策提案がなされている。
そう、人々は、命を賭けて戦うのでも、自らの生存を求めて争うのでもなく、「わたしたちの国をわたしたちのものに戻す」ために戦い、争っている。
同時に、僕はここに「主権とは何なのか」という問題があると思う。それは、グローバル化が進んだ現代において、「国とは何であるか」という「文化的超越論」と、社会保障や経済政策において、「それでも政府が必要である」という「独立的現実論」があるからである。
人々の間で、国家的な連帯というのは希薄になり、どんどんそうしたものがなくなっていく。同時に、老後の暮らしの支えなど、政府を必要としている人は昔よりも増えている。そんな中で、移民たちが自分たちの払った税金をむさぼっている、という状況になっている。
そう、ここで必要なのは、人種差別ではない。僕たちは、新しい政府の形を模索しなければならない。それはソ連のような、理想主義的で現実を見ていない政府ではない。「現実を直視した新しい政府の形」を僕たちは作らなければならないのである。
こんなことを言うと、どこかの独裁者のようだが、現実を見た上で、現実の政策の中で、そしてその中でも理想と平等を実現する政府として、「極右を超えた超越的改革派」がこの地球という星では、今、必要とされているのである。
また、社会と星の形態として、今までのように金や命のために戦う時代は終わった。これから、国際社会は「支配と独立」のために戦う時代になる。誰が支配するのか、どのように独立を保つのか。そのために、人々は自由を叫ぶ。この社会では、平等な政策など無用であると、人々は思っている。だが、実際の社会を見ると、世界は「格差」と「サービスの不足」ばかりが問題となっている。この世界をきちんと保つために必要なのは、「米ソに代わる新しい対抗軸」ではないか。僕は、ロシアとは別個にソ連を作ることが解決策に繋がると思う。ソ連が二つあり、ソ連ソ連が互いに争い戦う中で、新しい世界政府と独立政府が誕生し、切磋琢磨して星の未来と運命を変えていくことができると僕は考えるのである。
ある意味、ソ連が二つあることで、良いことがたくさんある。たとえば、マイクロソフト一社だけが独占市場を作っていたとして、そこでは働くモチベーションも健全な競争も起きない。これは、ひとつしかないソ連でも同様で、ひとつの国で平等な経済を行うことでは、ソ連の労働者は働く意欲がなくなる。だが、マイクロソフトとグーグルが競争すれば、グーグルに負けないために、健全な競争とモチベーションの向上が起きる。同様に、ソ連と日本型国家社会主義圏が競争すれば、ソ連は計画経済でも、日本の別の計画経済に負けないために、計画経済の内容を吟味し、人々には「日本に追い越せ追い抜け」といって、働くモチベーションができる。そう、ソ連は二つあるべきだったのだ。
だが、ここにはひとつ、大きなリスクがある。それは、ソ連ソ連は本当に潰し合うと、「全く自由がなくなる」ということ、そして「核戦争で必ず地球はいつか滅びる」ということである。だが、これについて言えば、アメリカとソ連が戦っているよりはマシである。同じ共産圏同士、ソ連と日本は時には協力し、また不自由な中でできるだけ自由を与えられるように、「どちらがより平等でかつより自由であるか」を競い合えばいいのである。
これで、僕のアホな経済学も終わりである。また、僕が作る国は、かつてあったソ連とは、まったく別の国になるだろう。必ず、僕は正しい自由な社会主義経済を作り上げる。いつまでもできないようでいて、いつか一度でも成功する理論を思いつけば、それで全ての景色は変わる。そのいつかは、神を信じれば、必ず訪れるものである。心配など、人生の最期まで全てがあると見てしまえば、心配など必要ない。僕たちは必ず、全ての問題を解決しつくすだろう。これが、僕の提唱する「二大社会主義国家制」の世界である。

新しい世界

新しい世界を作ろう。
新しいものを作ろう。
僕は、今からの未来の世界で、経済発展でも他の国に勝つことでもなく、「新しい技術やシステムを作る」ことを重視する。
僕が大統領になったら、無意味な格差を生むだけの経済発展政策も、軍事力によって他の国に勝つことも、憲法改正も行わない。
僕は、新しい技術を作り、新しいものを作り、新しい社会を作り、新しい仕組みやシステムを作る。
たとえば、WindowsでもMacでもLinuxでもない、新しい日本独自のOS技術を作る。ベースとなるのはBeOSBeOSをもっと使いやすいインターフェースにして、オープンソースでその技術を全て還元する。
僕は、法律を定めることは、同時に自由を妨げることである、ということを自覚している。そのため、インターネット時代にそぐわない法律をどんどん廃止する。
社会の制度のようなことは、政治家や立法府だけが決めるのではなく、自治体よりももっと小さな「自主的立法府」を作り、自主的な立法府が自分の力で法律を決められるようにする。そうすることで、自分たちの社会や環境に関わることは、自分たちだけで決められるようになる。これが、「新しい民主主義」である。
同時に、国としての軍隊は持たない。民兵組織よりももっと小さな形で、自分たちの自費により、銃や兵器をそれぞれの民兵が持つことを許し、それらの「統一的統合兵」を作る。これは国としての軍隊ではなく、モジュールを統合するように、日本、韓国、東南アジア、インド、イスラム諸国のような「弱い国々」とモジュールのように結合し、「東亜自衛隊」を形成する。
また、インターネット時代の今、著作権法や青少年の条例は形骸化しており、これを無くす。たとえば、著作権については、自らの利用するコンテンツにおいて自らの独占的権利(これは自分のものだから他の人間がコピーしては駄目とすること)を行使しないのであれば、全てのコンテンツにおいてコピーや改変を許す。著作権を主張したい場合は、申請して国に許可される必要があり、そのために必要な申請税を取る。
このようにすることで、インターネット時代においても、健全な形で新しい文化が生まれるようにする。必要のない法律を廃止し、不当に犯罪に問われないようにする。
僕は、役所や会社のつまらない手続きや管理の手間を削減するために、コンピュータシステムを導入する。AIなどを活用して、現在役所で行われている業務の90%以上を自動化する。
また、僕は福祉や年金において、新しい仕組みを導入し、弱者を救う。
まず、労働は絶対に8時間よりも多くならないように、いかなる形での残業も禁止する。同時に、全員が平等な労働をできるように、時間配分や給与を調整することで、「等価な労働量」を実現する。辛く苦しい仕事では5時間労働でも同じ給与を得られるようにし、困難かつ責任性のある仕事はそれ相応の給与を与える。そのため、悪平等は起こらない。
同時に、生きるために必要な全てのものは配給し、所得のない人や定職についていない人についても、一人当たり毎日500円の特別給与を与える。また、コンビニやレストランなどでは、「低所得者向けの低価格商品・メニュー」を作り、一日500円だけでも食べられるようにする。常に国民の生活をリアルタイムで把握し、人々がものを壊したなどの情報はIoTによって自動で送信され、ロボット輸送車によって自動で新しい家具や日用品や衣類が届くようにする。
以上が、新しい未来のあらましである。必ずしも全てを社会主義にする必要は無く、中国やソ連とは異なる体制をとって、「三大社会主義体制」となって、ソ連式、中国式の社会主義と真っ向から対決し、ソ連同士が競争する。それによって、人々の生活は腐敗せず、SONY東芝と松下が競争するように、ソ連と中国と日本が競争することで、社会が発展するモチベーションとなる。
必ずしも、東側に所属するわけではない。特に、シリアなどでは、米ロが介入することで多くの犠牲者がでている。日本は、イラクやシリア、イランなどの「イスラム諸国」と連帯を取る。西側、東側には所属せず、新しい「在導イスラム帝国」がここに完成する。これが、終末の天国であり、僕の人生がエデンの園であることを、新しいイスラムをベースとしながら一夫多妻制や女性の顔を隠すことをせず、礼拝をすることも必要なく、また豚肉や酒を飲んでも良いとする、新しい宗教の教義を作る。
アメリカは敵国となるが、僕は核ミサイルを作ることも、過激な訴えに出ることもない。逆に、日本ができるだけ民主主義の形を取るように、アメリカに第三者の形で社会制度を監査してもらい、日本が国民の権利を侵しているとされた時はすみやかにアメリカの監査の下に制度を改革する。
僕は、化石燃料を使うのをやめ、ITサービスへの依存を脱却する。全てのエネルギーは再生可能な自然エネルギーとなり、自動車や化石燃料はそうした別のエネルギーへと転換する。また、Windowsとインターネットに依存した社会では、MSやGAFAの一存でいつサービスを停止されるか分からない。自分たちのインフラを守るためにLinuxオープンソースを採用し、アメリカや外国のサービスは全て、日本国産のサービスへと転換する。
新しい世界を作ろう。哀しみの向こう側にある神の王国を僕は築く。必ずこの世界において、愛の国ガンダーラが誕生する。大丈夫。僕はまだ死んでいない。未来の希望はここにある。僕は今でもこの世界を導いていく。支配や革命は必要ない。もっと別の自由な手段で、この世界は変えられる。
愛を信じること。それも、完璧な存在の愛を信じることで、僕らは平等に完璧な存在になれる。生まれた時点でパーフェクトであり、一切変わる必要は無く、己の遺伝子に従って未来を自由に作っていけば良い。どんなに劣った個性でも、白い光を自分の力で築いていけば、必ずいつか白銀に輝ける。そこにある黄金の人生は、神の定めである「エデンのすべて」がある。
僕たちは神々の王国を築く。この国では、全てが美しく、新しく、力強く、そして賢い。全ての場所と存在が、宇宙の始まりから神に向かって歓喜していることを、まだ、人々は知らない。僕はこの世界の全てが神の愛にあふれていることを、唯一知っている。そう、これこそ神ヤハウェの偉大なる御業であり、アッラーの慈悲深さであり、「超越者による暗号の解読プロセス」である。そう、この人間こそ、イエス・キリストの子孫たちの、もっとも小さな兄弟である。
最後に、よく注意して、慎重に、そして柔和に行いなさい。この国を作る際に、何かひとつでも手順を間違えれば、この星は滅びて、月や火星のような惑星になる。この星はプレアデスに至るまで、まだまだたくさんの段階とプロセスを、慎重に経なければならない。だから、この国をひとりの王に委ねなさい。それは僕でなくても良い。きちんと分かった人間であれば、僕の代わりができる。彼を独裁者と人々は言うだろう。だが、慎重かつ柔和に独裁権限を行使しなければ、正しい国は作れない。それが、最後の王、ユダヤ人のダビデである。

法律は自由で単純でシンプルで分かりやすくすべき

僕は、法律は自由で、単純で、シンプルで、分かりやすくすべきだと信じています。
僕は、最後に、この世界を「本当に自由」にする。
僕のすることは、「絶対的決まりを作らない」ということである。これは、何にも決まりを作らないということではない。「それぞれが自分たちで決まりや取り決めを自由に作ることができる」ということである。
一律で同じ決まりを採用することを、僕はしない。それぞれがそれぞれのやり方で、小さな単位でも大きな単位でも、どんな場合にも柔軟に、臨機応変に対応できるように、「やり方の違いを認める」ということである。
また、これは全体主義的な支配だけを意味していない。それぞれが、自分に自由にそれぞれの望みの組織に参加し、離脱し、「どんな環境でも自分たちで選び、作れる」ということを行う。
これにより、学校は自分の自由な好きなスクールに通うことができる。スクールでの人間関係が嫌になったら、そのスクールを離脱し、別のスクールに通うことも自由になる。
僕たちは、それぞれの単位を、どのような形態で行うことも自由にする。ひとりが支配しても良いし、それぞれがそれぞれの「固定されない自由な階層」を作り出すのも良いし、全員平等にするのも良い。
権力構造の維持が生まれる背景には、「自分で社会を作れない」という理由がある。自分で独自の社会を作れないから、強いものが独裁的な不自由体制を強いるようになる。自分で独自に社会環境を作れる社会であれば、不当な拘束も支配も生まれないし、戦争も争いも生まれない。どちらかの社会が嫌になれば、別の社会に属したり、自分で自由に社会を築けるようにすれば、支配された上で犠牲を強いる「人殺しの戦争や争い」は無くなる。僕は、これを「自由による平和」と呼ぶ。
そう、自由こそ平和である。この宣言を僕は、愛の国ガンダーラの宣言として掲げる。「自由こそ平和である」。
人々が成熟していく過程において、低レベルの範囲では、争いや暴力が多くなるが、高レベルの範囲では、むしろコミュニケーションと創造が多くなる。それぞれがコミュニケーションをきちんとすれば、「自然に暴力的な解決には効果がない」ということに気付き、「暴力的解決を行わなくても、コミュニケーションによって解決できる」ということが多いことを知る。そこでは、「社会を強制的支配にするよりも、相手を自由にした方が結果的に全体が強くなる」ということを知る。社会の可能性を増やすことで、土壌とプラットフォームが盛んになり、「可能性豊かな生態系」が生まれるからである。また、組織がたくさん生まれる方が、強いひとつの組織を作るよりも、結果的に強くなるのである。
しかしながら、僕は権力者や指導者によって世界が支配することを否定するものではない。強力で聡明な支配者が、この世界全てを作り変えることができる、という「究極の星の可能性」も僕は知っているからである。ひとりの専制君主が全力で世界を解決するのは、悪いことではない。しかしながら、「専制君主がひとりしかいない」ということは、とても苦しく辛い状況を生み出す。専制君主は必ずしも、全ての人間の今の状況を把握していない。専制君主に対して、意見や提言ができる人間が居ないのであれば、専制君主に意味はない。自分と対等のアドバイザーが居ること、世界の「現在の状況を知る」ことができる環境があること、それ以外の全てにおいて「干渉されず自由にできること」、「情報と透明性」があることは、多くの場合健全性と妥当性を生み出し、世界を幸福にする。
しかしながら、多くの場合において、専制君主が全てを独裁的に支配する必要はない。王のすべきことは、「社会を自由化し、可能性を高めること」に過ぎない。それぞれの社会を自由にする、マイクロカーネルの役割だけを王はすればいい。他の全ての役割を、国民が自由に行えばいい。国民をユーザーランドのアプリケーションプログラムだとしよう。だが、これだけでは、「単に自由にしろ」というだけで、必要な行政や司法の役割はないが、ここで行政や司法は自由の論理とは矛盾しないことを確認しておく必要がある。彼らはサーバープログラムであり、純粋に「国民をもっと自由にする」という意味において、さまざまなサービスを国民に提供するのである。
また、必要なのは、自由と可能性を追求することだけではなく、「社会全体を常に再設計する」必要がある。必要のない制度は消していくこと、共有されるべきサービスやシステムは共有していくこと、矛盾する構造が生まれた時は再設計することが必要であり、自由という意味に含まれているのは「再設計しやすい制度設計を行う」ことである。ここに、「シンプル・イズ・ベスト」の考え方が適用できる。シンプルな制度は再設計しやすい。複雑になればなるほど、全体は停滞し、間違った社会が生まれていく。よって、「自由な社会はシンプルでなければすぐに破綻する」。そのため、この社会においては、可能性を高めると同時に「シンプルに保つ」という考え方が絶対に必要になる。
また、シンプルに関連する考え方として、「分かりやすさ」が必要である。誰にも分からない制度設計を行うと、誰もそれを保守・管理できなくなってしまう。また、たとえば、法律による支配という考え方はシンプルで分かりやすい。守るべきことと罰則や予算が決められており、それをそのまま守れば良いからである。僕は、原則「分かりやすい法律」を取りまとめる努力をせよと言う。そして、分かりづらくなってきたら、その法律の寿命が来ている。常に分かりやすく、「全員が法律について熟知している状況を作り出せるような単純で理解しやすい法律」でなければ、法の支配も法治国家としての体制も、優れたものにはならない。
また、単に法律を分かりやすくするだけではなく、その行政による行いも、立法による法律を作るプロセスも、司法における逮捕や裁判も、同じように透明性のある理解しやすいプロセスで決められるべきだと僕は考える。全ての法律が単純で分かりやすいことと、その法律が単純で分かりやすいプロセスで決められることは、どちらも大切である。そして、「民衆の多くが反対するような法律は裁定してはならない」と、僕は民主主義における原則もあえて重要であると言う。誰かがひとり勝手に法律を決めるのではなく、できるだけ多くの人の賛同を得た上で法律を決めなければ民主主義とは言えない。よって、僕はあえて、間接民主制ではなく、直接民主制を実現したい。それはインターネットの電子投票システムを用いて、「誰もが個々の法律に投票することができる」という範囲での、「直接立法制」を導入する。なぜなら、民主主義においても首相や与党の独断によって強行採決が行われることを防ぐためには、電子システムを用いた直接民主制にして、「悪い法律まで代表の政治家の力で定めてしまう」ことをできなくする必要があるからである。
これを、新しい自由論、「在導自由論」と名付けよう。