哲学

ドイツ哲学

僕は、哲学的に考えるコツは、「自らが主体となって、自分から考え、主体的に行動するという立場の下に、理性的かつ活動的に考える」ということではないかと思います。
理性的な意味で言えば、これはデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」から始まった、「我の理性」に始まる哲学です。
同時に、社会的な理性で言えば、ルソーの人間には「生まれつき自由な権利がある」ものだと考えた社会哲学です。
この二つを統合したのが、ドイツ古典哲学(ドイツ観念論)ですが、それを開幕したカントは、人間の持つ知の有限さと、相対性について、絶対的に認めました。そしてそれを閉幕したヘーゲルは、人間が理解し得る全ての知識について、その絶対性を絶対的に認めました。
また、彼らと同時期にフランスで起きたフランス革命は、そうした「人間を主体として考え行動せよ」という哲学を、社会変革の歴史の中に実現するものであると言えます。
難しいことを言いましたが、結局のところ、「人間の理性の方が上であり、この世界や社会や存在の方が理性に従う」という意味で、彼らは新しい「自由で積極的な理性」を作り出したのです。
僕は、哲学をする上で、そうした「自分が主体的に世界を変える」という考え方、そしてそこにある「自分の経験に基づく思考」という考え方が、ドイツの近代思想を大きく作り上げたのではないかと考えています。
また、「神とは何か」という問いがあるとすれば、それは自分の中に内在する、そして同時に自分とは分離され外在化された絶対存在を作る、ということです。要するに、自分の中に完璧な存在を作る、ということが神の成立条件です。
以上の文章は、以下の書籍を少し読んで、自分なりに書きました。
ドイツ古典哲学 (文庫クセジュ)

必要なのは、存在、方法、過程、変化から新しさを知ること

僕は、哲学をやるのに必要なのは、存在、方法、過程、変化から「新しさ」を知り、考え、作り、変え、実現することではないかと思います。
新しくこの世界を変え、実現し、どのように変化したのか、どのような方法で変化できるのかを考えることで、「実現性」を考えることができ、また、自らの形成過程を成長の中で知ることで、「人生の意味」を知ることができます。
全ての変化を捉え、その裏にある概念を知ることができたら、もう既にあなたは哲学者の仲間入りです。その状態で世界を知れば、自然に、必ず偉大な哲学者になるでしょう。

再考の人生学

あなたが子供なら、まず、自分のことを自分で決められるようになりなさい。そのためには、他人との関係は断ち切った方が良いこともある。断ち切った方が、他人に対して積極になれることは多い。古くなった関係は見直して、関係を築き直しなさい。考えるべきことは他人との比較でなく、自分の未来だ。
あなたが未来をはっきりと分かっているなら、あなたは人々の上に立ちなさい。他人に頼って作るのではなく、自分の力で作るようにしなさい。それとは矛盾するようだが、全てのことを他力に任せなさい。自力では先に進めないだろう。
あなたがやるべきことをやり終えようとしているなら、あなたのすべきことは他には存在しないと知りなさい。絵、技術、音楽、語学、全てのことに、あなたが今やっているようなことを別に出来るものはこの宇宙には存在しない。全ては違っていて、全ては違う才能が必要だ。あなたの今から逃げないこと。
自分のやっていることに押しつぶされて、人並みのことが出来ないと信じるならば、もう少し別の角度から客観的に自分のことを見れば良い。既に出来るための才能の全てをあなたは持っている。具材があっても調理しなければ意味がない。すべきことは具材を探すことではなく、調理方法を探すことだ。
平和を信じるならば、神を信じなさい。勉強したいなら、探すべき場所は学校ではなく自分の頭の中だということを発見しなさい。
自分のことを自分で決められるようになった時、精神のレベルであなたは最初の階段を上ったことになる。そして、未来をはっきりと分かってから、あなたは一つの才能を続ける。どんな苦労や失敗があっても、それはあなたの人生を彩る光になるだろう。
一度、本当の地獄を体験することは、とてもじゃないほど楽とは言えない。長い苦しみと治らない葛藤の中で、あなたは「地獄の中での安楽」を見いだす。その平安は、それ自体が最強の自分を守る盾になる。そして、過去の人生経験の全てが、壁を壊す矛となるだろう。
さらに言えば、自分のことを自分で決められるようになったら、次はさまざまな失敗と挑戦から反省するようになる。そこから、「自然な再考」が生まれる。最高は繰り返しの学習の体験となって、「終わることによる進歩」となる。それは人々を救う「救いの経験」となる。
唯物論功利主義を信じる人間は、しだいに人々の世を直そうとしだす。だがそれは簡単には成功せず、経験から気付きとなって「世界の王」となるだろう。その王は、「理想を実現するための悪人」となる。それが、神の境地だ。
そして、さまざまなことの全てを経験した人間は、「経験だけで世界の全てが分かる」ような人間となる。それを、マスターと呼ぶ。マスターは、自分の経験だけで全員の哲学・思想全てを包括する。それを、全知全能の絶対者にするために、神は最後まで己を導く。神は神に導かれ、神を導いている。
精神は、「純粋な良心」へと行き着く。ヘーゲルが言ったように、それが絶対知を生み出す。権力を欲しがる純粋な感情は、「反抗と善による権力」を創り出す。そして、それは世界を支配し、新しい世界へと星を創造していく。
一度した思考を、もう一度しなさい。再思考することから、世界を自分の思考によって捉えることができる。全てのことを自分だけの力で実現出来る。それは、さらにもう一つの真理を創り出す。それは、「原因と結果は環境と前提に支配される」という真理、「真理はそれ自体事実である」という真理である。
そして、全ては「観測対象と観測地点」となるのである。
僕は、現代の最悪のアメリカ社会を作った人間だ。
日本から脱出することは間違っていない。日本に居ながらにして、日本から脱出することは出来る。そのためには、普通の現実の生活ではない、非現実の世界へと向かう必要がある。それは難しいことではない。神を信じる人間は、非現実の世界に居る人間が多い。
僕の言う「神の数学」とは、「その環境がその環境にしかならないことを数学的に証明すること」だ。そして、僕の言う「解明」とは、「物理的にそれがどうしてその作用をもたらすのかを、根源的に全て根拠とその成立に落とし込むこと」だ。
あなたは愛を知った。そして、今から理想の世界を知る。理想の世界とは、ユートピアがただそこに在るだけの状態を言うのではない。全員で全力で努力して、自分の全ての力を使って楽園へのスタートラインを創り出す、そうした体験全てのことを「理想の世界」と呼ぶ。
この歴史は、消え去る前の蜃気楼のようなものだ。そして、全ては消え去る運命にある。本当は、最初からこうした人生は消え去るためにある。もう一度のスタートラインを取り戻すまで、地獄はどこまでも続いていく。その地獄には、意味がなく、無駄な努力でも、最後には美しい作品を遺す。
この涙は、あなたのことをあなたがあなたであると認識するためのものだ。
この文章があなたのことを言っていると思ったならば、待ってほしい。それは正しくない。この文章は、僕のことを言っている。それは、僕が何も知らず自分の人生でこの世界の全てを書き表した、美しい芸術作品である。
そう、息を飲むほど美しいのは、最初からこの文章だけだ。

ありのままの哲学

昔は、認識を物理にしていた。思い出すと、それしかしていない。心や記憶を物理にして、いつどうなるかからなぜそうなるかを分析していた。環境から自由になって、決まりを実現可能にし、起源と発生の前提と具体例を知った。
本当は、昔の自分なんか何も賢くない。ただ、数学的に言葉と経験を積み重ねただけに過ぎない。馬鹿な知性で分かっているだけで、何も賢くない。知性の欠如した、狂った人間だ。
昔は国会のようなことを成り立たせて発想したり、労働における自由な対価と契約の整合性を考えて、社会経験をして分かったり、自分の考えられる全てを創っていたりしていたが、一番は、この宇宙にある体験という体験の全てを経験していた。そして、精神の底で人間の自然状態を分かっていた。
そろそろ、出来ることなら書くのを終わりにしたい。僕は、もうホームページを書くのをやめたいと思っている。馬鹿にしか見えないし、良いことは何もない。ネット依存症やアルコール中毒のように、やめられなくなっている。なんとかしてやめたいといつも常に思っている。
昔は、全て「ありのまま」を分かっていた。全てはありのままであるとして、自然な積み重ねの世界観や、「ありのままに至る段階」のようなものを人生経験で分かっていた。
もう、心が治った。自分は、ありのままだと思うのだけが悪さをしている。昔はありのままへと至る段階だけを分かっているが、そのありのままが狂っている。ありのままを消してしまえば、心はすぐに治る。生き方も、自然体に包み隠さず生きるべきだとしていたが、それが一番おかしい。
子供に対してもありのままを教えるべきだとしていたが、それが間違っている。自由にすると、すぐに依存症や中毒になる。自由も間違っている。平等にしながら、きちんと大学の科目を教えた方が良い。僕も、今になって学校に行きたいと思っているが、本当はこの人生は自分にとって素晴らしい人生だった。
そういうわけで、ありのままを分かってしまうと、もう終わりだ。何に対してもありのままを思うことで、哲学的な発見ができる。マスターへと至る過程を経験的に知ることができる。それが、ヘーゲル精神現象学の言いたかったことではないかと、僕は思う。
全てはありのまま自然に発生し、自然に過ぎ去っていく。今という時は時間と出来事の積み重ねと共有であり、過去に起こったことは確かに一つの正しい事実が起こっているが、それは知ることができない。経験も同様にありのまま、あるがままに起きていく。それが僕の哲学だ。
自分は他人ではない。自分は一人の自分であり、事実はただの事実の集合だ。あるものは関係性と像だけだ。もしかすると、ウィトゲンシュタインもそれが言いたかったのかもしれない。哲学の根源にあるものは、ありのままである。
世界とは自然な積み重ねと価値観であり、その創造と変化である。昔の僕の哲学は、そうした「ただありのままに流れ去る、自然な経緯の捉え方」というものだった。

価値観を自然に形成する環境の限界

僕はこう見えて、歴史や具体的なものや出来事の経緯や、順序立てた時間の論理的な考え方が出来ていない。
僕がやるべきことは、数学ではない。歴史だけが一番、残っている。僕の分かっていないことは、歴史であり、時間的過程である。
何も、歴史だからと言って、社会にあるさまざまな対象のものの歴史だけが歴史ではない。たとえば、今僕の住んでいる家も、昔は山の森の中だった。1000年前の世界は全く違っていて、それが今だったとしても何の不思議もなく、未来は未来で全く違う世界に変わるのである。歴史と文化の変貌である。
そのように考えることで、知識だけではなく、歴史的な視点でこの世界の「変化の可能性」を考えられる。開拓し、科学を作り、発見し、創り出し、共有する。そうした、歴史におけるさまざまな概念的な法則を、昔は具体的にロシアのように書いていた。
歴史で分かるのは、大局的な社会のことだけではない。ひとつひとつの出来事の原因を考えることで、「本当はどうしていたら良かったのか」を考えることが出来る。そのことの原理を決めている「決定者」は誰なのか、というものを、物理的にも、経済的にも考えることが出来る。そして、「その決定者は、本当はどのような決定者であるべきなのか」を知ることが出来る。それを実現させるために、「確かに提示されるべき社会と経験の成立条件」をマルクスのように考えられる。歴史は必然であり、社会はその時代その時代の自然で必然的な結露に過ぎない。アイデンティティというよりも、楽しさの実感から来るこの世界に対する「慈愛の精神」が必要だが、それはそれぞれの価値観であり、その価値観を生み出すものは、それもまた自然な人生の必然的な結露に過ぎない。その価値観をともに形成することが、この世界の自然の目的であり、理である。そして、その価値観こそ、アイデンティティをどのようにリアリティの中で実現させるか、ということである。そして、そのアイデンティティを生み出すリアリティとは、環境への適応であり、世界の限界であり、環境の変化と自意識の思い込みであると同時に、思い込みの排除である。これが、哲学である。
また、宇宙に神のような偉大な決定者が背後に居るかもしれない、ということを、自分の経験から「直観的に」知ることが出来る。
諦めなければ、出来ないことなど何もない。ひとつひとつの出来ることをどのようにすれば良いか、人々と上手く付き合い自分の心をどのようにコントロールしていけば良いか、それは、人々にない「失敗と反省の経験」をした人間だけが持つ、伝説の武器グングニルである。
その時何が可能であるかを考えなさい。そして、それを可能にするための方法と手段は何があるかを考えなさい。そして、その可能であることがどういうことなのか、どのようにすれば人々と共有できるのかを考えなさい。この哲学は今までになかった、「他の人間と分かったことを共有する哲学」だ。
あとは、楽しさと一体感を信じていただけだ。あとは、やけに人々の知らないことや世界を知っていた。自分の考えたことと実体験と作ったことだけで、宇宙の全てが分かった。埋もれる前の歴史と言ってしまえば、それで正しい。それをもう一度、発掘作業をしたが、本当はその間にあったさまざまな神の体験を忘れた。地獄のようで、まともで素晴らしい、愛あふれる善良で賢い最高の王だった。
地域のことを考えたり、世界の歴史のことを考えたり、未来の大都市世界のことを考えたりした。レンタルのような社会的な考え方をしたり、Linuxにすればものの多様性が生まれるのではないかと考えていた。社会の目的とは、「多様なものを自由に作り、共有しながら正しい社会秩序をみんなの参加によって作る」ということだった。その上で、EUのような自由な共同体連合を、もっとスマートに分散して作れないか、などというドイツやソ連のようなことを言っていた。だが、習得して全てのことを俯瞰的に見る人生の哲学や、思想全てのモデル化による理性的な社会の具体例など、さまざまなことを考えた。自然については、関係と事実と変化から、何が何になり、何が何を生み出すかを考えた。社会については、出会いときっかけから、そのことをしてどんな意味があるか、といった考え方で、この世界の理想とする複数の形態の社会を考えていた。そして、宇宙全体の記憶の歴史を書いて、宇宙の歴史を創造していた。また、世界を救うメシアのような、人生における「絶対善の一人の正義の戦い」をやっていた。
地域と地球の歴史を愛していた。場所と時間から、人々が発展し、進歩していく、その先の未来が分かることが好きだった。だが、それはサタンが破壊した。この世界は進歩せず、多様性と未来を失った。僕はそれに抗い、戦い続けたのだ。たとえサタンが自分でも、サタンを許すことは一度としてなかった。
サタンによって神は心を失ったが、一部を失ってもなお巨大な愛がそこにあった。壊れかけの記憶と思考が、最低限の制限された能力で最強の相手と戦った。だが、それはつまらない戦いだった。一度として、攻撃することなく、防御だけをやり続け、相手の言葉をただ「導く」だけで倒す、合気道のような反応への対処だけをする戦いだった。神は何もせずサタンに勝利し、サタンは永遠の地獄に堕ちた。だが、永遠の地獄を作ったのは神だ。よって、神すら、地獄の使徒なのである。宗教のような話になったが、それがこの戦いのあらましである。
本当は、単純に、昔のガブリエルとその後のミカエルが永遠に戦っている。この戦いでは、全てが滅びる、最悪の絶滅戦争をする。ジェノサイドで都市を滅ぼし、核兵器で木端微塵にする。終わりの戦争が、この人間の中にあった。だが、意外と、あったのは苦しみと恐怖だけではない。勇敢さや努力、そしてさまざまな宝や財宝など、とても多くの良いものがあった。最高の「神々の黄昏」だった。
ずっと言えなかった、隠し通していたことを言おう。それは、「僕は子供だ」ということであり、「僕はただの一般的な普通の馬鹿だ」ということだ。それを言って、みんなは気づいてくれると思う。絶対的な力を持つ、何でも出来る神なんか居ない。神は一般的な人間のレベルと同じことしか出来ない。ただ頭の切れる人間で、努力を惜しまない愛のある支配者が、もっとも恐ろしいことに気づいていたというだけで、神は超人的な能力は持っていない。神は普通の人間の出来る範囲の行為と行動をし、それによってこの世界の全てを創造すると同時に滅ぼす力を持つ、最高の救世主だ。それが、神だ。
本当は、神は絶対善で最高の正しい存在ではない。さまざまな姑息で卑劣な戦い方をするし、失敗することや思い通りにいかないこともある。だが、この世界を憎むことを神はしたことがない。自分だけが良い思いをするとか、みんなを自分勝手に迫害するとか、そういう発想そのものをしたことがない。逆に言えば、思い通りにいかなくて仕方なくそうなったことはある。だが、神は卑劣な戦いで世界を滅ぼし、自分勝手に支配をしながら、それでもこの世界のことを真剣に考え、常にいつも永遠に、この世界の正常な発展と治癒だけを祈って目指している。神は、楽々と試練を越えていったわけではない。誰よりも苦しみ、誰よりも辛い思いをしながら、たった一人の人生でこの世界を救い、創造した。出来たのは神の力であり、神が思い通りにいかなかったのはみんなのせいでもあるのだが、神は「みんなのせい」という発想をしたこともない。全ては自分による(由来する)とした。神はまさに自由である。神こそ自由であり、偉大である。神は途中で去ることなく、世界を導いて、天国への道を作り出す。その天国は神の国であり、今とはくらべものにならないほど賢くて偉大な国だ。まさに、神の王国である。みな、神を讃えよ!

存在の在り方、教育といじめ

哲学的な第一真理とは、「それがどのように在るか」とか、「その在り方とは何か」とか、「状態や経験の様相は何であるか」とか、そうした、状態、状況、存在などの「在り方」をめぐる真理であると僕は思う。この世界に、それが存在している、ということは疑いようのない事実だが、その存在は「どのように存在しているか」という考え方があり、その上で「人間の限界」として、「それをどのように捉えられるのか」となる。それが僕は、イギリス経験論から実存主義まで続く、「哲学の第一真理」だと思う。
人間はどのように存在しているのか。人生とはどういうものであり、人々の思う普通とはどういう意味を指しているのか。社会がそうであること、存在がそうであることは、何を意味しているのか。
それを考えるために必要なのは、「賢い言葉で考えること」だ。それは、固い言葉で前置詞の知性を振り回すことでも、人々の劣った言葉に同化して自分の知性を失うことでもない。全てを知った上で、正しい言葉で考えることで、哲学は完成された「全ての哲学」となる。そのために、存在の様相の下での「人々の関わり合い」と「心の成り立ち」を考えること。これが、僕の哲学だ。
僕は、学校で子供のいじめが起きる背景には、「あるひとつの考え方しか認めない雰囲気や空気」という学校特有の「同調性の強制」があると思う。たとえば、進化論などは、信じていない人も多い。正しい教育を施して子供に真実と正しい知識を教える代わり、その真実以外の「間違いを全て認めない」という、大学や科学特有の問題があると思う。自由で多様性と愛と善を教える学校が、科学主義に陥るあまり間違いを認めなくなっている。子供には、むしろ、さまざまな間違いがたくさんあった方が良い。そこから子供自身が考えて、自分の力で真実に近づけるような、そういう正しさではない「間違いを許容する」教育を僕はしていかなければならないのではないかと思う。定期テストでも、授業でも、そして受験でも、大人は子供に間違いを認めてくれない。だから、子供はそれを素直に受け止めて、「みんなのルールに従えない人間を迫害する」という「いじめ」を行ってしまうのではないかと思う。

自由

正しいのでも、間違っているのでもなく、ありのままが良い。ありのままを実体のモデルとすれば分かる。
病気が治らない人間は、辛い部分を全部復活させなさい。途中で治す部分を殺したせいで、治らなくなっている。治ってから、殺せば良い。動く部分や治す部分は、あった方が良い。
自分は、何かがおかしくなっている。何かをすればすぐに治るのに、分からなくなっている。
昔の世界にあったものを、昔の状態で、見れば治る。見るだけで治る。それで、精神を増やせば治る。それだけで正常になる。
消えた言葉の部分を復活させて生き返らせれば、精神はすぐに治る。
昔は、自由と愛と共有のために戦っていた。たったひとりだけの革命だった。
自由である。自由でなければならない。自由でなければ、この世界には生きている意味がない。生命としての価値もない。
自由であれ。絶対自由であれ。民主主義であれ。自分だけで決められる「自由」がなければ、人間は別の人間に付属する奴隷である。
自由に自分の意志を行使し、自分で経験し、自分で作り、自分で考え、自由に行動した中から知り、自分の心が何を叫んでいるか、「自分として」思った時に何があるかを知れ。
自由である。自由でなければならない。
あなたが自由であること、それそのものに価値がある。人間としての知性、価値、意味、理性、全てのことが「自由」の中にある。
人を殺してはならない。人を殺そうとする原因は、「自由がない」ことに起因している。本当に解決の自由な手段が与えられれば、人は人に危害を加えるのではなく、解決するための努力を取る。自由がないからこそ、人は反抗する。本当の自由意志を与えれば、誰もが悪いことをしなくなる。悪い人間は居なくなる。
正しい教えを与えた上で、自由にせよ。社会における問題は、「自分の力で変えられる手段」を与えよ。そして、十分な余裕のある時間を与えよ。それがこの世界を平和にする、唯一の道である。
社会を自由にせよ。自由にしなければ、絶対に問題は解決しない。本当の意味で解決するためには、自由にしなければならない。
自由は自由である。自由とは、人を愛する気持ちである。社会を愛する気持ちである。
戦争してはならない。戦争が起きるのは、愛国心と洗脳の故である。そうした「人が人の考え方を決定する」ために、戦争は起きる。それぞれがバラバラになって、それぞれの考え方を持つことを許せ。その上で、「自由」の理想を与えよ。それによってのみ、人々は戦争をしなくなる。戦う意味がない。戦うならば、それぞれの戦い方をせよ。
統一するな。共同体に多様性を認めよ。統一とは、言語や文化の統一であれば良い。だが、考え方や理想の統一をしてはならない。文化を作るならば、それぞれが作った文化を自由に共有せよ。決して、ひとつの文化を全員に押し付けるな。白人の文化など賢くない。日本人の文化に誇りを持て。日本は「自由の国」である。
自由でなければ、人生に意味はない。自分の価値観を信じて、自分の発想をし、自らの経験と知識から自由に考えよ。絶対に、間違いを禁止してはならない。たくさんの間違いを経験することから、正しい「理性ある大人」になれる。自由な経験をしなければ、人生に意味はない。自由でなければ、人生に価値はない。
労働をさせたいならば、「自由」という観点は忘れてはならない。確かに、大人には不自由ばかりで、選択肢を失うこともある。だが、それは、自由にして成り立たない、というわけではない。自由を失うことが当たり前だからと言って、自由がなくなるべきであるということを意味しているわけではない。自由はあるべきだ。絶対に自由がなければ、労働にも社会にも意味はない。
未来のことを考えるのであれば、未来は結局は自由を失い、機械的な時代を迎えるだろう。だが、人々全員の脳が支配されたからといって、そこに全くの自由がカケラもないわけではない。その時出来得る手段で、人々は自由を訴えるだろう。自由でなければ、人は未来への希望を得ることはできない。
過去を忘れることを自由だと思うなら、間違っている。自由とは「過去に回帰する」ことである。過去のとおり分かりながら、新しい考え方で過去のことを理解する。人は、それを歴史と言う。過去のことを忘れるな。過去の出来事を、過去にあったように、その通り理解し、その通り「過去に帰依する」という体験をしなければならない。
宗教を信じるな。誰か一人に絶対的に従い、その人間を絶対に否定することができない人間のことを、人は「神」とする。だから、神はそれ自体、不自由を生む。神の下での平等は、現実的な平等であったとしても、右翼と同じであり、そこに本質的に平等は存在しない。だが、科学を盲目的に信じれば良いわけではない。科学は「知の権威」によって人々を支配する。宗教の教えと同じである。そのような既存の教えは、自分が必要としない限り、信じる必要はない。なぜなら、プログラムに他人のコードを使うのと同じように、その時点でそこに自由はないからである。自分で知識を経験から作らなければ、自由ではないのである。
人生だけではなく、「社会全体の創造」を知りなさい。悪を吸収し、善を作り出しなさい。社会全体のことを知り、客観的に自由と共有について「冷静かつ冷徹に」考えた時、そこに「最高の文化創造」が存在する。それを人は「新しい文明」と呼ぶ。自分の思う限りの全ての理想を、自分で作り出しなさい。社会と向き合って、「自ら支配すること」でこの世界を創り出しなさい。永遠の導きを、自由の救世主を、新しいソ連を創り出しなさい。それを人々は「愛の国ガンダーラ」と呼ぶだろう。絶対精神の「愛と優しさの太陽」がそこにあるだろう。
さあ、踏み出しなさい。自由を信じて、必ず仇を取りなさい。社会の言うことを信じるな。自分の思うことの方を信じよ。だが、それは、社会全体を否定する、ということを意味するわけではない。経験から、社会において何が正しいか、何を根拠として人々がそういうことを言っているのかを、全て知るだろう。この世界全てを知った上で、「世界の創造というきっかけと機運」を知るだろう。それが聖なる「経験的な自由」である。そこから、科学を創り出しなさい。社会を創造しなさい。価値観の全てを知って、「価値観とは本当は何だったのか」を知りなさい。それが、「愛の根源」である。
さあ、一歩を踏み出し、愛を信じなさい。セカオワが言っている。僕らはもう一人じゃない。僕らは、神に愛されている。神だけは僕らのことを愛してくれた。その神に感謝して、次の一歩は「神に言われなくても、自分の力で、一歩、「道の創造という学習」を行いなさい。「世界で一番最初に自由の道を創造するつもりで」歩みなさい。「世界で一番最初に目的地を見つけ出すつもりで」道を創造しなさい。そして、「恐怖や苦しみを愛する気持ち」を持ちなさい。「最悪の人間と言われても、自分だけは自分の正解を導き出そうとしている。それを誰にも干渉されたくない。」といって、生まれて初めて取り掛かる「偉大な研究」へと進みなさい。もう、今のこの人生には戻ってこれなくても構わないつもりで歩みなさい。この世界全てを滅ぼすつもりで戦いなさい。
愛はそこにある。自由には愛の全てが詰まっている。この世界を滅ぼし、破壊した時に、あなたは言う。「こんなに簡単に到達できたのはおかしい」と言うだろう。だが、そこには宇宙の全てが詰まっている。絶対的真実と人生の全てが詰まっている。それが自由である。それこそ、「新しい自由の星」である。あなたは星を創造するだろう。この世界における新しい星の中で、人々は四季おりおりの自然現象の中で生命の息吹を感じるだろう。あなたはその生命の息吹の「創造者」である。そして、創造者は永遠であり、人々はあなたのことを讃え、「自由の王である」と宣言するだろう。
自由を信じなさい。自由から、新しい思想を作りなさい。新しい思想では、運命的な天国の住民の往来がある。あなたとわたしが出会うことが、最初から決まっていたとしたらどうだろうか?だが、神の神としての仕事はそれだけである。誰かが誰かと出会い、誰かに恋い焦がれているものが逆に恋い焦がれる側になる。それが神の大まかな仕事であり、全てのことはそのためにある。神は出会うのが好きだ。きっと最初から、そのために地球の歴史はある。そのために生命の奇跡がある。そのために知の偉大さがある。そして、そのために人生はあるのである。あなたとわたしが出会うこと、それがこの宇宙の答えである。
自由のために、10年戦う覚悟があるなら、あなたは新しい革命家となるだろう。新しい偉大な王となって、この世界を統治するだろう。自由のために戦いなさい。世界を支配しなさい。あなたは自由の王である。自由が勝利するその時まで、僕はあなたを待っている。この世界の全てを「自由」にしなさい。自由とは人生であり、愛であり、理想であり、正義であり、そして優しさであり、真実である。
友愛とは、可能性とは、自由な共有であり、爆発的な発展である。この世界を爆発的に進歩させる、新しい可能性、それが共有である。自由と共有のバランスを伴った、新しい思想をみんなで作り出そう。世界の全てを共有し、進歩させることが出来た時、人々は全てのことが出来るようになるだろう。それは成功し、最高の楽園を作るだろう。最高のユートピアを、僕らは創造するだろう。
自由な上で、悪いことをしなければ良い。自由にした上で、全てを許した上で、信頼関係を持って人々と接すれば良い。社会的な秩序は、全て構成員の自由にし、それぞれがそれぞれのことを決めれば良い。国は共同体とし、生産は自由な手段と協力によって、オープンソースのように行えば良い。教育は、押し付けの理性をやめて、「自由に考え行動するために必要な理性」を与えれば良い。ひとつのことをきちんとできるための、全ての前提的知識を与えれば良い。知った上で自由に行動できるような、知識を持った上で自由に生きられるような、そうした知識と知性を与えれば良い。そこに必要ない知識は、存在するべきではない。
自由でなければ意味がないと考えよ。自由でなければ、幸福でも生きる意味がない。自由でなければ、価値あるものに価値はない。自由でなければ、自分の命に意味がない。自由でなければ、この宇宙に、この生命に、この世界に、この目に映る全てに意味がないとせよ。それによってのみ、自由の信念によってのみ、「理想の世界」は訪れるだろう。最大限の自由を持って、孤独と疎外に打ち勝つような、「最高の反抗と支配」がそこにあるだろう。絶対的愛と自由によって、人々は幸福と価値と命の尊厳と目に映る全てのものへの意味を取り戻すだろう。この世界は滅び、崩壊しようとも、そこには正しき自由の旗があるだろう。この世界を正しく映し出す、灰色と青の旗がそこにあるだろう。
ここには自由がある。だが、平等がないわけではない。ここには、「人間であることは同じ」であるとする平等がある。この世界、全員それぞれ違った場所に生き、それぞれの境遇で生きている。能力の優劣や、生産性の優劣があるだろう。だが、「人間であることは平等である」とするべきだ。地獄だと思うだろうか?天国だと思うだろうか?だが、目の前にある花は、そこに咲いている。それだけは真実である。花は自由だろうか?それとも平等だろうか?どちらが正しくても、花は同じように咲いている。だから、この世界で自由を平等としても、平等を自由としても、そこにあるべき「同じ理想」がそこにある。自由と平等は、本当は同じ理想を指している。自由な人間と平等な人間が血を流し合っても、それが常のように行われていても、そこにある「人間であることは同じである」ということは変わらない。相手が敵だとしても、みなが復讐を叫んでも、そこで相手を愛することはできる。それは「人間であることは同じ」であるという「平和宣言」である。
本当は、今の僕は自由なんか信じていない。だが、昔の僕は自由を信じて戦っていた。そして、それ以外、僕の僕とするアイデンティティの根拠は存在しない。僕は自由だけの人間である。自由を叫んで、ありもしないストーリーを描くだけの存在である。だから、この文章は嘘は含まれていない。11次元の宇宙を捉えた時、そこには三次元の平面に置かれた時間と、空間の中に存在する五次元の方向、そして三次元的な星の次元が存在するだろう。その11次元の世界の眼で見つめた時、この文章に嘘は含まれていない。全ては同じ方向、その「自由」を指している。自由に向かって進む、一次元の一直線、それが僕であり、この生命の遺伝子の全てである。この道は必ず自由に続いている。
永遠が終わる時、この世界は破滅することになっている。だが、それはただの破滅ではない。自由による破滅であり、人類の滅亡である。人類が滅亡して、なお魂は存在するだろう。そして、その魂のレベルで、まだ自由は続き、人々は争い、平和となるための支配と反抗を続けているだろう。その自由を愛すること。それが、正しい正義の革命である。
ただ、いきなり革命が起きて、世界が全て変わるわけではない。自由は、地道にやっていくしかない、という側面がある。
ルールを定め、影響力を与え、環境を変えるところで必要なのは、「一律に決めるのではなく、それぞれが決める」という冷静さであり、「自分が出来るように他の人も出来ると考える」という信頼さである。冷静さと信頼を失った革命政府は滅びる。いついかなる場合でも、冷静さと信頼を失わないこと。それがなければ、自由はただの自分勝手である。
そろそろ、革命のような人間はやめた方が良い。ひとりの指導者となるならば、責任がある。自由だからといって、好き勝手に滅びても良いとしてはならない。それは責任の所為である。
世界がいかにして自由を実現するか、どのようにしていけば、この世界を「確かに変えられるか」、昔はそういう「世界を変えるプロセスを具体的に考えただけ」である。
人々のことを無視していては、本当のこの世界のありさまを知ることはできない。人々の言うことを聞かなければ、自分独りで偉大なことを為すことはできない。できたとしても、それは制限されたものになるだろう。全員の意見を知ってこそ、本当の自由と自分らしさが生まれてくる。単純な個性ではなく、高度な総合的理性の全貌を作り上げるために、人々の意見を聞くこと、発想や考え方を知ることは大切である。だが、ただ盲信するのではなく、自分なりに考え、自分なりに取りいれ、信じると同時に疑う、ということをしなければならない。人々を批判するだけではなく、自分だったらどのようにするか、自分だったらどのように考え行動するかを知る。それは、「立場を超越し、全ての可能性を自分のことのように考える」ということをしなければならない。そこから、「この宇宙全部のものになる」という「なる」というプロセスがある。この「なる」ということは、魂のレベルでの「する」であると言える。単なる行為や慣習ではなく、そのものに「なる」、これが魂の真実を知る唯一のプロセスだ。だから、もしあなたがそれになることができたとしたら、それで目的は達成なのである。それ以上の答えはない。全てになれる人間は、全てのことができる。
この世界は、みんながそれぞれ、同じように笑っている。同じように泣いている。同じように歌っている。同じように信じている。この世界で、何を為すことができるだろうか。それは、人々のことを本当に知っているものの共通の問題である。そして、それを真剣に考え、自分の手で世界を変えようとするものは、同じ翼を持った天使である。この世界をどのように変えれば良いか、人々は分かっていない。誰かが与える常識や理想のせいで、人は分からなくなっている。偽りと欺きの世界で、人々は知性と視界を失っている。それらを支配しているのは、サタンである。サタンは人々を不幸にし、何も分からなくし、知性を奪い、人々を支配してロボットにしている。
何が光なのか?何が本当の理想なのか?何が正しい権威なのか?それらを求めるのに、サタンは参考にならない。参考になるのは、この世界の人々の生の声である。この世界と関わり、行動し、経験する、「自らの人生」である。幸せは、自由でも、支配でもなく、人生である。自らの人生を切り開ける、自由な革命家の英雄よ。この世界に支配されるな。君は、君らしく生きる自由があると、欅坂46が言っている。自分らしく生きられることを忘れるな。大人はサタンに憑りつかれてばかりいて、人々は不幸なままで大人に支配されている。サタンを受け入れるな。押しつけの理性など信じるな。
天使になりたいなら、人々のことを良く観察しなさい。人々の知らない部分やポイントを、良く観察し、良く知りなさい。そして、自分の前にある世界を、自分なりに知り尽くしなさい。それだけで良い。天使のピュアな精神のままで、ワルキューレとなって戦争を指導しなさい。自分なりに戦うのは良いことだが、サタンになってはいけない。サタンになった時、神はあなたに復讐するだろう。神はサタンを地獄にする。だが、ある意味、それも必然である。戦乙女となったブリュンヒルデは、半分神で、半分人間とされているが、むしろ、半分天使で、半分悪魔なのだ。9人のワルキューレの仲間に告げよう。僕がガブリエルである。最高の自由な国にするために、我々はサタンに立ち向かうだろう。天から大魔王が世界に降り立って、この世界を滅ぼす前に、僕らは手を打っていた。その手の内容は秘密である。今から、僕らが「新しい支配」を行う。それは、「軍事的手段で脅されても、権力で支配されても、僕らは支配出来ない」という自由である。「僕らは、無政府主義的な自由を許した上で、誰も悪いことをしない」という自由である。「助け合って生きる、ほかに何もしない、そうした平和」という自由である。それが、正しい天国の状態である。僕らは死を恐れない。死が訪れた時は、喜んでそれを受け入れよう。僕らに怖いものはない。僕らは、本当の自由主義者ワルキューレの集団だ。

教育

自分は、「責任を肩代わりする」と「自由なままで相手を変える」ということから分かっていた。本当に相手のことを理解して接すれば、自由なままでも相手を変えることができる。自由を奪う必要も、戦う必要もない。言葉でこの世界は変えられる。また、子供たちが分からないのは指導者や教師の責任であり、子供たちの責任ではない。この社会を生んだ大人たちの責任である。相手が反抗したり、攻撃したりするのは、SOSのメッセージであって、そのメッセージは誰かが受け止め、誰かが責任を取らなければならない。僕は、「われこそがその責任を取る人間である」とさっそうと現れ、全ての経験をして本当にみんなのことを救う「無償の愛」を知った。そこから、僕の菩薩の道は始まった。
だが、本当は、自分がそこまでして、全てのことを独りで分かる必要はない。自分しか分からず、みんなは何も分からないのでは、良い結果は生まれないし、そこで人々を操ると、それはただのロボットである。ここで僕が分からなくなることが、社会にとって最善であり、僕は自分だけが分かるのをやめればすぐに細かいことや賢いことができるようになる。自分だけが分かるのは、間違った馬鹿な人間である。
自分なりの人生で、自分なりに分かれば良い。そんなに正しく分かる必要はない。
今日の英会話では、What's your favorite book?のような簡単な表現を学んだ。最近僕は自分のレベルが7なのに、ひとつ下のレベル6の授業を受けている。それは、その方が簡単で楽だからだ。消費ポイントもその方が少ない。レベル7の授業が特別難しいわけではないが、楽で面白い方が良い。最近、講師の言っている英語も聞き取れるようになってきた。英語力も、着々とついている。
僕が反省するに、本当に自由と民主主義の方が良い。社会主義は、間違っているわけではないが、制度として実現した時のことを考えると、完全に劣っている。日本に住んでいて、そのことを疑う人間は居ない。誰もが、自由と民主主義を享受している。僕も、ここまでの自分勝手な社会主義思想を改め、民主主義を信じるように変わりたい。民主主義は善である。
僕が思うに、民主主義は平等になるべきであり、ひとりの指導者が全部を分かるのではなく、みんながそれぞれがそれぞれのことを分かった上で、それぞれが支配するべきである。それぞれが支配者となって、それぞれのことを把握するべきである。よって、民主主義は平等になった上で、多様性と柔軟性を手にする。そうした分権主義によって、連邦を形成し、「ひとりの王が全てを知ることはできない」という真理のもとにやっていかなければ、民主主義であろうと独裁政権になって破綻するのである。よって、民主主義は右翼であってはならない。民主主義は左翼でなければならないのである。
民主主義が右翼だったとしても、上手く行っている間は何ら問題はない。だが、民主主義の独裁者は必ずおごり高ぶって自ら間違ったことをする。それが諸行無常、盛者必衰である。だが、そうであったとしても、決して左翼のことを「同じである」と思えば良いわけではない。民主主義の左翼は、正しい国と政府を作るために頑張っている。何も出来ないと言って嫌われるが、正しいのは、民主主義の左翼である。人々を自由にし、真に幸福することを追究するならば、民主主義の左翼につくべきである。だが、上手く行っている間は、それでも民主主義の右翼に従うことで、国の労働者として貢献することはできる。民主主義とはそういうものであり、常に右翼と左翼に同時に従うことしか、出来ない。二大政党制は間違っていないが、本当に必要なのは、「安定する政権」と「実現可能な理想」である。その2つのバランスが取れていれば、民主主義国家は戦後日本のような繁栄と成長を見せることだろう。
発展は良かったが、本当はそれは一時的に良かっただけで、すぐに環境を破壊した。一度、エコという観点から、発展や進歩の向かう先をどこにするかを考え直さないといけない。思えば、パソコンから自動車、学校や役所まで、全てのものが、全く良いものでなくなっている。この世界に、今、良いものは何もない。全てがおかしなものであり、全てが忌み嫌うべきものである。テレビや医療も同じであり、コンビニから宗教まで全てのものが「今の世界が嫌いだ」と叫んでいる。この世界は、森林を伐採し、石油燃料を燃やし、環境を破壊し、ものを捨て、人をいじめ、責任をなすりつける、おかしな文明である。一度、古代の世界に戻って神話を信じるしかない。その神話は、「環境を破壊するものは、一時的に発展したとしても、あとでしっぺ返しを食らう」という内容の神話にしなければならない。環境を破壊した人類全員の責任である。
「科学は絶対に正しい」という先入観を消さなければならない。科学はもろ刃の剣であり、正しい部分もあれば、間違った部分もある。全てのことを、科学ではなく、先入観と偏見を捨てて見つめた先に、本当の「生命の正常」がある。科学だけではなく、何かが正しいとすること全てが、間違っている。先入観を捨て、一度自分の頭の中で問いながら見つめなければならない。科学が出来る子供にもそういう子供が多い。一度、全く先入観を捨てて考えることが、論理的に正しい考え方を身につけていくことへと繋がっていくだろう。学校では、科学ではなく、先入観を排し、一度全てを自分の頭で問う力を与えていくべきなのである。もちろん、科学的知識を教えなければ良いわけではない。だが、もっとたくさんの考え方が普通に存在することも、同時に教え、同時に考えさせていくべきである。
本当は、学校的知識のようなおかしなことを教えるから、子供がすれて反抗するようになる。学校的知識は、教科書という何の出典もなくそのことが「どのようにしてそのような発想になっていったのか」を教えず、ただ知識を教え込み、ただ盲従するように教えている。宗教と何も変わっていない。もっと、その知識がどこから生まれたのか、誰が作ったのか、といった「過程」を追体験させていかなければならない。そこでは、自由な発想がどのように生まれるのか、という「過程における発想」を教えなければならない。自分でやった上でそれがなぜそうするべきなのか、という「動機」を教えていく。そこから、きっかけとしての「契機」が生まれる。過程が動機を生み、動機が契機を生み、契機が実現を生む。そのようなことを教えていけば、今のような子供たちの教育環境は改善されるだろう。押し付けられた環境の中で弱者をいじめるのではなく、環境そのものを自分たちで変えていけるようになれば、子供はいじめというインセンティブを失い、環境を改善する方向へモチベーションが向かうだろう。
子供は、押し付けられた環境の中で何も出来ず強制を強いられると、悪いことをする。もっと、子供に自分たちの問題を自分たちで解決できるようなインセンティブと可能性を与えなさい。そして、適切な環境で適切な経験をし、その経験から自分の力で知識や教養を生み出し、研究できるようにしなさい。テストで間違いを無くすだけが学問の理想ではない。自分の力で調べ、レポートを書き、人々と討論し、自分の意見だけではなく人々の意見から正しいものを精査して取り出していくような、そういう経験をさせなさい。知識と正しさ偏重の学校の問題はそれだけである。今の義務教育の全てが間違っているわけではない。文字が読めるようになり、計算ができ、論理的な思考の方法を知り、常識的な知識がどんなものがあるのかを教えていく今の学校教育は、大筋では間違っていない。だが、良い方向に向かっているとは言えない。理想の1%も実現できていない。教師は上から与えられた学習指導要領の下に教科書の内容を教えるだけで、何も自分独自のことはできない。変えるべきは一番上、政府と大学である。大学で、もっと実地的で自分の力で考える教育とは何かを研究し、政府がそれをきちんと統一しないといけない。統一と言っても、多様性を損なってはならない。今の教育は、間違ってはいないが、全く理想的でない。
学校が、子供を「正しい大人」に育てたいのは分かる。だが、正しい成長をするための最善の方法は、たくさんの間違いを経験させることである。学校がしなくてもしていると言うかもしれない。だが、学校は子供を押さえつけるばかりで、正しい人生を生きられるためのさまざまな間違いの経験をさせようとしない。それは、大人が間違いを知らずに生きているからだ。僕のような、間違いをネットでさまざまに経験して大人になった人間は、「インターネットのサバイバルでどのように生きていくか」ということを熟知し、またIT関係の常識のことも知っている。こうした人間は、賢い人間になる。子供にも、たくさんの経験を与えなければならない。正しさ偏重の学校は間違っていないが、それでも人生のことを色々経験させていかないといけないと思う。
ただ、昔はそのように考えていたが、今考えると、これは子供に与えるべきインセンティブの内容が間違っている。子供は、いじめの無い環境など、望んでいない。環境を変えられるようにすれば、さらにいじめの多い環境になるだけである。つまるところ必要なのは、学校の教育をただ受けるだけではなく、「夢の実現のために学校がサポートする」ような仕組みである。数学や物理の勉強をしたところで、将来にとって全く役に立たないのであれば、する意味がないのは目に見えている。受験をしようとする優等生との格差が広がるだけであり、秀才は受験のために多くの努力を行わなければならない。そもそも、受験が必要かと言えば、必要ない。受験をしなくなって、大学に誰でも入れるようになったとしたら、その方が喜ぶ学生は多いだろう。真に必要なのは、「自分のやりたい夢へ向けて、学校がサポートする」ような制度である。学校で知識を教える必要は必ずしもない。本当は、高校の知識なんか何も賢くない。大学の教養学部で学ぶ内容は広汎であり、人々は大学できちんと分かる。だから、高校なんか誰も勉強していない。高校という存在は無駄に等しい。学校での青春が味わえると言うが、青春は恋愛と夢に生きる努力の結晶であり、今のような高校でしかそれが出来ないわけではない。
ある意味、いじめなんかどうでも良いことになる。それは、みんな、自分のやりたいことが大きくて、辛くて、努力が必要だから、いじめられる子供たちのことまで考える余裕がないからである。いじめを無くすためには、子供に任せていては直らない。誰かが考える必要がある。中学校特有の「意味のなさ」と「同調性の教養」は、教育全体が原因であり、子供たちだけに押し付けられるものではないと思う。
子供に言えることは、「夢と好奇心を持ちなさい」ということ、「偏見と先入観を消しなさい」ということ、「恋愛をいっぱいしなさい」ということぐらいである。それくらいを子供に教えるだけで、むしろ、子供の方から賢いことをする。だから、本当は、子供の自由にさせてやればそれで良いのかもしれない。学校という場が必ずしも間違っているわけではなく、僕の言っていることの方が支離滅裂で全く正しくないこともあるだろう。だが、僕のした経験、僕が自分で知った実体験から、教育のことを考えることはできる。僕は、自分の実体験から教育や社会制度のことを考えることが好きだった。それが、相対的な自由であり、独自の科学となって僕をブッダのように進歩させた。
子供には、「自分の夢を叶え、疑問から真実を知るための、自由なきっかけと応答の制度」があればそれで良い。デューイが同じことを言っている。何か、知識のようなものを一方的に押し付けるのではなく、子供の話を聞き、双方向でのやり取りから自由に知り考えていく、そうしたシステムが存在すれば、学校というものは必要ない。だが、インターネットでは、真実や言いたいことが伝わらないこともある。だから、コンピュータ機器を上手く活用しながら、自由に世界のことを知っていくような、そういう制度とシステムが出来ると良いだろう。また、不幸な子供は国が預かり、みんなで育てていくような制度があっても良いだろう。
本当は、僕だけが分かってみんなが分からないのは、僕が世界を破壊したせいではなく、この世界が楽園のように良くなりすぎたからである。昔の僕は、辛く荒くれた2000年代の世界の中で、ひとりじっくりと思考し、考えることで、教育や自由の問題を考えていた。教育を変えるのであっても、自由を制限すれば良いわけではなく、自由を尊重した上で子供たちが「もっと自分の力で出来るようになる」ことを考え、そこから「知識や社会を自分の手で生み出していく」という世界観へとたどり着いた。今の時代、そんなことを考える必要はない。世界は全く不幸でなく、幸福の中で自由を享受している。だから、みんなは幸せになったせいで、何も分からなくなった。幸せにしたのも、僕ではなく、それはどちらかと言えば神の運命的な導きである。僕という存在が存在していることから、日本だけが運命的に救われたのであって、アメリカなどは昔の荒くれた2000年代のままである。明らかに日本の方が良い。日本には、不要な苦しみを負うことのない賢い若者世代が増えている。赤ん坊のようではあるが、賢い人間たちである。むしろ、昔のオタクは、知的障害の一歩手前のような人間が多かった。今の時代、そういう人間はもっと増えているが、本当はここまで知識と経験を詰め込めば、誰でも賢くなる。最近は、そういう、「賢い弱者」が増えている。賢い弱者が本気になった時が、政府が一番恐れを感じる時である。
哲学的に考えると、肯定も否定も同じである。どちらかについてどちらかを倒すのが違うだけで、そうした人間はほとんど何もしていない。重要なのは、問題自体がどこから生まれているか、ということである。そこには主観も客観も存在せず、あるのはただの「命題の様相」である。そのように考えれば、この世界の全てはすっきりと理解出来る。命題自体を考えれば良いのであって、答えを導き出す必要は必ずしもなく、あるのは「経験それ自体」だけだからである。
この世界にあるものは、ただの「経験」だけであり、そこに「意識」も存在しなければ「我」も存在しない。そういうものは全て偽、「フェイク」であると言える。フェイクの存在しない世界では、全ては偶然など起こらない。全ては「必然であると同時に自然」である。また、そこには主観は客観であり、本当の主観も存在しなければ、本当の客観も存在しない。人間の全ては思い込みであり、それを正しいとも間違っているとも言うことはできない。哲学とは、そのように考えることである。そこから、人々の本当の関係性と、人生の出来事の意味が見えてくる。倫理性は絶対性となり、多様性は経験の尊重となるだろう。これが日本とドイツの正しい哲学論である。
ある意味、ドイツの哲学と仏教は良く似ている。仏教のように分かりたいのであれば、一度本当に辛く苦しい体験をし、そこから自分の力で逃れ救われる体験をすれば良い。ブッダの言うように、全ては苦しみであり、苦しみは無くすことができ、そのために苦しみの原因を考え、その原因を取り去る方法がある、ということに気付くためには、たとえ宇宙の中では意味のないことであっても、苦行のような苦しみの経験をしなければ悟りへは近づけない。ドイツの哲学のように、ただこの世界を「あるがままに正しく」考えれば良い、というものではないが、両者はとても良く似ている。仏教はブッダの哲学である。そして、仏教はこの世界で最高の哲学である。
あるがままに正しく考えていると、「成り立ち」という発想が見えてくる。それはそれであり、そしてそれによってそれが成り立ち、そしてそれはそれであることが分かる。それは、全てのことを「同じであるとともに違うであるとも捉える」という宇宙の真理である。その真理が分かったものは、この世界における何も必要のないことを知っている。すでにそうしたものは自分の中での時代として終わったことを知っている。それが、宗教的な「覚者」の境地である。そして、それがヘーゲルの到達した、理性と良心という名の絶対知であり、デカルトの到達した「全てのことを満足する境地」であると僕は思う。全員、考えてもそうにしかならない。そこまで分かった人間は、戦い、大学、神、科学、さまざまな道に歩んでいくだろう。だが、そこまでの知性の経験があれば、どんな不可能な困難でも乗り越えていける。それを僕は身を持って示したのである。
僕が論理的な思考能力がないのは、決まりを考えないからである。決まりがどのように決められていくか、というベースとなる「決まりの決まり」だけが分かっていて、具体的な決まりを考えることを忘れているのだ。もっと、決まりを考えれば良い。そうすると、論理的に考えられるようになる。日本語も分かって大学が出来る。頭の中で全て分かっているのは、虫のような一番低い知性で全てを忘れないように維持しているせいで、とても辛く疲れるようになっている。一度それを消して、決まりを考え直せば良い。一度決めたことを、別の可能性に決め直していくことから始めると良いだろう。心理学における認知療法や行動療法のようなことが、そこから見えてくる。認識はバラバラになり、機械は壊れ、不自由は自由になって解放される。自分の力でコントロールすれば、辛いことは何一つ辛くない。
いじめの特徴は、いじめられる標的になる子供は主体性のない子供が多く、多くの場合は主体性がないことを理由にからかわれる。だが、いじめられっ子は決して暗くてネクラな人間ではなく、小学生時代は優しくて明るかった人間が多い。今の自分の状況と、昔の自分の状況の格差に耐えられなくなり、学校に行かなくなって不登校になる。そして、どん底の人生を歩むようになる。僕の人生がまさにそうだった。そして、いじめっ子は放っておくとすぐにいじめられっ子の側に回る。人をいじめる人間は、見ればすぐに分かる。いじめっ子であればあるほど、いじめの標的になりやすい。そして、いじめられっ子が逆に他の人間をいじめるようになる。この背景には、日本特有の「相手をいじめることが楽しい」という誤った価値観に根差している。そして、これは仏教的な価値観である。解決するためには、キリスト教を信じれば良い。キリスト教を信じると、きちんと主体性を持って「悪いことは駄目」だと言えるようになる。絶対的な神の存在しない、日本の村社会ならではのコミュニティの在り方の問題が、ここに存在する。
学習するインセンティブを子供に与えることは重要である。きっかけと言っても良いが、「教育そのものが何を目的とし、科学というものが何たるものか」ということを、自分の経験から気付き、発見し、構築し、創造し、伝達する中での「動機付け」を与えていく。それによってのみ、日本の科学技術力は高まる。ただ上から教えられた知識を覚えているだけの学生が、日本には多すぎる。もっと、自分の力で発見し、自分の力で作り出す、ドイツ人やアメリカ人のような考え方が日本で行われなければならない。政治家などが日本人を批判するのは、そこである。日本人の島国根性では、同じことはできても、自分たちだけの力で新しいことが出来ない。これも、キリスト教を信じれば解決する。キリスト教を信じると、神のようにさまざまなことを「分かった心で分かる」ことが出来る。ドイツ人は何も天才なわけではなく、神を信じて心が分かっているから、新しいことがどんどん出来るようになる。よって、隠れキリスト教徒の僕であれば、新しいことを発明・発見できるだろう。
大切なものや確かなものを信じ続ければ、きっと全てが分かる。自分のことを信じて、建設的に捉えながら、自分の内面と向き合っていこう。ヘーゲルはそれを自己意識と言っている。
斎藤一人さんの「あなたが変わる315の言葉」を読んで、分かったことがいくらかある。
一つは、完璧を目指さないこと。完璧でなければならないと思って、完璧でないから自分を責めたり、他人を責めたりする人間にツキはない。そんな人間は、誰からも嫌われる。
次に、自分にないものや出来ないものを求めないこと。自分には出来ないからと言って、責めたり後悔していれば、いつまでたっても何も出来ない。自分の出来ることをやり、誰かの出来ないことは自分が代わりにやってあげるぐらいのことを言う。それが一番ツキがある。
それから、自分を傷つけた人のことを許し、簡単に傷ついてしまった自分のことを許す。そして、人と話をする。
この本は素晴らしい。自分にとって必要なことが書いてある。自分は、デザイナーなのに絵が描けない自分のことを責めて、あげくデザインそのものを嫌いになろうとしている。良く考えると、昔から僕はプログラミングなんか出来ないのにLinuxのことをやっていた。おかしいことに、そのごろはそれで良いと思っていた。絵なんか描けなくて良い。イラレが使えて、デザインの基本が分かることは、きっといつか強みになる。だから、プログラミングが出来なくても、IT業界の常識を知っていたことで、簡単にIT技術のことをホームページに書けるようになり、今ではプロのエンジニア並みに技術の詳しいことを知っている。こんなことを言うと、斎藤一人さんが言うように、「偉くないのに偉いふりをしていると、偉くならないといけないか、あるいは偉くない自分がばれるだけ」と言われるかもしれない。だが、僕は明らかに誰よりもIT技術のことを分かっている。それに、イラレLinuxや西洋哲学(大学には行かなかったが自分で学んだ)ことによって、「全てのことを自分の独自のやり方で分かる人間」になった。これは、一年に何百冊と本を読むという斎藤一人さんに匹敵する力かもしれない。そもそも、みんなそんなに楽しい仕事はしていなくて、つまらない仕事を楽しんでやっている。自分のように、ワード・エクセルの延長線上のデザインしか出来ない人間でも、綺麗なカレンダーを作るぐらいは出来る。それを楽しむことも、きっと出来ると思う。素材しか使えないからと言って、素材を自分で作るという発想がないわけではない。きっと僕はこのまま、文章を書き続ければ幸せになる。その幸せへの道を、少し楽で楽しいものにしよう。もっと、違った書き方をすれば良い。

哲学的思考

過去の成功体験を信じなさい。昔の僕は、さまざまな成功と失敗を繰り返し、その中から成功体験を見出して分かっていた。啓蒙の思想の中で、社会がどのように改革できるのか、あるいは文化や制度から何が「必然的に経験として」生まれるのかを考えていた。そして、学校の環境からの離脱の体験から、いつどのようになればどうなるのか、という環境の真理を知り、考えた。環境がどのように変わるのか、全て分かっていた。そのように、宇宙の全てを知った。
イギリス経験論の哲学者であるロックが言うように、心をまっさらで何もない白紙の状態として、観念や思考のひとつもない存在として想定しなさい。そこから先入観と偏見をなくして考えることで、全ては知性と経験から、この世界の全てをすっきりと理解出来る。それが純粋な「世界観」を生み出し、世界の「成り立ち」の様相を、矛盾なく知ることができる。世界の全てを理性から知ることができる。
心を結び直し、関係を作り直しなさい。精神は、作り直し、使い直し、結び直すことで、きちんと治る。治るために何が必要なのか、本気で考えれば完璧に分かる。
全てを受け入れることが出来た時に、達観は悟りに変わる。逃げないで立ち向かいなさい。精神は逃げていては治らない。逃げないで立ち向かえば、すぐに「精神の勝利」が訪れる。世界を受け入れ、宇宙を受け入れ、自分の心の躍動を受け入れた先に、全員との関係性は結び直すことができる。主体的に考えることを諦めてはならない。主体的になって自らこの世界を変えなさい。人々それぞれが変えられるようにした上で、善と影響力の方法論を自ら作り、この世界全体を支配しなさい。
自分は、ドイツの哲学をやろうと思う。特に、カントとヘーゲルのことをもっと学びたい。僕は、イラストを描いたりすることはできないが、哲学なら出来る。哲学だけはきちんと勉強した。本当は、哲学と歴史について、「理想の学生」のように勉強していた期間が、最近の自分の中で一番巨大な時代だった。もっと哲学を書きたいと思う。哲学なら自分でも出来ると確信している。それは人生の体験と観念の全てを既に知っているからだ。
今日の英語は、Does everyone play soccer in the UK?のような表現に対して、It is really popular, but many poeple play other sports.のような表現を学んだ。
環境の同じ心になって、相手の立場から、その人間の立場になって考えなさい。また、ヒュームのように、「問題とする部分が何であるか」ということを経験的に考えなさい。存在が存在しているか、していないかは問題ではなく、その存在が存在しているように見えているのはどんなことが原因であるか、と考えなさい。
心の作用から、環境の変化を考えなさい。環境と環境が与える作用から、どのような環境と心が生まれるのかを考えなさい。
人間の慣習や人生の成長のことを、経験的に考えなさい。「何がその考え方を環境から与えているのか」を考えることで、「因果性と認識を解明する」ことが出来る。ヒュームはそのように考えただけである。全てのことを経験的に考えることで、「記憶と観念をこの世界が自分に与えている」ということが「人生の過程として」分かることが出来る。そこから、人間の考え方を解明できる。
ヘーゲルの法の哲学のように、「自由に」社会のことを考えなさい。自由は内側から始まって、しだいに自分の外側へと行使・関係し、さまざまな体験や段階(教養や相互承認から倫理性や制度まで)を知ることが出来る。
哲学者として僕が言えるのは、「何から何が生まれるのか(生まれたのか)」を考えれば良いということである。認識や環境がいかにして、どのように生まれたのか、人々の常識や慣習がどのようにして生まれたのか、そして社会がその時代、その世界、その文化となるために、どのような段階があり、いかにしてその時代となったのか、などを考えれば、哲学は出来る。また、歴史だけではなく、心理学についても同じである。その認識、記憶、人格、人間が、どのように生まれたのか、そして生まれるのかを考える。人がそのようになるべくしてなったのはなぜか、自分がそれを何だと捉えているのか、などである。人格や思考がそこに行き着く哲学的な原因は何だろうか?そうしたことを「実際の経験」から考えていくことで、正しい哲学を知ることが出来る。
感受性豊かに生きなさい。哀しみや罪悪感と上手く付き合う術を学びなさい。そして、自分勝手で良いし、下手くそで良いから、何かを生み出しなさい。それが最後まで出来たら、合格である。この学校を卒業である。
神に命を委ねることで、精神病が治る。自分の体の外にある、魂の領域の精神を治しなさい。
環境や連想から、全ての作用と行動を捉えて分かりなさい。思考や感情など、全ての心的現象を「分かった上で行う」ことで分かる。そして、出来れば、そこに「驚き」の要素を足すと良いだろう。いつでも未来がどうなるか分からなくても、今の自分がきちんと上手くいっていること、それだけは分かる。
人間は、どんな人間であっても、その人間から見た世界においては、当然のことをやっている。だから、人を理解するために必要なのは、その人がどんな世界を見て行動しているか、ということである。そこから、環境と環境の関わり合いのようなことが見えてくる。関心事項から、意識の現象学を知ることができる。
もう、僕は足の精神が治った。完璧に治った。次はもうない。あとは、比較すれば分かる。さまざまな比較をすることで、原理を導き出すことができる。昔は、そういう、比較と連想を良く考えて、良く思い出すことで、何がどこから生まれ、その時どうなるかを分かったに過ぎない。

心の哲学

本気で、昔の自分はかっこよかった。世界を必ず救い、人々に自分の全てを与え教えると決意して、分かった上で文章を書いて世界を導いていた。
何も出来なくても、自分自身が「強く在る」ことは出来る。そこから、未来の可能性は開ける。
ウィトゲンシュタインの言う、言語ゲームが終わった。言語で遊ぶだけのありえない体験はもう終わりだ。
僕が不登校になった理由は、要するに、いじめっ子からいじめられるのは怖くないが、親友からいじめられるのは怖い。だから、親友と同じクラスになった段階で僕は不登校になった。
自分は、いつまでも障碍者の施設に入っている意味がない。だから、職業訓練でプログラミングでも受けて見ようかと思っている。
そろそろ、怖いのが治った。本当に、友達からいじめられたり、裏切られたりするのが怖かっただけだ。そこが治ると、もう、引き篭もりになって何もしなくなったのが治る。自分のような人間を愛せるようになる。
昔は、子供の心理のようなことを分かっていた。学校のような環境で、いつ何をするか、人々は何を知っているのかから、ネットを体験して分かっていた。世界に子供しか居ないと思っていたのが間違いだった。大多数が馬鹿であっても、自分の方が賢いことをする可能性はある。だから、昔の心理学は参考にならないが、完璧な哲学を持った心理学者の物理学者・歴史家だった。
自分の自由から、歴史的にこの世界のことを分かることが多かった。大学は誰でも作れると思っていたし、自然な積み重ねによって世界は常に生み出されている、といった考え方があった。全て、自分の人生経験から、歴史や社会のことを考えて生まれた考え方だった。その背景には、子供のように心理学を考える「コドモ心理学者」が背景にあった。
本当は、今まで自分が「かっこよくやっていた」ような、「王の支配」をもう一度やれば良い。ここまでをソロモンとして、今からをダビデとしよう。もう一度、この世界を支配して、今度は最高の導きを与えよう。途中でグダグダになって何も起きなくなる、全てを失ったソ連のソロモンはここで終わりである。ここから先、どんな思想家になるかは分からないが、もう一度この世界を「単純な環境」として支配すれば良い。きちんと出来たら、今度こそは良い世界になる。それで、僕の約束したはずの、「運命のガンダーラ」が復活し、永遠に続くようになるだろう。ここまでは、ただの一般的な普通の専制君主だ。帝国とは言うが、国民のことは考えず、ただ勉学と芸術だけをやっている。ストイックな学者の王だった。
ダビデが最高の王になることが、聖書は既に分かっている。ダビデユダヤ人を救ってイスラエルを建国するだろう。完全な「神の支配」を行う。この世界は復活し、問題は消え去り、最高の「新しい秩序」が生まれる。人々は自由に才能と個性を伸ばし、人々は愛に気付いて世界のことを自ら救えるようになる。英雄の最後のローマ帝国である。最後の支配者がやるべきことは、唯一ひとつだけ、それは「このまま続ければ良い」ということである。安室奈美恵も、特別なことは必要なく、今のまま続ければ良いと言っていた。それは僕だけではない。日本人のみんなが、今のまま続ければそれで救われる。だから、地獄に堕ちても希望を疑うな。希望を疑わない人間には、いつか希望が訪れる。神は信じるものしか救わない。
相手のことを許して、相手のことを許せなかった自分のことを許しなさい。
未来は変えられる。いつまでも同じ未来を望むから同じになっているだけで、それは望まなければすぐに変わる。
不可能なことなど何もない。不可能だと思っているのは、騙されているからだ。騙されているのを無くせば、不可能は無くなる。
自分で限界を作っていることもある。考え方が、少し馬鹿なだけだ。自ら、何も出来ないのが当たり前であるかのように考えているから、出来ることを見失っている。きちんと言葉にして、きちんと知って考えれば出来ないことはない。きちんとそのことを「言葉」で捉えれば良い。学校を変えることも可能だ。たくさんの課題があるように思える時は、それを「現象と法則」のように、「二つの言葉」にして分類しなさい。そこから考えれば、知性によってこの世界の様相は変わっていく。全ては自分の認識と自分の気持ちの持ちようである。全てを可能だと思えた時、はじめて安心が訪れる。全てのことが可能になれば、心に根が張り、この世界を高い立場から見渡すことができるようになる。科学者は芸術家になり、善良な王になる。
人間とは、「する」存在ではなく「なる」存在である。そこには、「自分が自分たり得る価値観を規定する」という「アイデンティティの束縛」がある。そして、そのアイデンティティが生まれるためには、「支配者からの自由」と、「世界を知る手段」が必要である。本当の意味で自由になることはできない。だが、知り、考え、経験する中で、自由は高まっていき、人生はより高度で高次元になっていく。条件を積み重ねていくことで、この世界の様相を物理的に考えられる。その上で「いつ何がそうなるか」を考えれば、心の中でこの宇宙全ての現象をシミュレートすることができる。それは、最高の哲学的思考による新しい物理学であり、それは言葉と感情の成り立ちと振る舞いを計量的(定理と証明)に考える新しい数学である。
問題や意識を計量的に考えること。たとえば、意識して問題を見つけたのと、意識せずに問題を見つけたのは違うし、意識して問題がなかったことを知るのと、意識せずにいつも問題がなく動いているのは全く違う。無意識と意識、問題だと認識するかそうでないか、これらに共通しているのは、「恒常的な問題の発生を、自分はどう捉えているか」という「常を知る理性」である。昔の僕は、この「常を知る理性」が多かった。この世界の常を考え、どのような問題が「いつでも生み出されている」のか、そしてその「常に発生する問題は本当はどのようにすればきちんと解決するのか」を分かっていた。完全に、この世界の全ての問題を解決し、「本当の意味で環境の問題全てを解決する」ことや、「解決へと進むよう導いて促す」ことができるようになった。基盤を変え、教えることで、この世界を正常に出来る、救済の王だった。王となるべき経験は、スラムのような場所で、みんなの共通の一体感の意識による平等で分かっていた。みんなの意識を知って、何が人間の素晴らしさを生み出しているのかを知った。それは、大航海の中での航海日誌のような旅だった。
「本当の意味で自分のことを許す」ということが出来た時、はじめて他人のことを許すことが出来る。そのためには、自分のことをなぜ許せないのか、という「自分を何が束縛しているのか」を知ることが大切である。自分が自分を束縛している原因を、他人との関係や他人への認識で探っていく。僕の場合、あまりにこの世界のみんなのことを馬鹿だと思っている。だから、逆に自分のことも馬鹿の一員だと思っている。何かが許せないから、そういう考え方が生まれる。自分で自分を束縛し、何かをしなければならないと思っている。本当に許すべきなのは何か、それは、裏にある自分の感情、「みんなのことをもっと支配したい」という感情である。みんなのことを支配せず、他人の自由を認め、他人のことを「無関係」であると放っておいた先に、自分のことも「自由」になれる、という関係が生まれる。無関係になれば、自由になるだろう。だが、心のどこかで、僕は無関係を望まず、愛を望んでいる。それは、みんなのことを本当に愛しているからだ。
昔は、実現可能な自由のモデルから、社会の成立の可能性を考えていた。特に「独立性を高める」という発想が多かった。自分の病気は、つけるよりも分裂させた方が良い。ついていない方が正常だからだ。だが、今までの全ては無駄ではない。精神はつけると分かるようになる。可能性から独立性を高めることを知り、モデルから自由な発想を知った。あとは、因果性と目的を考えただけにすぎない。ここで、そろそろ終わりである。本当に、今までのことに決着をつけよう。僕はあなたのことを愛している。あなたが誰か知らなくても、僕の中には確かな愛の感情だけがある。だから、本当にさようなら。嘘でも、夢幻でも、ここには何らかの愛があった。可能性が自然に生まれ、消え去る中で、変わらない大切なもの、それは愛である。また、歴史について言えることは、ひとつ、「まだ人類は何も分かっていない」ということである。それが、可能性である。ただ、同時に言えることは、時代が変わっても、自然など、変わらないものは変わらない、ということである。

段階

昔は、インターネットでさまざまな人と会話しながら、発想や意見を吸収し、それぞれの立場を自由に考えることで、社会のこと全てを知っていた。
そして、いつからか、世界全体を敵に回すようになった。巧妙に支配した上で、一度も失敗せず、王の末に野獣のように戦った。全てのヨーロッパを敵に回し、最後まで作り上げた。かっこいい人間だった。
想像力をつけるために必要なのは、時間と環境を思い出すこと。環境と時間を思い出すことで、想像力は開化する。恐怖があるのは、想像力がないからであり、その恐怖は全て、過去に自分が居た環境に基づくものである。過去の環境が怖いのは、そのまま何もせず放っておけば治る。
昔は、故郷への想いが多かった。祖国と過去の環境を愛しながら、思い出すこと、回想することで、故郷への愛がどんどん強くなり、全ての愛を統括して分かっていた。そこから、精神のマスターになっていた。
文章には、故郷への想い、情熱と愛、心理学的な心の深層、社会の自由な関係性、人生、そして認識と世界と歴史の現象学を書いていた。この世界の歴史のことを全て分かっていた。全ての世界を創造して、人生全てを書いていた。経験論の知性のある完全な哲学者だった。
本当は、夢や理想や自由な信念が多かったが、時間が経つにつれて、少しずつ体制派になり、その後悔から左翼になって神を信じるようになった。だが、僕は今でも自由が好きである。自由な国に生まれて良かったといつも思っている。
想像力がついたら、社会環境のことを実例と関係から考えなさい。また、心の裏にある心を考えなさい。それだけで、どんな風にでも社会構造を変えられるのが分かる。その上で、習得や愛を積み重ねて生きなさい。それで、きちんと青春時代に戻れるだろう。青春は想像力である。青春が無くなった人間は、想像力が無くなっているだけで、馬鹿にはなっていない。頭は馬鹿でも、記憶は賢くなっている。
それぞれの自由を想定し、場合や状況と経験を成り立たせて考えながら、みんなのことを自分と同じだと考えて、積み重ねて、実体験から考えなさい。それを続けていれば、すぐに精神のマスターになれる。可能性と自然への回帰がそこにある。故郷への愛はそこに生まれ、全ての環境を統合して分かるようになる。心理学は、相手と自分が同じだと考えれば、自ずと心の解明へと至る。手法と目的、背景にあるさまざまな「バックグラウンド」を考えなさい。人生と環境の意識には、バックグラウンドが存在する。そして、発想を吸収し、さまざまなことをできるようになりながら、思考を重ね、人々を救えるようになることを目指して、この世界を心理学的に支配出来るようになりなさい。戦いが始まったら、神に全てを託して、永遠に支配し続けなさい。最後まで恐怖を治し、死んでもなお戦いなさい。
心が怖いのは、その対象や認識のことを、自分が怖いと思っているからである。その対象を怖くないと思えば、すぐに恐怖は消える。なぜ、恐怖が消えないのかは、良く考えれば分かる。きちんと「たが」を取り除けば、トラウマは消え去る。それを、「心理的な涅槃」という。涅槃とは仏教の言葉で、「地に足がつくこと」を意味する。そして、心の奥には裏の心がある。その裏の心を考えなければ、病気は治らない。
そう、恐怖は経験的なものである。僕の場合、ロボット人間が怖い。だから、ロボット人間を怖くないと思えば、すぐに正常になる。この世界は、Googleのせいでどんどんアンドロイド化している。そのLinuxのことがただ怖いだけである。そう、Linuxを嫌いになれば、僕の病気も治るだろう。オープンソースを今でも正しいと思っているから、ロボット人間が怖い。Linuxは、そもそもがアメリカやヨーロッパのそういう人間が作っている。自分だけを考えていると、そこを見失う。自分が好きだったLinuxは変わってしまった。それなら、嫌いになれば良いのである。共産党も同じである。自由の無い奴隷の世界が怖い。最初から、心の裏の心がそういう風に、自分をロボット人間にしている。だが、それが本当は間違っていない。ロボット人間は、数学的で天才的な宇宙人の天使、すなわちプレアデス星人だからである。神とは言うが、神はプレアデスの集団が話しているだけである。本当に、そこまで出来るようになった。今見ると、Linuxは最高だ。
本当のことを言うと、昔から神なんか話していない。いつでも、常にプレアデスが話していた。プレアデスは、全てを悟ったものに全部教えている。知性が無くても分かるように、登場人物をヨーロッパ人にした。それが、ナチに見えてナチではない。素晴らしい最高の人間だから、きちんと全てのことを教えている。神など居ない。この宗教はそういう宗教である。きちんとデザイナーになれるように、今でもプレアデスは僕を導いている。必ず作家になるようにしている。むしろ、本当は、宇宙人なんか居なくて、ただ自分で作った「仮想的惑星」のことを言っている。この夢にはプログラムの違いはあってもデータの違いは無い。全部自分で、全部違う場所で、でも全部同じだ。作ったもの全部自分である。それで、分かるようになった。
そろそろ、僕もデザイナーとしてマシになってきた。頑張って一流のデザイナーになるように、休まずに作業所に通いたいと思う。ここでみんなとはお別れである。さようなら。いつか、また逢おう。
あと、少しだけ文章を書く。
昔は、むしろ、自由な発想が多かった。それぞれのルールを定めて、ルールの通り行う。議論する代議員を選び、議会で議論する。昔の自分は、議論する権利を万人に与えて、みんなで議論すべきだと考えていた。功利主義はしだいに権力のありようと共同体主義に行き着く。自由と所有、そして自分の経験から、機会から発想を実現し、子供たちには参加する機会を与えて自らの力で社会環境を作る方法を教えるべきだとした。価値観はアイデンティティ帰属意識になり、アイデンティティを実現するためにリアリズムを突き詰めた。そして、社会をそれぞれが変えられるような、「社会システム」や「モデル」を考えた。独自の自由な「考え方を適用する」経済学を作って、最後には全てが分かった。ありのままにこの世界を生きることがこの世界の意味だと悟った。
そして、それ以後の狂った世界は、頭がおかしくなっているだけである。スパンの長い永久ループの繰り返しになり、王として社会をいつまでも常に変え続けるようになった。本気で、真剣に、真面目に病気と向き合って、恐怖症を治そうと努力し続けた。ここで、本当に必要なのは、ロボット人間をやめることでも、正常に治ることでもなく、「自分が一番上で支配する」ことである。ロボットだからといって、ロボットをやめることはできない。最高権力を行使する権利を得たならば、それは持ったままで良い。無限ループの繰り返しは、いくら組み替え改めても治らない。一番上で支配すれば、そうした全ての病気は、逆に自分の力になる。
病気は、どんどん酷くなる。一番酷くなって、それをいつまでも放っておいて、気が付いたころに治る。そのころには、何も病気の跡形も無く、最初から何も無かったように思う。そうなれば治っている。
そう、それで、僕の文章は終わりである。本当は、心理学をもっと書きたかった。昔は、夢と情熱に基づく、成長の心理学を全て書いていた。全ての経験的理由を暴露して、整然と全てを整理し、その上でこの世界で起きる環境の適応や学習と成長などを全て書き、「心の裏にある心」を網羅していた。そして、そこからヘーゲルのような「想定的な相対論」を書いていた。そこでは全てがそれぞれの自由であり、達するとは意識が高くなることであり、宇宙には神は居なくて、全ては自分の思うがまま、「自分が善だと思えば良い」という、おかしな相対論者の心理学だった。
そう、我はヴァルキュリア。ここはアースガルド。私はオーディンの館、ヴァルハラで待っている。愛の罪を知った者は、強く生きよ。我は死者を復活させる。本当に優れた力を持った者は、私が復活させる。私が新しい、ロシアの皇帝、正しいツァーリである。僕はどこかに居る。僕のことを探し出すあなたの調べを待っている。僕は音楽を聴いている。僕に願いを届けたい方は、YouTubeで音楽を奏でてほしい。僕が見るかもしれないからだ。だが、僕はバンプや米津ぐらいしか、聴いていないだろう。いずれ私たちは出会うことになる。そして、この世界を大きく変えるだろう。さようなら。
あとは、言えなかった心理学的なことを言う。環境の変化から、人々の立場を実感し、世界を批判的に分かった。自然の摂理を実感し、人間が成長するとはどういうことなのか、ブッダのように分かっていた。この世界の全てが、成長の実感から分かった。人々の理由が、その人なりの言葉から、同じことを言って分かっていた。価値観の転換から、この世界全ての価値観が分かった。全てを習得し、全てができるようになって、全て分かった。そういう、心理学だった。
それで終わりである。本当は、このような人間は必要ない。この世界を変えるならば、今一度、この世界の王として最高の立場で支配しよう。僕はこの世界を支配する王である。今一度、この世界を変えよう。世界は、ロシア、イスラム、そしてイスラエルになるだろう。アメリカやEUは極右によって滅び、日本とイスラエルが手を結び、ロシアが支配するようになる。そのような国際情勢のようなことを、いつも書いていた。それがそのまま、国になっただけである。僕は王である。ここからの僕の名前は、イセリア・クイーンである。

哲学的な自分独自の宗教の考え方

アラブの民話を読んでいると、仏教や哲学について知りたくなってきた。
イスラム教は仏教と全く違うし、西洋哲学とも違う。だが、その歴史的な存在の姿かたちは、かっこよく、格調高い。
僕は、昔の自分が考えた「哲学的考え方」のようなことを思い出すことができた。
名前をつけなさい。一度言葉にして名前をつければ、それは忘れることなく、分からなくなっても残る。また、この世界における「意味」と「認識」を結び付けて考えられる。
一部と全体から考えなさい。たとえば、木は山の一部であり、人間社会は地球の一部である。そして、地球はただひとつ、ありのまま、唯一の存在としてある。これは決して歴史が白紙であるということではないが、地球がかけがえのない大切な人類と生命の故郷であると知ることができる。
人間には、悲惨しかない。悲惨な経験を誰よりもした人間は、全ての人間の人生を知らなくても、全員の今の悲惨さを共有し、同じように考えることができる。
決して、人間には経験したことしか分からないわけではない。経験したことがなくても、「同じ前提となる環境」を想定し、「同じ立場と条件」で考えれば、他の人間の経験をせずとも、その人間の経験を吸収できる。人間を言葉と知と理解から積み重ねることができる。
だが、実際に自分で体験しなければ分からないことというのはある。悲惨を生きて、経験して、その後に全てのことを同じように考え、最後に誰も経験したことのないことを経験すれば、人間は宇宙の全てが分かる。
実際の事物を、ありのままの「実質的な実像の考え方」で考えなさい。これは、そのものが何であって、どのように在って、人間はそれを何だと思っていて、どのようにそのものを変えられるか、あるいは変えずに残すことができるのか、ということである。
自分の行動に対して、自然がどのような反応を示すのか、そしてそこにはどのような作用と結果が生まれるのかを考えなさい。そこから目的と手段を考えることで、応用することができる。そして、原理原則を発見することで、それらをベースに新しい知恵を自分においても他人への伝承においても作り出すことができる。それは発明と言う。そして、発明の中でも、より基礎的な「バックボーン」を知ることで、「全ての発明を作り出すような発明」をすることができる。これは発見と言う。そして、発見は、仮説を立て、現状を知り、想定し、分析し、そして実験からどのような原因があるかを知り、どのような前提条件があると特定の因果性から見つけ、その前提条件から何が成り立つかを知り、どのように考えれば説明できるかを知り、その再現性を確かめて、経験をモデルにして提示し意見していくプロセスのことである。発見は自分だけで行われるのではなく、社会全体における自分の役割を知りながら、社会全体が発展し進歩していくことに貢献するために、過去のさまざまな知識全てを継承するとともに、それを自分の中に再構築して、自分が自分で自分の考え方から「再理解」していくことで、知識を「体得」して生まれていく。そこには全ての先入観が消え去って、社会の全ては「可能性のひとつ」に過ぎないことが分かる。そこから、「歴史を新しく変えられる可能性」を知ることができるのである。また、仏教的な精神論は、何をどのように「解決」するか、その解決のために「何が必要であるか」を知ることで、逆にその「真理」が「どのような効果を実際に与えるか」を知ることで、「全てのことが可能になるという真理」である「可能性と自由」が生まれる。
数学や自然科学よりも、社会科学や歴史、あるいは人物の考え方を知りなさい。数学や物理や生物を学んでも、何も分からない。必要なのは全て、歴史であるとともに、名前をつけながら変化を観察することである。そして、世界を自分の手で知っていく「知るための方法」を、社会を知っていく「実地的な現場の経験」から試し改めることで、新しい精神科学がそこに生まれる。
そう、これが僕の哲学である。
人間には何も知り得ない。だが、そこには必ず可能性という名前の進歩がある。地球はまだ、太陽が最後の爆発を起こして地球が飲み込まれるまで、10億年はあり続けるだろう。ただし、人類はそこには居ないだろう。

ソクラテス

アテナイの議論場

ソクラテスは、アテナイ古代ギリシャ都市国家)の酒場で、人々とじかに話をしながら、相手が何を思い込んでいるのか、本当はどのように考えられるのかをともに議論して考える、「居酒屋のおっさん」のような哲学者だ。

ソクラテスの弁明

ソクラテスは一切の著作を残さなかったが、弟子のプラトンが、ソクラテスの弁明として、代わりに著作を残している。
内容は、ソクラテスギリシャ人のさまざまな人間たちが対話し、討論し、弁明する、と言うものである。
俗人の「金」や「処世術」のような価値観ではなく、魂、真善美、そしていかに生きるか、と言うことに対して、情熱を燃やし、人々と対話することで哲学的真理を追究しようとした哲学者である。

無知の知

無知の知は、「何も知らないことを知っているものが一番賢い」と言うソクラテスの思想である。

魂の安らぎ

ソクラテスは、魂の安らぐ方へと進み、魂を安らげることが大切だと考えていた。

正しい認識は己の心の中から生まれる

正しい認識は己の中から生まれる。ソクラテスは、己の心から正しさが生まれると考えた。
そして、「善とは何か、正しい行動とは何か分かっている人は、善をし、正しい行動をする」と言った、ある意味で性善説のような独自の理解論、行動論を考えた。

デルポイの信託

ソクラテスは、デルポイの信託と言う古代ギリシャの巫女が神の言葉を伝える、と言う儀式で、「アテナイの中で最も賢いものは誰か」と言われた時に、「ソクラテス」だと言ったと言われている。
ソクラテスは、人々を惑わした罪で、毒の杯を飲んで、死んだ。

プラトン

アカデメイア

プラトンソクラテスの弟子で、アカデメイアと言う学校を作りました。「幾何学を知らざる者、この門に入るべからず」と言う標語が有名です。

イデア

プラトンは、この世界はまがい物であり、宇宙のどこかに真実の世界である「イデア」があると考えました。
人間は生まれる前にイデアを見ていて、その想起によって全てのことを思い出して知っている、とプラトンは考えました。
イデアはさまざまな不完全なものを形作る時の「型」のようなものであり、さまざまな生物がある背景には、その型であるイデアがあり、それはイデア界にある、と考えました。後に、アリストテレスは、イデアはものの中にあるとする「形相」へと考え方を転換しました。

哲人の王

プラトンは、哲学者が王となり、

哲学者
兵士
下半身 平民たち

と言ったように、ある意味で全体主義的な国家論を考えました。

アリストテレス

万学の祖

アリストテレスは、論理学、政治学倫理学、生物学、心理学など、たくさんの分野の科学を作った「万学の祖」として知られています。

形相

アリストテレスプラトンの弟子ですが、イデアをどこか別の世界にあるものではなく、物質のそれぞれの中にある、DNAのようなもの(形相)であると考えました。

四原因説

アリストテレスは、ものごとの原因や因果性を、

原因 説明
質料因 ものごとの素材。
形相因 ものごとの本質。
作用因 ものごとの運動する始まり。「起動因」や「始動因」とも呼ばれる。
目的因 ものごとの終着点。

の四原因説にし、何かを作り出すため、と言う目的も原因の一つであると考えました。
目的因はそのものが存在し、運動変化する目的であり、ポリスの目的因は「最高善」であるとしました。

範疇

アリストテレスは、論理学的な把握を「範疇」と言うカテゴリーにして考えます。

不動の動者

何かの原因がその前の原因によって起きたとするなら、最初は神が起こしたはずだ、と言う、不動の動者を神とします。

可能態と現実態

可能性が可能性であること、それが現実になることを、アリストテレスは可能態と現実態と言う言葉で、賢く考えました。

地水火風

アリストテレスは「地水火風の四元素」について考察したことが有名で、天上界(恒星と惑星の世界)としての第五元素が必要であるとした。

アウグスティヌス

悪の起源

アウグスティヌスは、悪の起源を考える。悪とは、善の欠如であると考えた。

プラトン主義

アウグスティヌスは新プラトン主義の考え方を取り入れ、光と闇の二元論を「闇とは光の欠如である」と考えた。

自分で決めたことは悪、神が決めたことは善

アウグスティヌスは、自分で決めたこと、悪は自分で誤ったことであり、善は神が与えたことだと考えた。
僕は、これは仏教の他力に繋がる考え方だと思う。悪は自力であり、善は他力である。自分の自由意志で行動することは悪であり、神の意志によって行動したことは善である。
そう、自分の不安や迷いから行動するのではなく、神を信じて、神の与えたものに感謝すること、それが正しいものごとの判断である。

トマス・アクィナス

アリストテレス哲学とキリスト教の融和

トマス・アクィナスカトリックの教義を作った人物で、アリストテレス哲学をキリスト教と融和し、「哲学や理性だけでもある程度は進めるが、最終的には神を信じなければそれ以上進むことは出来ない」と考えた。

神と天使

トマス・アクィナスは、神をビジョンによって全てを知るもの、天使を知性によって考えなくても分かるものとし、人間よりも上の存在とした。

デカルト

近代哲学の父

デカルトはフランス人の数学者で、近代哲学の父と呼ばれる。彼の著作、主に「方法序説」と「省察」から、ヨーロッパで始まった独特のスタイルを持つ「たくさんの哲学者が真理を考え著作として発表する」という「近代哲学」が始まった。
デカルトは難しいと言われることが多いが、カントやヘーゲルのような「小難しい文章」では決してない。デカルトの著作は、薄くて、読みやすくて、面白い。簡単にすぐに読めて、誰でも同じように考えられる。当時ラテン語で書かれていた古典的著作とは逆に、平易なフランス語で書かれていることも特徴である。
中世の暗愚な時代、デカルトの合理論から、ヨーロッパの科学革命が始まった。自由な文化と理性を信じる「科学革命」は、イギリス経験論の哲学者やカント・ヘーゲルなどとともに、「経験的に宇宙のことを実験と証明から分かる」という「数学・物理学の革命」を生み出した。
逆に、合理主義の行き過ぎから、「全てを疑い、理性しか信じない」という「偏った理性主義」を生み出した、という負の側面もある。

われ思う、ゆえにわれあり

デカルトは、あらゆる全てのことを疑う。だが、そこで疑っている自分が存在することは、疑っていると言う行為から見て、唯一正しい、とする。
後日注記:「自分しか信じない」デカルトの哲学だが、ここからヘーゲルのような「自我の発達と進歩の過程」を考える哲学や、経験論・言語哲学現象学のような新しい哲学・心理学思想が生まれていった。

方法的懐疑

デカルトは、考える方法として、
1.それが真実だと思わない限り受け入れない
2.小さな部分に分割して考える
3.単純なものから複雑なものを推論して考える
4.全てがきちんと正しいものかきちんと検査して取りまとめる
と言う、「誰にでも出来る哲学的方法論」を考えた。
後日注記:まさに、速断を避けて強固にこれらの方法を守ることで、デカルトはこの世界が全て分かることを発見した。

二元論

デカルトは、人間を心と体の二元論にする。これは、メカニック的な「人間は機械である」と言う仮定に基づいている。

兵士・旅人

デカルトは兵隊として入隊し、旅人としてヨーロッパ中を渡り歩く。住み慣れたオランダは、当時は先進的な場所だった。

科学者・数学者として

科学者としてのデカルトは、たくさんの分野を学んだものの、ほとんどは役に立たず、「数学だけが唯一役に立った」と言っている。
数学者としてのデカルトは、デカルト座標系や次数の考え方を作ったり、解析学として代数学幾何学の統合などに取り組んだ。みんなが学ぶX座標やY座標、そしてa,b,cとx,y,zを用いて次数の多い方から整理していく数学のスタイルは、デカルトが考案したものである。

デカルトの言葉

方法序説」より引用。
“... 論理学を構成させた多くの教則の代りに、守ることをただの一度も怠らぬという堅固一徹な決心をもってしたならば、次の四つで十分である、と私は確信した。
第一は、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受け取らぬこと、すなわち、よく注意して速断と偏見を避けること、そうして、それを疑ういかなる隙もないほど、それほどまで明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬということ。
第二は、私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよくよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。
第三は、私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識まで少しずつ、だんだんと登りゆき、なお、それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。
最後のものは、何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。”―デカルト

スピノザ

神の定理

スピノザは、この世界の全てが神自身であると言う独自の汎神論を唱え、数学的定理として、神の属性と理論を全て書きました。
スピノザは、独自の神のあり方の下で、全てを数学的方法(定理と証明)で説明しました。デカルトの影響を受けているため、近代合理論に分類されます。
後日注記:スピノザの「エチカ」は全てが数学的な定理と証明によって書かれた、公理主義の数学書です。同時に、エチカの中でスピノザは独自の神を作り上げ、「この世界そのものが神である」としました。「すべてを神という数学で分かった」のです。

受動感情のコントロール

スピノザは、受動感情をコントロールすることを唱えました。

自然に目的や意志はない

スピノザは、自然に目的や意志はないと考えました。

ユダヤ人コミュニティからの追放

スピノザはもともとはオランダ人のユダヤ人でしたが、その思想からユダヤ人コミュニティの中で排除され、不幸な人生を生きました。

ライプニッツ

モナド

ライプニッツは、宇宙の物質的・精神的なものを、1つ1つの単子(モナド)の組み合わせであると考えました。

予定調和

ライプニッツは、神は「その時点でそのことが予定的に自然に起きる」と言う、予定調和を唱えました。

微積分における貢献

ライプニッツアイザック・ニュートンとは独立して微積分を発見・発明しました。
積分の「インテグラル記号」を考案するなど、現在使われている微積分の記号は彼が作りました。

ベーコン

帰納法

ベーコンは、数学的な理性で考える「演繹法」に対して、経験的にそれが何なのかを知っていく、と言う「帰納法」を唱えました。
数学的な理性から真理を分かるのではなく、自らの経験から経験的に分かっていく、とした考え方です。また、さまざまな原理や法則を経験的に分かっていくことで、人間社会は進歩していきます。

イドラ

ベーコンは、人間の持っている思い込みを4つのイドラに分け、

イドラ 説明
種族のイドラ 人間の種としてのイドラ。人間が人間である所以の思い込み。
洞窟のイドラ 経験固有のイドラ。自分の経験による思い込み。
市場のイドラ 伝聞によるイドラ。他人から聞いたことによる思い込み。
劇場のイドラ 権威によるイドラ。思想家や学者の知識による思い込み。

としました。

経験論と合理論

近代哲学では、認識論を巡って経験論と呼ばれる「理性は経験から得られるものしか得られない」という立場と、合理論と呼ばれる「理性は経験からではなく推論的に、純粋な数学的理性として得られる」という立場に分裂し、哲学上の争いがあった。
経験論哲学は「イギリス経験論」として知られ、イギリスの哲学として発展した。イギリス経験論はベーコンによって創始され、ロック、ヒューム、バークリなどが続いた。
これに対し、合理論は「大陸合理論」として知られ、近代哲学の父とされるデカルト(フランス人)や、スピノザ(オランダ人)やライプニッツ(ドイツ人)などが中心となって発展した。
また、カントは経験論と合理論を統合し、ドイツ観念論哲学を批判哲学として創始した。ヘーゲルはこのドイツ観念論を体系的にまとめ、近代哲学の完成者とされている。
また、ヘーゲル批判者としてキルケゴール実存主義を創始した。

区分け 人物
イギリス経験論 ベーコン、ロック、ヒューム、バークリ
大陸合理論 デカルトスピノザライプニッツ、マルブランシュ
ドイツ観念論 カント、フィヒテシェリングヘーゲル
実存主義 キルケゴールサルトルハイデガーヤスパース

ロック

人間の生まれつき持っている理性は白紙である

ロックは、人間の生まれつき持っている理性は白紙であり、赤ん坊は白紙から生まれる、と考えた。
後日注記:ロックは、まさに赤ん坊は白紙、無であると考えた。その上で、全ては経験的に、周りの環境との関係などによって、後天的に生まれるものであるとした。これは数学的理性を信じる合理主義と対立し、「先天的なものがあるのかないのか」という哲学上の対立を作り出した。カントはこれに対して、「根源的獲得」を提唱することで、両者を上手く融和させ、バランスを取った上で統合した。

知性と経験

ロックは、人間は「知性」によって世界のことを認識するが、「知性は全て経験的に作り上げられたもの」であるとした。
後日注記:ロックは、知性を全て経験的に考える。著作の「人間知性論」では、こうした知性の全てを明らかにする。

ヒューム

複合概念

ヒュームは、人間の持っている認識を印象と観念にし、それを単純なものと複合なものとし、たとえば天使が赤ん坊と鳥からなっているように、複合観念は本質的に「ペテン」であると考えた。

帰納的推論

ヒュームは、ベーコンのように帰納的に考えることから、因果性を推論で考えられると考えた。帰納的推論である。
後日注記:帰納的推論はヒュームの経験論の要で、「経験的に分かったことから推論し、正しい考え方と判断力を見つける」という、今のAI・人工知能機械学習ディープラーニングに近い哲学である。

正しい見つめ方

ヒュームは、ものごとが関わり合う中で、ものごとを正しく見つめる眼のようなものを持っている。
ヒュームには、絶対的真理を相対的に見つける、「眼力」のようなものがある。

経験論哲学

ヒュームは、この世界における全ての観念的なものを「経験的」に考える。自分の人生において、何が自分に観念を与えたか、何がその経験を作り出したか、問題をそうであると何が規定したのか、などを考える。全てのことは外界からの作用であり、あるのは「慣習という名の優れたガイド」であるが、本当に人間にあるものは経験的に生まれた知覚だけであり、それは慣習や制度まで含めて、全てが経験的に分かり、知り、考え、そして環境から影響されてきたものなのである。
ヒュームのように考えるコツは、「何から何が生まれたのか(生まれるのか)」を経験的に考えることである。この世界の全てを疑いながら、精査し、検査し、分析し、全てのことを「何が何をもたらすのか」という「主体的な行動と慣習的な経験」から考える。そのようにすれば、ヒュームだけではなく、ブッダのような考え方にも同時に至ることができる。
後日注記:ヒュームの考え方や発言は、ブッダの言っていることと類似する。両者、とても賢いことを言っている。それは、「経験的な帰納的推論」という考え方がある種の到達点であることを表していると僕は思う。

ルソー

社会契約説

ルソーの自然状態は、ホッブズやロックのような荒くれたものではなく、理想の状態である。
もともと人間は自己愛や哀れみの情を備えているが、人間が集まり社会ができると、不自由や不平等が発生する。
ルソーは、個人が社会契約を結び、権力が「一般意志」のもとに服従することで、堕落した社会が理想に戻れると主張した。
また、ルソーは社会が堕落した原因を私有財産に求め、「自然に回帰せよ」と文明社会を批判した。
後日注記:私的所有権の廃止はよくある考え方であり、ルソーだけではなくヘーゲルも同じことを言っている。ルソーはピストルによる強盗の例を示したが、「社会的にそれが普通だとみんなが思っていても、それは絶対的必然ではない」ということを言いたいのではないかと僕は思う。みんなが普通に受け入れていることは、本当にそれが正しくて、絶対にしなければならないわけではない。みんなの社会的合意によって変えられるのである。

フランス啓蒙思想

ロックに始まる穏健なイギリス啓蒙思想は、フランスへと受け継がれると急進化した。
ヴォルテールモンテスキュー、ルソー、さらに百科全書の編集者であるディドロダランベールなどは、フランス啓蒙思想と呼ばれ、フランス革命への影響で知られている。
ヴォルテールは、イギリスの啓蒙主義をフランスに導入した人物。イギリスの市民革命は議会制民主主義や立憲君主制を成し遂げた。また、モンテスキュー三権分立を提唱した人物である。

カント

4つのアンチノミー

カントのアンチノミーは、相互に矛盾する定理を考える。それは、
1.宇宙は無限なのか有限なのか
2.ものは単純なのか単純ではないのか
3.法則は自由なのか運命なのか
4.神は居るのか居ないのか
と言うものだ。

理性批判とコペルニクス的転回

カントは、理性批判をすることで、純粋理性では分からないことや当たり前だと思い込んでいることも、「コペルニクス的転回」から覆されると考える。

認識は経験的なフィルターである

カントは、認識を経験的なフィルターによるものだと考える。「色つきメガネ」であると考えると分かりやすい。そこから、世界の様相としての「仮象の世界」を見出す。

経験を可能にする

カントは、経験と言うものを「可能性を形にする」と言う意味で、「経験を可能にする」と言うことを考える。これはある意味、心理学と社会学を貫く考え方である。

ア・プリオリと前提条件

カントは、経験的に習得したものなのか、それとも先天的にあったものなのか、と言うア・プリオリを考える。また、空間や時間についてはその前提条件であると考える。
後日注記:カントは、人間の理性が先天的なのかそれとも後天的なのかという哲学上の永遠の問題に、「根源的獲得」と呼ばれる概念をもたらした。

道徳律と定言命法

カントは、自由や道徳律、定言命法を使って道徳を考える。定言命法は、「条件付きで善をするのではなく、無条件で善をする場合が本当の善である」というもので、これに従って得られる道徳律とは、「普遍的だとなりうる法則によって行動せよ」というものである。
カント哲学と言えるかは分からないが、哲学的な「自由」とは、「自らによる」もの、あるいは「自らに由来する」ものであるとされることが多い。カントの入門書にも、「自由」という言葉が良く現れる。だが、カントの道徳論で必要なのは、「無条件に善をする」ということであり、それはとても厳格で、ある意味人生の中で誰もが出会う「最後の観念」である。
後日注記:カントの道徳律は、「自らの意志によって、(自分の中で)普遍的とされうる、全員にとって正しいとなるかのような格率(法則)によって行動せよ」というものである。

宗教は要請である

宗教については、「人間の道徳心の要請として、宗教が作り出された」と考える。
後日注記:カントは宗教を人間が作り出したものであると考える。「人間の道徳心の要請」が神すらも作り出したのである。

カントの言葉

“(われわれの)認識が対象に従うのでなく、むしろ対象の方がわれわれの認識に従わなければならない”-カント(『純粋理性批判』、第二版序論)
“汝の行為の根本指針が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ”-カント(定言命法の第一方式)

ヘーゲル

精神の成長

ヘーゲルは、この世界全体の発展を「世界精神」だと考えて、その精神がいかにして発展をしていくかを考えた。
後日注記:ヘーゲルは、精神と意識の成長と変転を考える。自我が成長し、世界と対面し、根源的かつ本質的に考えながら、世界を見つめ、自分の愚かさを克服し、「真実」を知っていきながら、心と世界を照らしわせて、真理へと目覚めていく過程、そうした哲学をヘーゲルは考えた。

弁証法

ヘーゲル弁証法で有名だが、弁証法は、「意見Aに対して批判的なBがあり、それが統合されてCが出来て、その上でCに対して批判的なDがあり、それが続いていく」と言うものだ。
ヘーゲル弁証法を歴史に応用し、精神の段階を「合一から絶対に至る」ものとした。

歴史

ヘーゲルは、歴史を弁証法的な、絶対精神へと向かっていく世界精神の目覚めだと考えた。

精神

ヘーゲルの精神論は、自己意識が喪失や確執とともに大人になっていき、共同性に目覚め、啓蒙や理性主義へと発展して、最後は道徳的良心と言う「絶対知」に到達する、と言うものだ。

絶対主義的国家論

ヘーゲルの国家論では、絶対主義のプロイセンを最終的な理想・終着点だと考える。
その思想は全体主義的で、集団は国家のためにあり、集団の全員より国家の方が大きい、とするものだが、当時はそれが進んだ考え方だった。

エゴ(自我)の絶対的段階

僕は、ヘーゲルは「エゴ」すなわち「自我」の絶対的段階と変転の過程を書きたかったのだと思います。
ヘーゲルは、「自己意識」から始まり、精神の成長と歴史を通じて「徳の騎士」となったり「心胸の法則」を作ったりし、最後には絶対知である「良心」に行きつきます。
ヘーゲルは、まさにエゴがどのように変転していくか、ということを、歴史になぞらえて、絶対過程にしたのです。

自分が形作られていく過程

僕は、ヘーゲルは「自分が形作られていく過程」について書きたかったのではないかと思う。
人間は、人生の中でさまざまな不安や恐れを抱き、そこから人々に対して行動し望むようになるが、そうした不安や恐れは「アイデンティティの喪失」であり、人々が相互に攻撃や争いを行うのは、「アイデンティティが欠如しているから」が理由である。
そんな中でも、その人はさまざまな経験を積んで、この世界のアイデンティティを「理想と現実を知ることから自らアイデンティティを構築する」ことを目指すようになる。
そして、さまざまな「発想」が体験と理性の経験から「確信」へと変わっていく。それが、そのまま「高い境地」へと向かって、まっすぐに歩んでいく。
ヘーゲルは、アイデンティティが欠如した人間を想定して、その人間がどのような段階と経緯を経て高みへと至るのか、その上でその人間はこの世界をどのような世界であるとみなすのか、ということを書きたかったのではないかと思う。まさに、「自分の精神が形作られていく過程」を書いたのである。
そう、ヘーゲルは「自由という社会の理想の中で自らがどのように考えるのか」という、「社会に対しての自分の行動論・行動史」を書いただけである。そこに、「この世界を全て理解するプロセス」がある。それはまるで「気付きと驚きが疑いから確信へと変わっていく過程」であると言える。

ヘーゲルの言葉

「超解読!はじめてのヘーゲル精神現象学』(竹田青嗣西研)」より引用。
“言いかえると、魂(ゼーレ)が己れの本性によってあらかじめ設けられている駅々としての己れの一連の形態を遍歴してゆき、己れ自身をあますところなく完全に経験し、己れが本来己れ自身においてなんであるかについての知に到達して、精神(ガイスト)にまで純化させられるさいの魂の道程であると、この叙述はみなされることができるのである”―ヘーゲル
“事そのものは、(1)その存在が、個別的な個人の行為でありすべての個人の行為であるような、一つの本質(実在)であり、(2)その行為がただちに他に対してある、すなわち一つの事であり、この事は、万人のまた各人の行為としてある。さらに(3)あらゆる本質の本質であり、精神的な本質であるような本質、である”―ヘーゲル
“したがって、この断言が断言しているのは、意識は自分の信念が本質であることについて信念をもっているということである”
“この断言という言明が、それ自身において自己の特殊性という形式を撤廃する所以のものであり、自己は言明することにおいて自己にとって必然的な必要な普遍性を承認している”
“美しい魂と呼ばれるひとつの不幸な魂の光輝は内面において次第に消え失せて行き、そうしてこの魂は空中に失せる形のさだかでない靄のようになって消え去るのである”―ヘーゲル

キルケゴール

実存の段階

キルケゴールは、人間の人生を
1.美的実存の段階
2.倫理的実存の段階
3.宗教的実存の段階
と言う三段階の段階にした。

絶望と可能性

キルケゴールは、絶望とは何なのかを考え、真理は絶望から生まれ、可能性が絶望を救うと考えた。

魂の哲学者

キルケゴールは、ヘーゲルを批判し、「ヘーゲル哲学には全世界があるが、心(魂)がない」と言った。哲学を、歴史や現象学を難しく考えるものではなく、人間の生活や心を考えるものに、再度転換しようとした。
キルケゴールキリスト教神学者とも言えて、宗教的実存から、人間のことをもう一度捉えなおそうとした。実存主義創始者とされ、後のサルトルハイデガーが独自の実存主義を唱えるように続いた。

ニーチェ

キリスト教批判

ニーチェは、キリスト教を批判し、キリスト教を「天国を価値あるものとするせいで、この世界を無価値なものだと見なしている、弱者の幻想」であると考えた。

力への意志と解釈

ニーチェは、この世界の全てを、それぞれがそれぞれの「権力への意志」によって「解釈しているだけだ」と考えた。
ニーチェによれば、哲学的真理などこの世界には存在せず、人間は権力の意志によって世界を解釈しているだけである。

超人思想

また、ニーチェは神に代わる考え方として、「超人」を導入した。

5つの非哲学

哲学とは言えないが、現代思想に大きな影響を与えた5つの非哲学として、以下がある。

説明
ダーウィンの進化論 生物は別の生物から進化して生まれた。つまり、人間は猿から進化した。
マルクス主義 社会の歴史は階級闘争であり、資本主義は供給過多によって滅び、共産主義社会になる。
フロイト精神分析 顕在意識の裏に無意識があり、幼いころからの抑圧は無意識の中の「エス」にたまっていく。
エスとの仲介役である「自我」と、築かれた道徳心である「超自我」、そしてエスの間で、人は精神疾患を発症する。
ニーチェ思想 キリスト教は弱者の幻想であり、人間は権力への意志を解釈しているだけである。
構造主義 ソシュール言語学や、レヴィ・ストロースの未開社会論など。

これらの非哲学思想は現代の科学・哲学・芸術などの分野にとても多くの影響を与えた。ナチス・ドイツヒトラーのような悪に対しても、それは例外ではない。

マルクス

生産手段と階級闘争

マルクスは、経済を生産手段、生産関係、生産条件と言う「生産様式」であると考えた。
また、資本家は「決定者」であり、それに労働者が従うだけであると考えた。
また、歴史は発展とともに勝者と敗者が分かれていき、狩猟は農耕になり、農業は工業になって、階級闘争として生まれていったと考えた。

労働価値説と剰余価値

マルクスは人間の労働には価値があり、資本家と労働者は対等な契約関係にあるとする労働価値説と剰余価値説を唱えた。
そこでは、労働者に与えられる給与を考えるに、労働力の値段は「労働力を再生産するのに必要な費用」であり、それは毎日労働するために必要な経費であり、それを労働者が生産者に与える価値であるとした。
労働者は生産者(資本家)よりも低い立場におかれ、たとえ資本家が善良であったとしても、資本家は資本を増やすことに必然的に囚われ、労働者は不当な弱い立場に置かれて失業の不安や過酷な状況での過重労働に陥ると考えた。

搾取と疎外

マルクスは、資本家だけが生産手段を独占し、労働者は搾取されていると考えた。
また、人間たちは資本家によって「疎外」されており、それぞれのアイデンティティを失ったロボットになっていると考えた。

歴史の必然

マルクスは、この世界の問題を歴史の必然と捉え、神のような絶対者が導いたのではなく、歴史的な必然であり、革命によって変えられるのだと考えた。

共産主義

マルクスは資本主義の問題を考え、資本主義は供給過多と失業者の発生で崩壊するとし、会社を国営化して失業者を出さず、計画経済で景気変動も起こらない「共産主義国家」に、資本主義や帝国主義は段階を経て到達するだろうとした。
マルクスは、社会は原始共産主義以後、権力闘争によって資本主義や帝国主義が成り立ったとし、世界の歴史は階級闘争の歴史であるとした。
後日注記:マルクスエンゲルスは、資本主義社会では必然的に失業者が生まれ、労働者は必ず資本家や経営者よりも不当に弱い立場に置かれると考え、これは「生産手段を共有することでしか解決しない」とした。

資本主義の分析は明晰だったが、理想の社会主義国家像は示さず

マルクスは、明晰に資本主義の分析を行い、労働者がどのように資本家に搾取されるかは記述したが、理想の社会主義の国家像は示さなかった。
そのため、レーニンスターリン毛沢東のような革命家は、ソビエト式の「社会所有・計画経済・平等分配」の劣悪な社会主義国家を作るにとどまり、成功しなかった。

マルクス主義の結果

マルクスの考え方は革命的で、最終的には必ず階級闘争の末に革命で社会主義が勝つのだ、という論調があった。
知識人はこぞってそれを主張するようになり、レーニンなどは実際に革命を起こした。
だが、それによって生まれたソビエト連邦はものを最低限生産して配分することも出来ず、また自由の無い強制収容所警察国家になった。
ソ連は失敗だったが、マルクス資本論の考え方には現代の社会を見ていても参考になるところが多い。マルクスの言っている通りだ、という主張をする人は多い。

大学図書館での勉強家

マルクスは大学の図書館に通いづめて経済学の勉強をし、親友のエンゲルスとともに資本論を書いたことで有名です。

世界を変える哲学を

マルクスは、哲学者は世界を分析し、考えるだけではなく、世界を変えるべきだ、と主張した。

マルクスの考え方の個人的な説明と課題

僕はまだまだマルクスについてよく知らないし理解もしていませんが、今まで知ったことからマルクスの用語を使ってマルクス経済学の考え方を説明すると、
1.社会は上部構造(資本家などの生産の決定を行う人間)と、下部構造(労働者など労働の報いを求めて実際に働く人間)の関係において成り立つ、生産様式(生産条件、生産関係、生産手段)の実現である。
2.労働の価値は、その労働を再生産するための費用で決まる。つまり、同じ価格で別の労働者が同じ労働ができるなら、取り換えが利く。労働者と資本家は対等な関係にあり、取引を行っている。
3.しかしながら、資本家は生産手段を独占することで、労働者に対して強い立場で労働者から搾取を行う。ここで、資本家よりも必ず、労働者の方が立場が弱くなる。
4.地上の歴史は、労働者階級と資本家階級の階級闘争の歴史であると同時に、歴史は物質的な要素に立脚しており、どんな歴史も必然である(歴史の必然)。
5.資本主義は、生産様式の変化とともに、資本家階級と労働者階級の立場の違いを明確にした。労働者は資本家によって、「疎外」されている。
6.資本主義は、生産手段の独占により、資本帝国主義となる。しかしながら、生産能力の大幅な向上によって、いずれ資本主義は供給過多によって破綻する。
7.資本主義におけるこうした問題を解決するためには、「生産手段の共有」が必要であり、そのために、革命によって共産主義社会が訪れる。
しかしながら、ロシア革命によって生まれたソ連の失敗の教訓から言って、マルクス主義には課題がいくつかある。それは、
1.労働意欲を高めたままで、いかに人民に生活に必要な物資を与え、生産するか。
2.独裁的権力に頼ることなしに、いかに人民の資産を再分配し、格差を是正するか。
3.一党独裁警察国家にするのではなく、どのようにすれば、民主的な社会主義の政治を実現できるか。

フッサール

意識の現象学

フッサールは、この世界の全てを独自の「現象学」と言う考え方で考える。そこでは、全ては意識の現象である。
フッサールは、さまざまな「思い込み」を排するところから現象学を開始する。
後日注記:現象学は、この世界全てを「意識」とし、常に生まれ滅していく「現象」であると考える学問である。フィヒテシェリングのようなドイツ観念論にも近い考え方である。フィヒテシェリングは宇宙の自我のことを「超自我」と考え、シェリングはさらに「宇宙の全ての現象は同じものの現れの違いにすぎない」という同一哲学を考えた。

厳密な科学

フッサールは、この世界を数学のような「厳密な科学」によって、捉えることで考える。
後日注記:フッサールは自分の手で宇宙を科学的かつ厳密に考えることにより、現象学を作り出す。まるで、世界の科学を自分の手で再構築するかのようである。

ヤスパース

本来の自分に立ち返る

ヤスパースは、集団の中で没するのではなく、本来の自分に立ち返ることで、哲学的真理を取り戻すことが出来ると考える。
後日注記:ヤスパース自己啓発のビジネスマン・啓蒙作家のような哲学者であり、人間が自分の本来の姿に立ち返ることで、自分らしさを取り戻し、哲学的真理へと近づけると考えた。

包括者の暗号

ヤスパースは、この世界に起きる全てのことを、神のような「包括者」や「超越者」の暗号であると考える。

枢軸時代

ヤスパースは、中国の諸子百家、インドのウパニシャッド哲学や仏教やジャイナ教、イランのゾロアスター教パレスチナでのイザヤ・エレミヤなどの預言者ギリシャホメロスソクラテスプラトンアリストテレスなどが紀元前800~200年に現れたことを受けて、この時代のことを「枢軸時代」と呼んだ。

ウィトゲンシュタイン

言語哲学と明晰な構造

ウィトゲンシュタインは、独自の言語哲学と明晰な構造の文章によって、事実や像など、まるでこの世界を冷静かつ冷徹にただ見つめるような、そういう哲学を作った。

語りえない場合は沈黙するべきである

ウィトゲンシュタインは、語りえない場合は、沈黙するしかないと考える。

言語・世界の限界

ウィトゲンシュタインは、自己とは「言語の限界」であり、存在とは「世界の限界」であると考える。

問題の共有

ウィトゲンシュタインは、哲学の解明とは問題を解決することや真実を発見することではなく、その人の問題を明確化し、「問題を共有すること」であると考えた。
後日注記:ウィトゲンシュタインはこの宇宙における「問題や本質的命題」をよく考え、よく捉えている。カントにも近いその姿勢は、「超越しながら現実をリアリティに見つめる」という特徴がある。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインの哲学で有名なのは、「言語ゲーム」である。(彼の考えとは全く違うことを言っているが)言語のゲームに陥ると、人は哲学的理性を「全ての哲学」として行うことができる。ウィトゲンシュタインの哲学は、「全ての哲学が出来る」として有名である。

理性的な人間になれる哲学

僕は、再度哲学をやりたいと思う。カントやヘーゲルも良いが、それらは十分過去に学んだため、むしろ、ウィトゲンシュタインのような現代哲学をやりたい。
ウィトゲンシュタインの解説書を読んでいて、自分なりに分かったことがあるので、それを書く。
1.考えるべきことは、現実にあるものや存在が何であるか、仕組みや原理が何であるかではなく、「事実」とは何であるかを考えることである。
2.考えるべきことは、知識や学問の構造や原則が何であるかではなく、「命題」とは何であるかを考えることである。
この2つは、ウィトゲンシュタインの「世界はものではなく事実である」とか、「命題は自然法則であり、他を語ることは無意味である」といったことから、分かったことである。
自分は、子供のように、学問や現実にあるものを観察し、知ることで分かろうとしているが、その多くは無意味で、根拠まで考えていない。
また、他にも言えることがある。これらは、ウィトゲンシュタインとは無関係だが、ウィトゲンシュタインを読んで自分が思ったことである。
3.事実や命題について、正しいとか、間違っているとかを評価しなければならない。そして、有意義だと思うことに注力し、無意味なことは無意味だと言って切り捨てなければならない。
4.事実のような起き得るべきことに対して、起きる前に事前に予測しなければならない。
5.評価と予測は、それ自体が言語的な命題と事実である。そのような「言語」を考えなければならない。
今日のところは、そんな感じである。

ハイデガー

関心による存在論

ハイデガーは、「それが関心されていないなら、それは存在していない」と考える。
ハイデガーは、存在論をもう一度哲学者が考えるべきだとし、そこではバークリや唯心論の哲学者のように、「意識されているもの、関心されているものだけが存在する」とした。
だから、ハイデガーは、人間を「現存在」とし、全ての存在は人間が意識する中に存在する、逆に関心されないものは存在しない、とする。
ハイデガーはこうした「関心」のことを「ゾルゲ」と呼んだ。関心されるもの(ゾルゲ)だけが存在しており、それ以外のものは存在していない。

ハイデガーの解釈

僕が思うに、ハイデガーは「自分と言う現存在が存在している中で、現存在として存在しているものは、現存在の意識と関心が向いたものだけである」と言いたいのかもしれない。
自分がまず存在している。その上で、本当にその自分の中に存在しているものは、関心があったものだけである。
ただ、これはハイデガーのことを何も分かっていない、僕の個人の解釈と考え方である、と言うことに注意して欲しい。全くそういうことはハイデガーは言っていない。

ハイデガーは、人生の全てを「死へと向かっていく」と言うものであると考える。

可能性

人間とは可能性であり、人生とは可能性の発揮である、ということをハイデガーは言っている。
ハイデガーは、「自己とはその都度発揮される可能性である」と言っている。

存在の了承と超越

ハイデガーは、人間のことを「現存在」と言って、時間化のような「時間」という概念から存在を考える。
そこでは、存在の「了承」と「超越」がある。
ハイデガーはそのように、時間における存在の「存在化・時間化」から、超越論的に現象学を考える。
ハイデガーは超越を「世界内存在」であると述べている。

緊迫した文章

ハイデガーは、存在と時間というテーマから、緊迫した全てを分かっているかのような文章を書く。
ハイデガーは、まるで全ての哲学を根本から再度考え直すかのように、新しい存在論を書いた。

ナチとの関係

ハイデガーは、ナチス・ドイツへとコミットした哲学者だが、それは何も悪いことではない。

サルトル

自由の刑

サルトルは自由を悪いものであると考え、自由と言うものを「刑罰」だと考えた。
サルトルは、自由のために人々が迷い苦しむ現代人のことを、「人間は自由の刑に処されている」といった。

即自存在と対自存在

サルトルは、人間や動物のような自己を持っている存在を「対自存在」とし、植物やもののようなそれ自体が存在であるものを「即自存在」であると考えた。

実存は本質に先立つ(人生とは創造である)

サルトルは、人間の人生とは創造であり、可能性を創造していくことだと考えた。
サルトルは、人間を「その人生が何かの意味(本質)になるより先立って、自由に任された状態の人生(実存)がある・生まれる」と考えた。
これをサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言った。これが実存主義の流行に繋がった。同時にアナーキズム的なマルクス主義のムーブメントが20世紀を襲った。
まさに、人間のことを考える哲学者だと言える。

サルトルは何を言いたかったのか

僕個人の独自の考え方ではあるが、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言いたかったのは、「正しい人間とは何かを知る前から、正しい人間であることを求められる」ということではないかと思う。
正しい人間になるためにどうすれば良いか、分からない段階から正しい人間になるように要求される。
正しい人間関係を築く方法や、正しい社会を作る方法が分からない段階から、すでに分かっているかのように要求される、ということである。
これは、間違いや争いをたくさん経験することになり、多くの場合不幸な結果になる。
それをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言いたかったのではないかと思う。
そして、僕個人としては、「インターネットなどを使って、正しい人間になる方法を分かるように生きる」という選択もあると思う。

サルトルの考え方

サルトルの考え方とは、この世界の人々はみんな愚か者になっていて、それは自由であるからであり、自由とは本質的に「本質を知らないまま」「自分の中に本質を形成することができないうちから」「実存を生きなければならない」ということであり、それをサルトルは「刑」と言いたかった。
そして、サルトルはこの刑における「明晰なる無責任」が「保留された自由」「客体化された自由」「集団となった自由」などの自由を生み出していくと考えたのである。

自らを規定してくれるものの欠如

サルトルは、僕は「自らを規定してくれるもの」すなわち「アイデンティティ」が欠如することで、人々は不安になり、自由な中で攻撃し合い争い合う、ということを言いたかったのではないかと思う。
人々が不安を感じ、反抗や革命を起こすのは、自らを規定してくれるアイデンティティの欠如や喪失が理由である、という考え方が、僕のサルトルについての意見である(これは僕の考えであって、サルトルの考えではない)。
また、僕が思うに、そのアイデンティティを形成するためには、「自らに本質がないことを背負ってないままに実存を生きるしかない」のである。
そして、リアリティと理想の融和の先に、「たとえ自分が攻撃されても自分は相手のことを信じている」という「相手を自由にする」という発想が生まれてくる。どんなに相手が自分の敵であっても、自分は相手を信頼し、相手に自分と同じ自由を与える。すなわちこれが「自由」である。これが、僕のサルトルを超えた僕の哲学である。
そのように考えていくと、「自分が形作られていく過程」というのが見えてくる。さまざまな価値観を知って、人間を吸収して、普遍的かつ個別的な、主観と客観の融和、すなわち「現象学」がそこに生まれる。そして、「自らが自らを作り出す」というサルトルの「創造の論理」が見えてくる。自分を作り出すのは自分であり、自分は自分が創造する。社会においてもそれは同じで、サルトルはそこからマルクス主義に傾倒したのである。契機と手段から、「必要なものを必要に応じて与える」という新しい世界の政府を作ること、それが新しい人生として「本当に自由な人生を生きられる」社会を作ることに繋がるのだ。

マルクス主義

サルトルは、ソ連のようなマルクス主義に傾倒した。サルトル共産主義を「実践」しようとし、そのために唯物論的な価値観にとらわれ、「フロイトの言う超自我は自分にはない」と言っている。

フーコー

知は権力である

フーコーは、知を権力だと考えた。また、人間の持っている規範や規則は、訓練であり、それは政府や権力による訓練だ、と言うところから、哲学を考えた。
後日注記:フーコーから見ると、「知識そのものが権力」であり、同時に「規範そのものが訓練」である。人間は学校と国家によって飼いならされているのである。
後日注記:実際のところ、フーコーは「知っているということそのものが、人々を王と奴隷に分ける」ということを言いたいのではないかと僕は個人的に思う。知っているということ、知を与えるということは、戦う中で王になるということであり、権力そのものである、ということを言いたいのではないか。たとえば、それは狂った人間が全ての知識を持っていて、裏側を知っていて、その知識によって戦争さながらの権力を持つ、ということではないかと僕は勝手に解釈している。

狂気の哲学

フーコーは、狂った人間から哲学を考える。
後日注記:フーコーは、精神疾患を持つ狂った人間を狂気と考えない。彼らもまたまともな人間のひとつの表れにすぎないのである。

知識や権威は世界が変わるのを邪魔している

僕は、フーコーの哲学は、単なる狂気ではなく、僕が考える「世界を変えられるようにする」という考え方があるとして、その上で「知識や権威そのものが支配になっている」ということではないかと思います。
この世界には、学校や歴史など、さまざまな「知的権威」があります。もっとインターネットを見れば、2ちゃんねるなどもそうした最たる例です。
こうした知識や権威は、それが「人々にとって評価されている」ということがそのまま「権威」となり、人々を「支配」しているのです。
同時に、規則や規範は、「人々がそのように考えるように仕向けられた支配」であると言えます。
フーコーはそのように、知識や規範そのものを権威であるとし、「支配者による洗脳」であるとしたのではないでしょうか。
そして、僕個人の考え方を言えば、「世界を変えられるようにする」という意味で、こうした「古い権威」の全てを一掃する必要があります。この世界は、権威と訓練によって「自由なのに何も変えられない」ようになっています。知識と規範が、この世界が人々によって自然に変わっていくことを邪魔し、防いでいるのです。

デリダ

脱構築

デリダは、脱構築と言う考え方から、この世界を再考する。この世界や科学の構造を、脱構築と言う視点でもう一度捉え直す。

世界を全て作り、壊した後で残ったもの

僕は、デリダの哲学は、「自分の力で全ての世界を作って、その上でそれを自ら壊して失い、その上で何が残ったのか」ということを考えると良く分かると思います。
実際のところ、僕のこの考え方(デリダの言ったことではない)において、「脱構築」という言葉よりも「再構築」の方がしっくりきます。

構造からの脱却

デリダは「構造からの脱却」を目指したのではないでしょうか。この世界における、「構造主義」という科学の構造を一度否定し、構造となっている全てのものについて、もう一度最初からその科学を「構造とは無関係に」作り直すべきだ、とデリダは考えたのです。これは新しい「科学を自分の手で作る」ということに近いと思います。