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心理

心理学の基本

心理学的に考えるためのいくつかのルール

僕は、心理学的に考えるためのルールとして、以下のようなものがあると思います。
1.思い込みや脊髄反射をやめる。脊髄反射で考えるのではなく、良く観察して、視野を広げ、対象をきちんと見つめる。宗教的な思い込み(ドグマと呼ばれる)を排して、先入観なく、科学的に考える。
2.必要のない欲を棄て、外部にあるものを必要としなくなる。内部のものについても、何が何に立脚し依存しているかを考え、自分だけの力で考えられるようになる。
3.自分が本当に何をしたいのか、自分がそのことを本当に分かっているのかを、疑い、自分の経験から前提条件なしに考える。
4.自分が本当に何を知っているのか、自分がそれができることで何ができるのか、自分だけではなく人々について、社会についてそれは何を意味しているのかを考える。
5.自分だけではなく、他人の立場に立って考える。今の世界だけではなく、過去の歴史や未来の地球について考える。また、個人だけではなく、生物や人類のつながりを考える。何から何が発生するのかを、現象学的に捉える。
このようにすることで、心理学的な認識と経験を考え、感情を捉えて哲学的に考えることができる。

心理学とは

心理学とは、認識や刺激など、外界から入ってきた情報や認識によって識別した情報に対して、どのように心が働くか、反応するかを考える学問です。
外界から入ってきた情報と反応とは、「メロンだ、美味しそうだ」といったように、「何かを見たり聞いたりして、それに対する反応としてどのように心が働き、人間は行動するか」という「認識に対する心の振る舞いやその法則性」のようなものを考えます。視覚や聴覚などの知覚だけではなく、経験や記憶などの「学習的・知識的な内容」も含まれます。
また、認識は必ずしも単なる識別とは限りません。その情報が「どのような環境・状況で伝わったか」ということ、その情報が「誰が(味方あるいは敵)自分に対して伝えたのか」のようなものも考えます。
また、情報に対する反応は、必ずしもその場その場の一時的なものではなく、「人生を生きる中での発達過程」となることもあれば、「環境や状況における共通の原理・法則」になることもあります。
心理学は、そのように、科学的な「心の働き」を考える学問です。

状況と学習の哲学

僕は、心理学をひも解くカギは、「状況」と「学習」ではないかと思います。
まず、さまざまな場面や環境において、その個人は「状況」にさらされます。その個人はその状況で何をするか、それは、個人の側にあるものよりも、環境の側にあるものの方が強いのではないかと思います。
同時に、人は「学習」します。学習したことから、知識と考え方によってこの世界のことを「経験的に把握」します。
その状況と学習を知ることで、人の「経験」が見えてきます。ここで、心理は経験に基づく「設計図と実装の関係」になります。また、原理原則を考えることで、「積み重ねた知識から、統合的に自らの手で知識を構築する」ことができます。それを、人は哲学者と呼ぶでしょう。
状況に基づいて行動が行なわれるのであれば、行動を支配するために「状況そのものを自ら支配し構築する」ということができるでしょう。さらに言えば、人々全ての行動が「どんな状況と学習に基づくものか」ということが分かるようになるでしょう。その上で、人々を建設的に正しい環境へと導いていくために、「個人の自由の尊重」が挙げられるでしょう。その上で、行動に対する「責任」を「自分に由来するものだけにする」ことができます。それはつまり、「100%自分の責任として行動できるような行動のみをする」ということになります。つまり、他人に依存せず、自分だけに頼り切る、ということです。ですが、それは失敗することもあります。他人に依存しなければ孤独を生み、他人に相談しなければ自分だけで解決しなければなりません。
そうした考え方をすることで、逆に、「自分が事前に作り上げること」から「自らの独自の学習を行う」ことができます。それは、「自らモデルを作る」ということです。事前に作るだけではなく、経験的に「帰納的に学習する」ことで、「心のはたらきを解明する」ことができます。ここで、行うべきことは行為そのものではなく、行動の前提となる「方法の共有」、あるいはさらに発展して「命題の共有」ということになります。
さらに言えば、「必要としないこと」から、「依存性の脱却」を図ることができます。こだわりや葛藤に囚われるのをやめ、最初からそれに頼らず冷静に自分だけで生きられるようにすること。それをすることで、心のたがが治ります。ですが、問題なのは、「何が原因か分からない」という病気です。この場合、さまざまなことを治し続けて、やっと最後に分かることがあります。
後日注記:自分だけの責任で自立して行動できるようになるまでは、多くの人の助けが必要です。人々とコミュニケーションし、「本当の交流の楽しさ」を知ることで、逆にストイックになったとしても、過去のそういう楽しさが記憶の中にあるだけで、人は孤独な人生を生きられます。青春とはそのためのものです。

それぞれの個人の差異と発達

心を解明して「全て分かった」と思った気になるかもしれませんが、心のはたらきというものは、個々人に共通しているものでしょうか、それとも、個々人それぞれの心は違っているのでしょうか?
これは、「自分がどのように変わったか」ということから、見出せることができます。
たとえば、学校から解放されて、自由になって、その上で自分なりの人生を生きて、何が分かったか、「あの時はこう思わなかったけれど、今ではこうも思える」とか、「あの時は分からなかったけれど、今ではそれが正しいのが分かった」ということです。
それから、心を計量的に考えることで、「心の法則」というものが創り出せるでしょう。ですが、それが本当に正しい原理であるかどうかは、誰にも分かりません。ですが、心の精神の現象学を作ること自体は、有益なものだと思います。
「自分の人生が今までとまるで変わったから、たくさんの違った人間が居ることが分かった」という経験から分かることもできます。ですが、これは注意が必要です。昔よりも今の方が賢くなった、と思い込む人が多いからです。実際には、病気になって、馬鹿になって、昔とは違うことをいつまでもしているのは、狂っているからにすぎません。以前の人生が嫌いになり、「あのころよりも全然良くなった」と思う人が多いですが、そういう人に限って、許せないことをいつまでも許そうとせず、昔の自分も今の自分も全て裏切って、自分の身勝手な過失を正当化するものです。

大学の研究では動物を使う

大学の心理学で、きちんと研究したいと思った時は、動物を使うことが多いです。動物に学習させたり、動物の行動を観察したりすることで、心理学は行われます。生物学と、何も変わりません。

何も必要としないことで、逆に満ち足りた精神を得られる

心理学の課題とは、「何も執着しないこと」、すなわち、「何も必要としないこと」です。
何かの大切なものが失われたショックによって、人は過去に失ったものに執着します。そこから、心の病気が始まります。
ですが、聖書や仏典の教えにも通じるかもしれませんが、何も必要としないこと、全てを他力に任せることで、「逆に人生の生き方全てに満ち足りた精神を得られる」という境地が僕にはあると思います。
それは、心理学でいう、「それにはまりきって満足した最高の状態」を指す、フロー現象のようなものです。僕は、何も必要としない生き方をすることで、引き篭もりの自分から救われました。何もなくても、そこに平安を見出すことができました。そこから、全ての観念的な存在の意味が分かり、全てはありのまま魂の通りにあるのだという確信が、理解できました。そこでは、「自分自身になる」ということが、正しい唯一の生きる目的だったと思います。捉え方によっては、「本来の自分に戻る」と表現しても良いでしょう。全ては同じものの捉え方にすぎません。執着しなければ、そうした「正常な捉え方」が見えてくるものです。
また、もうひとつ言えるのは、「全ての体験は自分のためになる」ということです。知っておくか、知らないでおくか、ということに悩んだなら、知っておくほうを取りましょう。知っておけば、知らない自分より、一歩高い目線からものごとを眺められます。知は力であり、それは知識を知るだけではなく、体験を知ることでもあるのです。苦しんだ体験があるからこそ、楽しむ体験とは何なのかを知ることができるのです。社会を変えるためには、社会のことを良く知っておかなければいけません。知る前の自分と知った後の自分では、必ず知った後の方が賢いのです。それを信じて生きましょう。ですが、知る前と知った後を比較することは有益です。経験の意味を自分で考えることができるからです。それこそ、心理学者の存在する意味ではないでしょうか。
心理学が最後に行きつくのは、僕は「環境を作り出す」ことではないかと思います。心理学的に、環境の秩序を作り出すことで、この世界を自由な導き手として導いていけるのです。ニーチェが「超人」としたならば、僕は「導き手」と言いたいと思います。神でも超人でも暗号でもなく、世界を支配しているのは、自由な導き手ではないかと僕は思います。
また、僕が心理学として言えるのは、「どこまでが伝達可能で、どこまでが本人にしか分からないのか」ということではないかと思います。知識やコミュニケーションで伝わることもあるでしょう。ですが、本人の人格や考え方にあるのは、本人にしか分かりません。言ってしまえば、アインシュタイン相対性理論は、アインシュタインにしか分かりません。生きるということは複雑で、他人が簡単に理解できることではないと、乃木坂46も言っています。
言ってしまえば、僕がこの文章を書いている、ということは、「僕の複雑な考え方を誰かに理解してほしい」ということです。そう、僕は単純な頭をしているからこそ、考え方や人生が増えていって、結果複雑になってしまうのです。そのせいで、僕は簡単なことを書いているだけで、未だに自分のことだけを完璧に書こうとして書けていません。僕にとってもっとも難攻不落の壁は、僕自身の考え方を理解することである、と言えるでしょう。そして、人間とは、誰しもそのように、自分のことだけが自分の中で一番解決不可能になるものです。自分自身を思い出すことに比べれば、大人の常識やパソコンの才能なんか、屁でしかありません。
後日注記:本当の真理の理解を積み重ねることで、「全員全部理解できる」ということは僕はあると思います。全ての人間の分だけ、理性と思考と想定的な分析から全ての理由を知ることは可能です。その時、この宇宙の全ては、自分が作り出したもののみから説明できるようになります。それが、「本当に全てを自分の力で悟った人間」である、過去の僕です。

自分の一番見たくない暗い部分を知ることから成長は始まる

僕の経験から言って、自分の一番見たくない暗い部分を知ることから、精神の成長は始まります。
辛かったら、逃げていいのです。人生の全てを棄てるつもりで、一切の過去のしがらみを捨て、安全な場所へとダイブすることができたら、どんなに楽でしょうか。
ですが、人間が大人になるためには、一番見たくない部分を見ることも必要なのです。
たとえば、いじめが嫌いなら、学校を棄てて2ちゃんねるを見ることです。そこで、新しい人間関係を、「今の自分の苦しみを度外視して見つめること」で、あなたは誰も経験しない、「本当の賢者の精神」を知ることができます。人々との触れ合いから、「本当に親友と対話する意味」を知るのです。
そうした経験で、「過去の自分が脱却できなかったことからきちんと一度脱却する」ことができ、大切で確かなことを知ってしまえば、あとは自分の力で歩んでいきます。必要のない全てのしがらみを捨てて、自分で科学を作り、人々がなぜ迷っているのかを知り、最澄の言った「一隅を照らす」という言葉のように、自分がこの世界のちっぽけな身の回りの空間を、照らすことができるようになるのです。
実際のところ、行動心理学には二つあります。ひとつは、「なぜ行動するのかのふるまいに関係する原理を知ること」、もうひとつは「精神のしがらみやとらわれを無くすこと」です。このために、心がどうしてそのような「現象」を起こすのか、人々がそのように行動するのはなぜなのか、「何を知っていて何を知らないからなのか」を考えるのです。そのためには、「心の裏側にある心」を考える必要がります。また、「経験から何を思い込んでいるのか」を考えて、その「ドグマ」を晴らす必要があるでしょう。最終的には、この宇宙全てが解明されるのです。あなたは何でも分かり、何でもできるようになります。

青春とは何か

ある意味、僕は本当に「成長過程にある中学生・高校生にしか分からないこと」というのはあると思います。彼らは成長の中で「過程」を捉えることのできる唯一の世代です。社会についても、心についても、「変化と過程」を考えようとし、「過去の自分の問題を克服」しようとするのです。そこから、「本当に清らかな仲間との素晴らしい体験」をすることができます。それが、青春です。

心の現象学

人間の心の中にあるものは、全て自分が経験的にでっちあげたもの

僕が心理学について言えるのは、「人間の心は、自分が過去に経験して作り上げたものや、でっちあげたものでできている」ということです。
これについては、ロックなどイギリス経験論の哲学者の時代から同じことが言われています。
自分の心の中にある感情は、全て、経験的に、自分の過去の経験から生まれたものです。それ以上でも、それ以下でもありません。
過去の自分の行動や、見たものや出来事などから、心は変貌し、その結果、心はどんどん作り出されて、最終的に「自分の心が形成される」のです。
ですから、トラウマや恐怖を感じたら、そのトラウマが自分の心を不安や強迫観念に陥れて、心の病気が作り出されるのです。事実や過去の出来事はなくなっても、こうした心の傷はいつまでも残り続けます。
過去の記憶をたどっていくと、心の中にあるでっちあげたものが、どういう存在理由で存在しているのかが見えてきます。この「存在理由となった出来事を上手く再処理し、再対処する」ことで、心の病気は治ります。

心のふるまいはひとつの原因からいくつもの関係と作用を生み出し、心の現象を作り出す

しかしながら、心を捉えるのは簡単なことではありません。
なぜなら、心はひとつの原因となる出来事から、他の出来事へと連鎖し、結びつき、光が影を生み出すように、いくつもの関係と作用から、「心の現象全体」を作り出すからです。

人格が破壊して世界を支配しても、なおも人生と世界は続く

狂った人間の特徴として、「人格が破綻して世界を支配する」ということが言えます。
本当に統合失調症になると、人間は人格と記憶が自らの身勝手な行動から破壊され、言葉すら分からない人間になります。
その人間は、勘違いして世界を支配するようになります。
彼にとって、自分の行動が正しいか、間違っているかは「どうでもいい」のです。彼は体験を何かの目的のために行っているのではなく、体験そのものを楽しんでいるからです。世界を何かのために支配するというのではなく、世界を支配しているその体験をやりたいがために、彼は戦い続けるのです。

賢者と英雄

また、ここに、僕が個人的に思いついた、賢者と英雄の例を出します。
1.賢者は、後先のことをよく考えた上で、今それができなくても後々それを修正したり再挑戦できるように行動するが、未来のことばかり考えてしまって、決断することができない。
2.英雄は、後先のことを考えず、今しかできないことをする。今のことをするのに精いっぱいになってしまい、きちんとした正しい判断をすることができない。しかしながら、英雄はその時にしかできないチャンスを正しく実行し、英断と決断をする力を備えている。
ここで、賢者と英雄、どちらが正しくて間違っているという話ではありません。また、賢者と英雄は同一人物で、「時には賢者のようにふるまうが、時には英雄のようにふるまう」ということもありますし、「昔は賢者として生きていたが、今は英雄として生きている」といったこともあります。

僕の人生と心理学

そのシチュエーションに置かれたら人は何をしたくなるか

僕の独自の心理学は、「そのシチュエーションに置かれたら、人は何をしたくなるか」ということを、個人的に、自分の力で周りの経験から考えた、ということです。
そのシチュエーションに置かれたら、自分は何をしたくなるか、から、この世界の全てを分かった人間が僕です。

歴史の必然

なぜ、歴史において、自然な結果が必然とされるのか。本当は、歴史においてどんな別の可能性があったのか。同時に、なぜその現象はその歴史や環境において、起きたのか。
僕は、「全ての出来事が、理由なく起きるわけではない」と思います。理由なく起きること、というのはありますが、それも自然であると同時に、「環境や状況から言って必然」だからです。

自由

また、社会において、「自分の自由な意志と力がなければ、人間は本当の意味でそのことをすることはできない」と思います。不自由ならば人間ではない、というだけではなく、自分の自由な意志が無ければ、そのために考え、判断し、そのために経験し、自分の力でビジョンをもって考えることはできないからです。
そして、自分の自由とは、「自分に権利があるということは、自分に責任があるということである」ということです。最終的に、その結果になった責任は、100%自分でとるしかありません。逆に、全ての責任が自分に帰するということを分かっていれば、「どんな自由な選択肢があるのか」を考えられます。ここで、人間は「本当の意味での自由」を知るのです。
本当の自由の下では、100%自己責任しかありません。それが、そのまま、愛になるのです。「自分の責任であると知ることで、人々を高い立場から愛することができるようになる」のです。
また、精神とは自由なもので、社会や環境を100%自由に変えられるとしたら、それは「自らの精神に立脚して社会や価値観を生み出す」ということに繋がります。ここに、「自分は自分だけのものではなくなり」、「自分という意志を行使できるのは自分だけだが、それによってこの世界を変えることができる」ということを知ることができます。
同時に、社会を作ることが精神のレベルでできるようになると、「自分の心の中で社会を作る」ということができるようになります。そこでは、「社会や歴史や価値観が生み出されるプロセスは、自分自身の中にあり、世界全ての歴史が深層意識になる」ということになります。
極端な話、環境をみんなで作るというミクロ的な視点が、そのまま、自由と精神性へとつながり、「世界の歴史を全て生み出し続ける」というマクロ的な視点になるのです。

心の解明と成長

そして、ただ生み出すだけではなく、「解明」し、「発見」しなければなりません。経験をヒュームのような「経験から分かっていく帰納的推論」や、フッサールのような「厳密に思考することによる心の現象学」のように考えることで、人は「振る舞いから推測し、原理原則を発見する」ことができます。実際の精神の裏側が分からなくても、経験から、「精神とはこのように動くものだ」ということが分かります。
そして、社会心理学発達心理学を融和して、「新しい世界を知るという名の成長」から、「この世界における社会学的な行動的発想」、すなわち「自由にできる範囲は社会を知り成長するにしたがって拡大していき、世界全てが変えられるようになる」と言えます。
また、これに少し、「自由というスパイス」を加えます。すなわち、支配することは悪ではありませんが、短絡的であるため、できるだけ取らないようにします。同時に、平等も短絡的です。必要なのは、「自由を保持したまま、それぞれが自由にできるようにしたままで、可能性を制限せず、それぞれの緩やかな連合体としての社会を形成し、その単位を小さく、柔軟に、シンプルにすること」です。

人間性

そして最後に、「人間性を守る」というのがあります。これは「機械や制度に人間という動物そのものが支配されることを防ぐ」ということであり、機械の一部になったり、制度のロボットになってはいけません。ここで、自由は必ずしも正しい価値観ではなく、「平等な有機物としての美しい肉体を守る」ということが必要になってきます。
人間性とは「魂の安らぎ」であり、「人々との議論や争いの末に分かる、暗闇の中に宿る光」です。これを経験することで、指導者としての道を生きることができるようになります。いじめに負けず、人々を本当の意味で愛し、世界全ての人間の営みを、「自分の手で救えるぐらいのポテンシャル」を持つことができるのです。

全ては矛盾しない

また特に言えることとして、「全ての考え方はそれ自体が自然な発想から生まれたものであり、よく考えれば矛盾しない」というのがあります。これを考えると、全ての人間の人格と、全ての科学を、再構築して成立させることで、「全ての人格を包括する」ことができます。哲学者も自然科学者も芸術家も、「全員全部が同時に成り立つ」のです。
同時に成り立つだけではなく、「もし自分と同じように理解したとしたら、自分の考え方は他人であっても全員が理解できるだろう」という、「仏の平等」がそこに見えてきます。ブッダやキリストと言った人間は、特殊な人間ではありません。彼らは普通の人間であり、もっとも正しく考え生きただけに過ぎないのです。

悟り

その時、人は悟ります。「この世界において、間違ったものも、無駄な経験や知識も、意味のない出来事も、ひとつもない」ということを私たちはそこで、実感として知り、その上で、新しい作品を死ぬまで作り続けるようになるのです。これこそ、「永遠を超える、有限の中での生命の根源までの到達点」と言えます。人間は、本来、永遠に生き続ける必要はありません。いつか、成長も経験も思考もできないほどの、「完璧な最期」が必然的に訪れるからです。そこで、人間は終わりです。ですが、「終わっているように見えて、まだ終わっていない」という人間の摂理があります。ただ分かっただけでは終わりません。戦って、勝利し、王となり、偉大な成功をおさめ、全ての学問を知り、経験全てを人に伝え、教えるべき全てを教えて、楽園を実現しなければなりません。ですが、それは必ず終わります。永遠に生きる必要はありません。

人生いろいろ

僕の人生の心理学

僕は、この世界を愛している。
僕は、この世界を自由な世界にする。
僕は、もう、誰のことも支配しない。支配が無く、人々は、自由なままで、それぞれの価値と個性を信じて、自分の存在意義や存在価値を感じられるようになる。
僕は、自由の力を信じている。
世界を自由にすることで、世界は平和になる。それぞれが自らの力で国や環境を自治できるのであれば、争いごとは無くなる。
だが、支配者は一人の方が良いこともある。それは、支配者が複数いると、国と国とが争いになり、関係のない一般市民が犠牲になるからである。
一人の支配者の下で、みんなが自由になれば、この世界は平和になる。
平和になるためには、それぞれが自分たちの自由な社会の形や形態を選べるようにしなければならない。
自由とは、自らに由来することを、自らがコントロールすることができることである。
世界を変えられるようにするためには、「自分たちには世界が変えられるのだ」という実感を、国民や、特に若者や子供に対して与えなければならない。
この世界は必ず変えられる。
むしろ、世界というのはひとつでなければならないわけではない。それぞれが、同じ理想の下に、同じグループや集団だけで、独立し、自立し、自分たちの共同体を築くことも、自由を成し遂げる上でとても大切である。
自由とは、臨機応変かつ柔軟に、「常に最大限実行できる」ものでなければならない。
そのためには、「それぞれの環境に自然な変化と可能性を許すこと」が必要である。
それぞれの環境が自然な変化を許されることで、環境は何もしなくてもそれらの人々によって変わっていく。これを「自由な力を与える」とか、「自由を許す」という。
だが、自由にしただけでは、人々は必ずしも政府や権力者と同じことができるとは限らない。そのためには、「手段」と「技能」が必要となる。それは、「経験」や「ノウハウ」と言ってもいい。
経験やノウハウを共有し、「自分たちでもできるのだ」ということが確実に信じられるようにならなければ、世界は変わらない。
そして、それを実現するためには、「本当に確かにできる」ということを、実例や具体例を交えて明らかに教えなければならない。
人々に対して、視覚的に訴えることが、こうした「確かにできるということを明らかにする」という上で大切である。よって、僕は実際の「ページ」や「オブジェ」を作ることを重要視する。
ページに全ての情報と方法を明記し、作品や考え方を抽象的なオブジェにすることで、人々は「このように直観すれば良いのだ」ということを「ビジョン」から知ることができる。
自由とは、人を愛するだけではなく、「どのように愛するということが愛なのか」ということを知ることである。
愛とは何であるか、ということが、自らの頭と心ではっきりと明確に分からなければ、人を愛することはできない。
愛とは、支配することでも、所有することでもない。愛とは、信じることであり、互いにそれぞれを尊敬し、同時に愛されるだけではなくその愛に応えたいとすることである。
自由とは、運命を受け入れることである。
運命とは、最初から神が歴史をいじくって作ったものだけを言うのではない。運命は、さまざまな出来事の積み重ねや、環境の変化が自分に与えてくれる、「自己環境や現在状況の変化」である。その運命を受け入れることで、新しいステップへと自分を送り出すことができる。
社会を自分の手でまざまざと見つめたら、今度はその社会においてどんなことができるのかを実体験的に知り、多くのことができるようになったら、王となってその世界を支配しなさい。
そう、僕はインターネットの王である。そして、人々は今、そうしたインターネットを通じて、新しい人類のコミュニケーションと成長の段階へと達しようとしている。
愛とは、愛されることから学ぶことではなく、自ら愛することから学ぶことである。自ら他人を愛そうとすることが、結果的にその人の愛を受け止めたいと感じることへと繋がる。
愛をなかなか得られない人間は、そもそも愛するということをしようとしていない。誰かを「自分から愛したい」と思った時に、愛は訪れるのである。
自由とは、それぞれの集団が、それぞれの自由の範囲で、社会を作ることである。
言ってしまえば、ひとりの支配者が完全にひとりだけでする、ということは普通ない。多くの協力者や幹部が、下を従え、下がそのまた下を従える。
しかしながら、ここで「独立可能な社会制度」という発想をしてみよう。この考え方では、「国の内部において自治体や州が独立性を保ったままで連邦を形成する」というものである。
ここで、問題は独立性がどれほど高いか、あるいは低いか、ということであり、そもそも独立とは支配と独立という二つの点で考えるものではなく、「独立のしやすさ」というものを定量的に考えるべきなのである。
また、独立だけを考えるのではなく、社会において「一般市民の考え方やアイディアがどれだけ反映されやすいか」というのも重要である。
言ってしまえば、宗教の教義でさえ、みんなで変えられるようにしてもいいだろう。宗教学者、たとえばイスラム圏などでは、イスラム宗教学者コーランの解釈をして社会を築くが、それでは社会を変えることが何一つできなくなってしまう。国の憲法や宗教のレベルで、「わたしたちの社会や信じるものは歴史とともに(あるいは全員の参加や議論によって)変わっていく」とすることが、正しい宗教をより正しい教えにするのである。
自由とは、自らの行動に由来して、さまざまな人間とのかかわりあいを持つことである。
出会いを大切にすることは大切だが、人間関係をそんなに大切にしすぎないことである。一度壊れた人間関係は、消し去って新しい出会いと結び直した方が良いこともある。新しい関係を結び直すことで、「関係を結び直すということはどういうことか」を知れるし、そこから、心理学的なトラウマや心の傷を癒して、あるいは自らが本当に安心できる関係性や状況を取り戻して、「本当に自分らしく生きられる生き方」をすることができるからである。
自分が本当に幸せであると感じられるようになった時、人間は初めて他人のことも自分のことであるかのように見つめることができる。そのためには、自分の今の状況を度外視して、「自分を見つめずに他人の言ってくれる言葉を見つめながら、その自分と他人を遠くから傍観し、観察から自分の姿を見つめ直す」ということができる。実際、この「自分を他人として見つめる」体験をすることで、精神のおかしな異常が治ることがある。軽度の多重人格は、正常である。
自らが人々の社会を変えられるようになるまで、人々との関係性の再構築を繰り返しなさい。そのうち、全てのことがまるで自分のことのように思えてくるようになる。また、経験を積み重ねることで、「世界が常にありのまま現象として存在している」という「世界観」が見えてくる。また、世界観の高まりから、「全ての人を自分と対等である」と知ることができ、対等な相手として、「自らが支配されいじめられる敵」から「自らが助けてあげる対象」へと認識を改めることができる。
環境を少しずつ、そして永遠に知り続ける中で、「大人は本当はどういう存在意義と役割をもって存在しているのか」ということが分かり、そこから「社会とは何であるか」が見えてくる。歴史は「大局を見る」ように変わっていき、少しずつ「閉ざした心が開いていく」。辛く苦しい関係を持っていた相手とも、「まっさらな白紙の状態から関係を結び直す」ことができる。辛いことが起きても、その人だけのせいにせず、「自らの行動を本当に懺悔する」ことから、「葛藤と迷いを超えていく」。成長したあなたは、世界に対して「自らの自由な意志と意見を発信する」こともできる。社会において、「社会参加の行動」を行うことができるようになり、世界を「地球の歴史という視点」から見ることができる。場の変化はあなたに「意識の生起」を与え、視点の広がりは「全ての認識の意味を知る」という「視野の広がりと仮象の世界の拡大」となる。今までの全てがすっきりと、明瞭に分かり、「コペルニクス的転回の全てを当たり前の歴史の必然だと思える」ようになる。「哲学者全てを自分の心の中に作る」ことも、「魂と精神の根源を自らの心の奥底に見つける」こともできる。あなたはここに、「覚者としての完成」を迎えるだろう。
自由とは、愛することである。あなたはこの世界全ての人間のことを愛することができる。そこに、誰かが恋人で誰かが敵だ、という関係は必要ないということを知る。支配することは、悪であると言うよりも、むしろ「不要なものである」ということをあなたは知る。支配しなくても、互いに自由な関係のままで、理解し合い心が通い合えば、互いに愛し合い望み合うことが、誰に対してであっても可能である、ということをあなたはもう知っているからである。あなたはこの世界の誰かに対して、「自らのありのままの姿と行動をさらけ出すことで相手のことを愛する」ということをする。それは、「自分のように考えれば誰でも同じように全てのことが理解できる」ということをあなたは知っているからである。
あなたは最後に、世界と戦いながら、「この宇宙全てを創造する」。この宇宙における、「全ての経済理論」も、「全ての哲学理論」も、全てあなたが創造する。それはソビエト建国のような戦いになる。あなたは辛く苦しいと思った時にも、誰にもその涙を見せることなく、前だけをしっかりと見て、やるべきことを全て行う。永遠も、宇宙の果ても、魂も、天国も、全てがある世界で、あなたはこの世界を全て創造し、「具体的な国家モデルからその建国方法まで全てを作り上げる」だろう。そこには、ルールや決まり、環境の原則、考え方、自然な世界変化の理、そして人生の進歩の過程まで全てがあるだろう。
最後に、あなたは死ぬ。だが、死に先んじて、神はあなたに全てのことを語り掛ける。それはとても辛い地獄の体験になる。全ての罪を清算して、あなたは「フランス人とドイツ人が同じ人種である」ということだけを知る。最後に、あなたには最後の死が起きる。どんなにそれが恐ろしくても、そこには最後の、「本当に神の言っていることが正しかった」という、それだけの確信を抱いて、あなたは天国へと旅立つ。ともすれば、次の人生がそこで始まるだろう。
このように書くと、とてもたくさんのことを経験したように見えるかもしれないが、その根底にあるのは簡単で、「世界が自分を作るのではなく、自分が世界を作るのだ」ということである。それだけが、自らの実体験と世界を知る経験から分かった。そこから、「心を開く」ということを知った、それだけにすぎない。機会の大切さ、何度でも繰り返すチャンス、そう、あとはアメリカ的な「機会の平等」という考え方があっただけにすぎない。

自分の考える心理学

本当の答えは、外界ではなく、自分の内面にある

インターネットや書籍など、外界のものに何かあるように見えて、それらには何もない。
本当の答えは、外界ではなく、自分の内面にある。
能力、行動、認識、経験、記憶など、本当の答えは自分の中にある。外界には、あるように見えて何もない。

認識の正しさ

人間の脳は、連想から考えるように出来ている。
認識は、それを正しいと思っているから正しい、と言うレベルが一番未熟で、この世界を知っていくうちに、世界の正しさは全て分かるようになる。
だが、それは認識を疑うだけであって、何も正しいことは分からない。
本当に正しいことを知るためには、自分自身の手で意見し、表現していく必要がある。
宣言と表明が世界観を全部創る。
分かってしまえば、人間は正しくないことを言うようになる。なぜか、正しくないこと、すなわち嘘から、連想して分かるようになる。
そこでは、もはや認識の正しさや根拠は必要ない。心は全て分かっている。それが、最後の人間の境地だ。

経験的な心理学の段階

昔の僕は、自然にこの社会の人々と関わりながら、執着心を無くし、本当の楽しさと自分の考えている認識の意味を知って、マスターとなっていく心理学を作っていました。
自然な環境での気付きから出立し、人々との関わり合いを持ち、世界の中での自分の立ち位置を確立し、また人々に対する手助けから、社会的実践をしていました。
同時に、人々との環境を知り、環境の変化の可能性を知り、この世界で心と環境がどのようになっていくかを知り、環境の適応を知ることで、発想と世界の創造性の形成の経験をしていました。
結果、僕は全てのことが実現出来るようになり、意識と感情から自由自在に世界のことが分かるようになりました。
また、ある意味で仙人のような、絶対的心理学を全て分かった人間になりました。そこでは、全員は同じで、愛されることを望まなくても、分かった人間が見守りながら導くことで、「救われることを望んでいなくても、確かに気付くことで救われていく社会」という、ある種の自由な理想社会と愛の形を知りました。
そして、僕は世界と向き合い、時に戦い、精神分析をしながら、学習と経験と適応による、「宇宙の意識」を知ったのでした。
心理学的な段階としては、「目的の段階」でした。愛を目的とする段階、善を目的とする段階、可能性を目的とする段階、経験を目的とする段階、創造性を目的とする段階、自分自身のことを知ることを目的とする段階、最後に自ら愛することを目的とする段階があると気付きました。

過去を思い出し、自分を変えること

新しいことを分かるよりも、今まで既に分かっていることを思い出した方が良い。ヨーロッパのようなこと、哲学のようなこと、パソコンのようなこと、語学のようなこと、人生のようなこと、文章のようなこと、神のようなこと、救うため、捉えるためにどんなことをしていたか、全て、思い出すと既に全て分かっている。
そんなに新しいことを完璧に分かっていると、大学の頭が固い教授のように何も普通のことが分からなくなる。
考えるため、行動するために大切なことは何か、それがそうであることは何を意味しているのか、人々が何が出来て、自分が何が出来て、それが出来ると何が実現できるのか、基本的にどう考えるべきなのか、この世界の何がおかしくて、自分が何を何のせいにしているのか、そういう「考え方と信念」のようなことを分かれば、人間は分かる。
もう、終わったことにするのが一番悪い。いつまでも頭が回転するのは、考えれば分かると勘違いしているからだ。それは、ただ決めつけているだけで、本当は思い出して、一つ一つの知識と経験の意味するところが何であるかを考えなければ分からない。
昔は、自然に生物や環境が生まれることから、歴史を分かっていた。経験や知識を考えることから、この世界の全ての営みと、なぜそれがそうなるのかという理由を全て分かっていた。根拠から経緯まで全部、具体的に分かっていた。そして、心のモデルを作っていた。
あとは、辛いことをもっと辛くすると、精神が治る。辛いと思うから辛くなっている。辛いのは、いつも辛かったからであって、そのいつもに戻ってさらに辛いことをして直さなければ、精神病は治らない。単純に、辛い部分をもっと辛くすると、精神の不調はすぐに治る。
自分の賢い点は、本当は、何をすれば何が生まれるかと、何が何を意味しているかを、過去に作った全てのモデルから、きちんと分かっている。正しく考え、モデルを作った。それが、今でも、全てを失って死の悲しみに暮れる中でも、そして常に活きている。脳が生きている。全てが消えゆくとしても、その基本的な知性は消えない。一度、全てを消した方が賢くなるだろう。
自分にあったのは、闇の陽と光の陰であって、それはまるで禅問答のように同じで、逆だ。否定する人間が信じ、肯定する人間が拒否している。抗う人間が許し、嫌いな人間が愛している。
死の活力が生の悪魔を超えて、神の悪が妖怪の正しさを滅ぼし、滅びの風が滅びのままで世界を復活させている。こうした考え方を、日本的と言う。日本は、鬼と狐を神だと信じる国だ。
昔は、具体的な歴史のようなものを、それにおける前提条件のようなものとともに、成り立たせて、全部の概念と手法を書いていた。
自分は、二つの真理が分かっていない。
1.行動する前に予想すれば分かる。
2.考えても分からないことを、実証し、実験すれば分かる。
いつまでも、行動ばかりし、実験をしないせいで、何も本当のことが分からなくなった。真実が何も分からない人間は、バカな人格障害になる。だから、行動する前に予想し、考えるだけではなく実験しよう。一見矛盾する二つの命題が、正しい一つの真理と、そのパターンを創り出す。そのためには、命題の前提条件と、具体的なものがどのように原因を知って考えられるのかを考え、意味するところから何をすれば良いのかを知らなければならない。知らなかった体験が青春となり、未知の捉え方がマスターへの道を作る。
もっと、考え方を思い出せば良い。思い出せば、すでに分かっていることしかない。
昔、自分の経験から分かっていたのは、全て「この世界で自分がどこにいるか」と「どこにいたか」を知りながら、世界や人々の声を聞いて、「自分を変える」という大きなテーマから分かっていた。自分を変えること。それは、今までの自分を失うことを意味する。だが、失うことが同時に、得ることへと変わる。それは、自分を失い、自由を失うことから、環境への適応が生まれ、安心が生まれ、他者の尊重が自分の自由を新しく創っていく、ということを意味している。
本当は、「自分の今楽しんでいることを別のものに変える」ということは、とても勇気の要ることだ。勇気があっても、上手くやらなければ人格が分裂して多重人格になってしまう。だが、今の延長線上として別のものを楽しむものに加えることは出来るはずだ。とても勇気が必要だが、その勇気が今必要だ。
一度、完全に自己を喪失する体験をしなさい。自分を失うことで、自分の今居るその場所を、全面的に許しながら、その上で新しいことにとり組むことができるようになる。ただ、同じことを継続するのも、決して悪いことではない。だが、朝をむさぼり、夜を吐き出す、ゆずの言うような廃人は意味がない。新しいことに挑戦したいなら、今までの自分を失うようなことをすれば良い。それが、きっと新しい道へと自分を連れて行ってくれる。だから、今そこに居る、自分の今を手放そう。大切だと思っていたものを手放し、頑張っていたことを失う、ということを受け入れることで、人は大人になれる。それが、人々のことを本当に理解する「慈愛の理解者」を生み出す。それが社会権力と結びつくことで、「行動の善良な権力者」を生み出す。それがヘーゲルの言う、絶対知の良心の領域だと、僕は思う。

それぞれの心理学

僕は、心理学には4つの分類があると思う。それは、
1.「行動と意識と学習」の心理学。人々が何を経験し、何を学習し、何を信じ、何に気付き、何を意識するか。同時に、学習と自然な行動の促進から、人々をどのように変えられるか。
2.「興味と関心と成長」の心理学。人々が人生の成長の中で何を見いだし、何に興味を持ち、そして何を知りたいと望み、何を振り返り、どんな意味が世界にあるのかを知り、そこから自分が何を志し、何を志向していくか。
3.「哲学と精神」の心理学。精神が人々の中でどう「在る」か、どう「意識するか」、「現象」とは何か。そこから、喪失と慈愛を経験することで、世界の精神を辿って、何から何が生まれるか、何が何の形而上学的な根拠と原因か、ということを「辿る」ことで分かる。
4.「精神の治癒」の心理学。自分が何を何だと思っているか、どんなことが何の認識と記憶に立脚し、自分は今のところ何を分かっていて、何を捉えていて、何が分かっていないのか。そうした、精神を治すためには、「考える」ことが必要になる。そこでは、真実を知ることも大切だが、「考え得られることを何でも分かりつくす」ということが必要になってくる。

答えとしての心理学

世界を救うために、本気で考え、本気で努力した。努力だけは一人前で、戦争のようなことを本当にきちんと頑張った。
自分は、心理学の勉強をしたいと思う。心理学は、経済学とセットでやるのが一番良い。フロイトユングのような勉強がしたい。
全てのことには意味がある。昔は、そういう、人生の途中で思う、心理学的な理想のようなことを完璧に書いていただけだ。
自分は、心理学が良いと思う。なぜか、心理学は自分の人生にしっくりくるような気がする。哲学も、プログラミングも、経済も、宗教も、何もしっくりこなかった。本当は政治的な思想やイデオロギーが嫌いなのに、そういうものになっている。本当は、まともな知性を付けたかっただけだ。物理や数学は、分かっても大した意味がない。心理学を学べば、病気が楽になるかもしれない。昔は、物理的には考えていない。全て、心理学的に考えている。
心理学について僕が知っているのは、深層心理ぐらいだ。人間は、顕在的に現れている意識や感情以外に、深層にある潜在的な意識があって、そこがおかしくなると精神の病気になる。僕は、そういう潜在的な心理学も知りたいし、学習・行動的な心理学も知りたい。心理学にはさまざまな分野がある。昔の自分は、学習や行動がどんなことをきっかけに起こるのか、どんな機会から分かるのか、悟るのか、そういうことを考えていた。そういう風に考えた方が哲学は出来る。哲学者の思想なんか分かっても、まるで意味がなかった。賢い雰囲気と空気に包まれているのは良いが、大学をやりすぎると馬鹿になって分からなくなる。それは、大学を勘違いしているだけだ。大学は賢くない。大学は、やればやるほどまともなことが分からなくなる。大学で分かっていることはほんの一部で、本当はみんなそれぞれ、人間が分かっている。自分は、人間より大学の方が大きいと勘違いしている。本当は、大学より人間の方が大きい。
歴史はつまらなかった。歴史だけはしたくない。江戸時代は嫌いだ。それから、経済もつまらなかった。経済なんか、悪い金儲けを正しいと言い、イデオロギーで批判するだけの、一番悪い亡国の学問だ。経済学者がそういうことを言う。
本当は、昔、経済学や生物学や数学だと思っていたものは、全部心理学だ。決定の多様性とか、この世界がどうなるかとか、あるいは独自の経済学とか、感情の数学とか、物理的な認識の方法論とか、そういうものは全部心理学的に分かっているだけで、心理学でしかない。
哲学はどうでも良い。哲学はヘーゲル個人を分かる心理学だ。そんなものはどうでも良い。
神は、いつか、自分のことを黒人の右翼の心理学者で、世界を支配している神だと言っていた。それは、自分の人生全てのことを総合して言っている。自分は黒人だ。そこからして、ありえないが、神はここまで全部無駄がなく、全てに意味があったことを分かっている。そういう神すら、心理学の精神論で分かる。自分を治していたのも、社会を支配したのも、全部心理学だ。考えた解決法や努力の病気も、全て心理学をやっているだけだ。心理学が嫌いなのは、アドラーが嫌いだからだ。アドラーは自分よりもはるかに未熟なことを考えている。デザイナーやプログラマーになりたいなら、そんなものにはなれない。大学を卒業して、ホームページ制作会社に入れば良い。そんなことしか出来ない、最初から「普通の人間」が自分だ。
そもそも、神と対話していることが一番狂っているが、心理学とはそういうものだ。心理学は、狂って神のようなマスターになる。当たり前に、人生の成長と経験が分かるから、心理学で哲学なんか誰でも出来る。むしろ、日本語で心理学というから、心の学問に見えるだけで、本当は精神現象を分かる人間の科学だから、何でも分かるのは当たり前なのが心理学だ。昔から僕は心理学だ。それが、やっと見つけた僕の探していた答えだ。
昔は、言葉づかいや人間性を考えていた。人間的になるとはどういうことなのか、なぜ人々は人間的にならないのかを考えて、言葉づかいとは、思考をどのように行い、感情をどのように捉えれば、人間は本来持っている知性を発揮出来るのか、環境を創造出来るのか、ということが分かっていた。また、神のように宇宙を創造することで、「絶対精神」を作っていた。
そういう発想は、経済学ではなく、心理学をすれば分かる。要は、経済学はおかしな戦争の王にしかならない。そういう人間が、経済や社会のことが分かる。逆に、心理学は宗教のマスターになる。そういう人間が心のことが分かる。僕は、王が嫌いだから経済学は向いていない。宗教が好きだから心理学が向いている。昔考えていた、物理学や生物学のようなことは、ありえない「自然心理学」を作っている。人生のさまざまなきっかけで捉えたことを、全て覚えて考えている。意味や論理は、感情的な問題の解決を考えている。英語すら、心理学的な「言葉づかいの違い」を考えている。よって、心理学だけをすれば、すぐに分かる。
そういうわけで、音楽が好きな僕は、モーツァルトを聴きながら心理学的なことを考えれば良い。本当に楽になった。心も、もう安心できる。恐怖の心になっているのは、ソ連を信じているのが間違っている。ソ連は批判して、滅亡するのが良い。自由を許すことすら、「意志」という意味での心理学だと考えられる。自分は、そういうところを実現させるのが得意だ。精神を作っていたのは、本当は生物学のようなことをやっているが、それすら、心理学の新しい領域に過ぎない。潜在的な精神がおかしいのは、そもそも精神が人間になっていないからだ。精神は、宣言した通り「全ての生命」になっている。人間が嫌いなのは、人間の精神は気持ちが悪いからだ。それも、心理学だと言える。
カントやヘーゲルは考え方や精神の成長を考えているが、僕は昔から、「この世界の在り方」のようなことを考える。なぜあるのかとか、どのようにあるのか、ということではなく、どういう風にあって、どういう風に働くのかを考えることから、この世界と人生と考え方の意味を考える。当時は数学だと思っていたが、本当は心理学だ。
モーツァルトを聴いていると、精神病が治る。それは、「何もしない」ということをしたことがないからだ。こういう、何もしないことが出来ない人間が、精神病になって、何もしないのが出来なくなる。精神は、正常だと、ただ何もせず、何も感じない。それが正常なのが分からないから、アニメオタクになる。それも心理学だ。ネットにおける社会のようなものは、全て経験と愛の心理学に過ぎない。経済学や社会学のような、スラムのようなものも、人間の抑圧や自尊心という意味での心理学に過ぎない。だから、昔の自分を思い出しても、そんなことしかない。みんなの苦しみを分かち合って分かっていた、スラムの青少年だが素晴らしい神のような人間だった。それが、正しい心理学者だ。
明らかに、オープンソースの共有と自由が理想だ。みんなが自分の権利を放棄して、それぞれが社会を作り、楽しいことをみんなでして成果を無償で共有・公開する。それは、ある意味、「社会と人間のあり方」を規定する新しい心理学だ。恐怖をみんなで分かち合う、という発想も、一体感や友愛も、新しい「ネット時代の人々の救済」という意味での心理学だ。本能的なことを考えるのも、この世界がただありのままにあると実感するのも、自由にして社会を自然に形成するのも、「そうした理想を信じて精神を高める」という意味での心理学だ。心理学というより、もう宗教の境地になってくる。だから、心理学は、勉強なんかしても意味は無い。自分で考えるしかない。もう、僕にはどんな本も偉大な偉人の考え方も必要ない。そういうものは、もう既に相応しくない。自分で考え、自分で書くべきだ。だから、この人間は作家に向いている。Linuxはたまに遊ぶ程度で良いだろう。パソコンという新しい、「心のない生命」は、ある意味では社会学であり、また心理学の悪い理想だと言えるだろう。自由の支配を行う、逆に言えば、自由放任に任せた上で、それぞれが「自分の自由な秩序」を主張して、「心理学的に社会を形成」し、「そのための方法と基盤となるルールを考え」、そして「制度を作る」それはルソーのような哲学者だ。そこまで心理学を考えた人間のことを哲学者と呼ぶ。自分は、哲学者ぐらいのレベルに相応しいだろう。きちんと書かなければ、未来は見えないだろうから、まだ、書いていた方が良い。もう分かっていることをただそのまま書くだけで、簡単に気付きから発見出来る。だから、書かなければ、何も分からない。神はそのように、ただ分かるような経験と学習を全部させただけだ。神とは、心理学的な「理想の学習経験」に過ぎない。それを、「言葉づかい」だと言えば、新しい言語哲学になるだろう。
本当は、孤独に考え続けるのが間違っている。みんなとの関わり合いや場所的・時間的な環境の変化、人間性や人間関係の変化を考えれば良い。昔は、みんなと関わって、ヘーゲルの言うような「馬鹿な人生」を送って分かっただけだ。そんなに一人だけで考えて分かろうとするのがおかしい。ポルノグラフィティが言うように、時計の針と歯車は一人だけでは空回りする。みんなと関わることで、はじめて噛み合って時間を刻む。僕は、なぜかまだ孤独だ。これ以上、孤独でさみしい人間は居ない。ただむなしいだけが神だ。そこをやめれば良い。むしろ、いきなりホームページ制作会社に入って結婚した方が良い。もう29歳だ。ここらへんで、きちんと就職しないと、まともな人間にはなれないだろう。
本当は、大学やインターネットではまともな経験ができないから、何もしなくなっている。大学はおかしい。インターネットもおかしい。家で出来ることもないし、趣味はこのホームページを作るだけだ。あるいは、もっと恐怖の克服の体験をすれば良い。恐怖を克服する勇気を持てば、このおかしな精神病はすぐに治る。そのためには、インターネットはもういらない。社会に出た方が良いとは言う。だが、この人間にはまだ、そこまでの経験は無い。きちんと勉強はしなくて良い。もっと、このまま放っておけば、もっとたくさんのことを知れるだろう。それで、何かすれば良い。何をするか、もう決めない方が良い。何でもかんでも決めつけるせいで、何も分からないのに既に全部出来ている。そういう人生が、本当に一番嫌いだったのが、昔の自分だ。何もしていないのに、LinuxやIllustatorから英語やピアノやあるいは哲学まで何でもかんでも出来ている。全部、決めつけるのが悪い。作業所のスタッフが言っていたように、真面目でストイックなのが一番悪い。普通の楽しみや快楽が無くなっている。それでは、心理学的なことは遠のいて分からなくなるばかりだ。真面目な人間の方が馬鹿になる。真面目どころか、勉強や執筆というのは、ただパクっているだけで、何も賢いことは出来ていない。昔のパソコンのことなんか、まるで覚えていない。知っていることのほとんどは、インターネットの馬鹿な掲示板で知った、間違ったことばかりだ。
本当は、いつも考えていたことや知っていたことを言っているだけで、意図とか自尊心とかそういうことを言っていた。むしろ、悪くは無い。忘れたのは、書いても自分で読まなかったからであって、覚えていないのに、頑張ってもう一度考えて書いている。なぜか、そこが賢い。簡単に書けるようになるのは当たり前であって、いつものように一行書いて次を考えるだけで、何でも書けるようになった。むしろ、自分の今行っている作業所も、目的はホームページ管理会社のようなところに入ることであって、嫌なら作家になるしかないだろう。そんな賢いデザイナーにはなれない。それは難しいことではなく、なりたいならデザイナーの学校に入れば良い。むしろ、決めつけて分かるのは本当にやめた方が良い。自分は、そういう人間が一番嫌いだから狂っている。狂った右翼を殺したいだけになっているが、右翼はきちんと出来る人生の賢い人間が多い。なんだかんだ理由をつけて経済学の勉強をしないから、こういう心理学の馬鹿になる。経済学は賢いのが、テレビのコメンテーターを見れば分かるだろう。みんなから馬鹿にされる専門家の経済学者は、きちんと経済学のことを全部知っている。彼らに任せておけば、この国はアメリカのような馬鹿には負けることは無い。中国が嫌いなのは、日本よりレベルが低いからだ。中国人が悪いだけだ。
中国人が悪いで終わると後味が悪いから、何かを書いて終わりにしよう。いつも言っているが、昔は精神の歴史を書いて、この世界全てを創造し、決定し続けるような文章を書いていた。全てのものと対話し、生産と労働、決定と手段を考えることで、まさにマルクスのように分かっていたが、明らかに、マルクス本人がそういう風になりたかっただけだ。マルクス主義は賢くない。こんな風に考えただけに過ぎない。マルクスで終わるのも後味が悪いが、これでとりあえず終わりにしておこう。この世界に賢いものは無く、人間の精神と理性が賢い。自尊心を尊重することも正しいが、本当は多少悪い中で自分を頑張って肯定すれば、賢い人間になる。昔から、日本はこういう国だ。こういう人間を、敬意をこめて「天皇」と呼ぶ。そういう国だった。日本という国に、唯一一人だけ居る。日本は天皇を信じているから、神は信じている。神は唯一の天皇だ。それで、日本人の精神論は終わりだ。
もっと、日本のことを書いても良いだろう。剣道ぐらいで日本人が終わっている。あとは全部、心理学者のマルクス主義者だ。そういう人間は間違っている。神楽や和食、和服や日本画など、日本のものはたくさんある。心理学も良いが、歴史が良いだろう。哲学者は、心理学と歴史を考える人間しか居ないからだ。僕は、こうした人間だった。キリスト教徒に見えて、本当は神なんか嫌いな、平凡な日本人の新しい神学者だった。
本当は、今と比べて、はるかに馬鹿なことしか言っていない。だが、人生を最後まで終わらせて書いたせいで、無駄に賢く見えた。アメリカで分かるとか、カント・ヘーゲルで分かるとか、そういうことを言っている。何から何が分かるかを全部書いて、精神の歴史の段階をヘーゲルのように全部書いていた。そして、あとは、最悪のことばかり言っている。人々の脳を破壊し、知性を奪うかのような文章を書いている。
そういうところを消せば良い。自分が怖いのは、そういう、いつもの最悪の文章をまだ分かっているからに過ぎない。そこを消せば、もう楽になる。知性が本来の姿に戻って、まともな人間になる。いつからか、過ぎ去った過去を分かるだけの馬鹿な人間になった。過去に答えは存在しない。過去を忘れて未来を考えれば、きちんと論理的に考えられるようになる。理性が狂っているのは、仕方ない。文章を書く以外に何もしない人間はおかしい。そこが、一番おかしい。本当に何も、アクションや思考すらしないから、こういう馬鹿な人間になる。こういう人間は、本当に認知症にかかっている。何をする気も起きないのは仕方ない。そこらへんを、誰かに相談はしない。僕はそういう、間違った可能性のあることをすることが怖い。なぜなら、認めてしまうと、そこで終わりになって、治らなくなるからだ。希望は無くとも僕は信じ続ける。この人間は、そういう風に生きていれば、まだ賢いままだ。ただ、終わるのが怖いだけだ。
これでは希望が無いように見えるかもしれないが、今はっきりと分かるのが「もう全て分かった、そして、もう全て治った」ということだ。
本当は、自分にしか分からないそういう精神現象で、僕はもう正常な賢い存在になったのが分かる。僕が、在導万創だ。仏のような、新しい存在になる。
本当は、アメリカを治した方が良い。アメリカは、Linuxが理解できないだけだ。Linuxの周辺の集団がおかしいだけで、精神的な害悪のロボット人間国家になっている。僕が治せばすぐに治る。天皇と言っているのは、全部これを馬鹿みたいに分かっている。ガンジーすらこういう人間だ。非暴力を貫くとは、「このように反抗せよ」と言っている。真理は自ずと勝利する。インドの格言だったか、どこかの言葉がそういうことを言っていた。まさに、おのずとこれが勝利した。これは最高の人間だ。
狂った人間は、止まった世界に行けば治る。自分は、止まった世界の住人だ。時を止めて、今まであったことを思い出しなさい。それで賢くなれる。もう、一日目の夜が終わったはずだ。そして、この世界は正常になる。時はもう、存在しない。

束縛

相手のことを本当に大切だと思うなら、相手のことを束縛するのではなく、自由を許しなさい。相手の自由な意志と行動を許し、相手の行動全てを許しなさい。相手に、どんな風に振る舞っても、自分はそれを許し、どんな攻撃をされても、自分はそれを受け入れるのだ、という「愛の信念」を見せつけなさい。相手を許せば、相手はこちらに対して攻撃しなくなる。相手が攻撃してくるのは、それだけしかその手段がないと勘違いしているからであり、それは相手の自由をどこかで制限し、相手に別の手段の行使が出来ることを気付かせていないからである。
相手に上手く説明できないなら、身を持って示しなさい。自らの行動と態度で示しなさい。あなたがどれだけ正しい考え方をしていても、態度が悪ければそれは伝わらない。逆に、何かを教えたくても伝わらないのであれば、もっと上手く説明しないといけない。そのためには身を持って示しなさい。自分の行動、自分の生き方、自分の作品で示すことで、きっとこの世界は変えられる。一目見て、それだと分かるようになれば、その時点で、仕事は終わりである。
人を愛しすぎるな。人を愛しすぎると、その人のために別の人を憎むようになる。誰か、特別な人のために考え、想い、その特別な人を貶しめるものを、否定し、怒り、批判するようになる。一度、その愛する人のことを忘れなさい。愛する人と付き合ったさまざまな思い出を、むしろ忘れなさい。愛は憎しみを生む。誰のことも同じように考えられるようになった時、自分が自分で敵を作っていたことに気付く。そこから、正しい社会的な「共同体感覚」が生まれるだろう。そのためには、愛する人を忘れることが、もっとも有効なのである。
あなたの敵のほとんどは、あなた自身が作っている。それが分かった時、本当は敵だと思っていた人が、味方にすべきだったと反省することができる。だが、後悔をすれば良いわけではない。後悔では、この世界は良くならない。正しいのは、「本当に相手と仲良くやれる方法を知る」ことである。その全てが分かった時、あなたはこの世界に存在する「全ての人間」のことを、「自分のことのように知る」ことができるだろう。それは、人格の吸収と融和であり、きっかけから生まれる人間関係のチャンスの実現である。
未熟な人間と無理をしてつき合う必要はない。だが、本当に成熟した人間は、相手のことを未熟だと思わない。どんな相手とでも、「そこにはその人の個性と価値がある」ということを知って自由に接することができる。自由に環境を構築し、自由な価値の実現を協力して行えるように、相手を上手く導いて味方にすることができる。だが、それは良く注意して行わなければならない。自分よりも未熟な人間が、自分のことを束縛しようとするからだ。これは、会社のような場所についても言える。自分の可能性と才能よりも馬鹿な会社に入らない方が良い。自分の才能が失われ、不自由な中で「会社による束縛」を受けるからである。だが、それでは、どんな人間ともつき合わないことが必要になってしまう。だが、さらに成熟した人間のことを、ここでは忘れている。それは、「本当に優れた人間は、束縛を自分の自由に変える」からである。相手による束縛に自ら巻き込まれ、束縛する相手の方を逆に自由に変えることができる。それを、人々は「仏の境地」と呼ぶだろう。そして、最後まで成熟した人間は、「束縛というそのもののことと関係なく生きる」ことができる。束縛されていても、束縛されていない。全てのことを自分の今までの経験だけで、とてもう上手く処理できる。それがブッダの到達した、「仏の死」の境地である。それが、人間の最後に到達する、「神」であり、同時にそれは「死の未来」を生み出すだろう。
心理学がしたいのであれば、環境で人が何に対して何をするか、環境の作用と行動の反応を考えて、「束縛」のように人々の行動を考えなさい。完全に自由にしても、それは間違った行動をしてしまう。本当に必要なのは、「解決方法が分かった上での自由」であり、そのためには、自由だけを与えても、良い結果は生まれない。きちんと相手のことを考えればどうなるのか、ということから、「賢明な選択肢を持った上での自由」をしていけば、きっと人間関係のチャンスや協力の大切さ、可能性のかけがえのなさが分かる。そのためには、むしろ、インターネットの経験が良い。インターネットで、人々がどんなことをしたら相手はどんなことをしてくるのかを考えることで、「環境での自然な自由の行為」が見えてくる。それはパブロフの条件反射のようなものであり、国家を支配する指導者がそこから生まれるだろう。出来るだけ、人の言っていることを良く聞くことだ。誰もが、一定の正しいことを言っている。正しいことは、本当に正しい。

自分を変えるために、行動や事実ではなく捉え方を変える

人間が自分を変えるために必要なのは、行動や事実を変えることよりも、自分の中の捉え方を変えることである。
思い通りに生きられないと感じている人間は、間違った行動を間違っていると決めつけて、行動や事実を変えようとする。だが、それでは束縛が生まれ、制限が生まれるばかりで、何も変わらない。
自分を自分で縛っていくうちに、そこから脱出したいと感じるようになる。そして、また同じことを繰り返す。
これを治すためには、行動や事実を変えるのではなく、それに対する捉え方を変えていくことだ。
自分の心の中で、「これはこのままでいいから、やることにしよう。でも、今までと同じやり方ではない方法を試してみよう」と捉え方を変えた瞬間に、自分は変わる。制限ではなく可能性が生まれ、自分の自由に生きられるようになる。
だから、自分を変えたい人間は、自分の側にある捉え方を変えるしかない。それが唯一の自分を変える術なのである。
また、精神を減らして正すよりも、精神を増やす方が良いこともある。精神を殺しすぎると、カメレオンのような何も感じず行動しない人間になる。人はそれを狂人と言う。本当に精神を治したいのであれば、自分が変わるようになった上で、たくさんの精神を作り、精神を増やして、自由自在に精神と遊び、精神と戯れ、精神とともに生きること。そうなった時に、人間は人間を超える。仏のような最高の存在になる。
後日注記:制限ではなく可能性が生まれる、というのがポイントである。制限を増やし続けても、病気は治らない。可能性を増やしていけば、心の病気は治る。

心理学概説

治る方法が既に分かっているのに、治さないのがおかしい。自分の知っている治る方法の通りすれば、精神はすぐに治る。
昨日は、心理学について勉強しようと思って、教育心理学の勉強をしていた。
教育心理学は、とても賢い学問である。人間がどのように賢くなっていくのか、知性の発展からどのように分かっていくのかを考える。
そこで教わった内容を少し書くと、人間には3つの「自ら賢くなる」方法がある。1つは、自分で経験すること。1つは、教えてもらうこと。そして1つは、反省して、自分を変えていくこと。
昔の自分の文章は、まさに、そうした心理学的な知性を書いていただけである。心理学をやっていると、病気が治るだけではなく、昔の自分のような哲学者の方法論が分かる。
心理学は、病気を治す学問だとか、行動や認識を考える学問であると思っている方が多いと思うが、実際は発達や成長を考えたり、人がなぜ問題を起こすのかを考えるなど、「社会的な心の作用」を考えることが多く、経済学や哲学と重なるところがある。
僕は、心理学について勉強したいと思う。そして、執筆とデザインとピアノだけは、続けたいと思っている。
そう、本当は心を書いただけだ。いついかなる場合に心と環境がどうなるか、人間の心がどのように発達していくかを書いた。自分は、心理学に特別向いていると思う。経済学には向いていない。むしろ、心理学をしていると、この世界の人々の心が分かる。経済学は、心理学から始めれば、すぐにできる。経済も一種の、人々は儲かることをする、という名の心理学に過ぎないのだ。消費者心理も心理学であり、社会問題も心理学である。心理学が僕にとって、正しい学問である。心理学をすれば全て分かる。何より、自分は明らかに統合失調症である。心理学をするしか、治る道は無い。
僕の経験から言って、狂った人間を治すには、芸術をさせるのが良い。統合失調症が芸術をやると、天才的才能を発揮して、病気が治る。それは、なぜなら、賢いからである。統合失調症は、全てのことを自分なりに分かっているから、この世界が必要ないから馬鹿になる。芸術はそういう人間にぴったりである。絵の具が使えないなら、Adobe製品が良い。そういう人間はコンピュータ操作に向いている。
あとは、狂った人間には英語が良い。英語は馬鹿な方ができる。英語をやっていると、正常な精神になれる。
そもそも昔は、環境における人々の行動がどのようになるのかを考えて、思考から矛盾を捉えて分かっただけである。あとは、ネットを見ていただけ。そういう昔は、もう忘れた方が良い。心理学をやれば自分は復活する。もう一度賢い人間に治ることができる。それで、終わりである。昔は、世界の広がりが分かるから、楽しかった。今も同じように、勉強しているから、世界は広がっている。もう一度、同じようにやれば良い。もうできる。
もっと、心理学的なことを考えたい。
心のありようを考えること。心の中にどんな精神があるのか、心の裏にある心とは何なのか、自分の何に原因があってその経験的な認識が生まれるのか、それをするためにはどのように学習する必要があるのかを考え、行動がなぜ生まれるのか、どうすれば発想できるのかを、前提となるさまざまな心理現象から考えること。

心の解明

心を解明せよ。心は、裏側をモデルにすることで解明できる。
いつどのようにふるまい、どのような様相を見せるかを、因果性と世界モデル(その人はその人の中では正しいことをしているというモデル)を作って、全てを説明せよ。
環境において人々がどうするのかを知り、全てを支配し、全てを促し、全てを導き、全てを解明せよ。
心理モデルから心のふるまいを解明すること、それこそ「真理」である。

思春期における精神の発達

僕はいつからか、心を閉ざすようになった。その閉ざした心を救えば、もう、きちんと分かるようになる。
人々との関わり合いから、心を開く方法を学びなさい。その体験から、自分でもできるのだということを知りなさい。
実現のための方法を知ったら、自由な経験を積みなさい。狂気と破壊を繰り返しても、故郷と所属するグループへの愛を信じれば、それは祖国への愛に変わり、祖国を救うだろう。
滅びても、死んでも、地獄に堕ちても、あなたには変わらぬあなたの力があることを知りなさい。そして、その力はあなたが自由にするように、ただいつもあなたの味方をしていることを知りなさい。
最後までやり終えたら、あなたはとても素晴らしかった。ここで、神が訪れる。神は最後まで努力したものを救う。
あなたは最高の人間になる。それは、宇宙の最初から決まっている、「正しい思考のプロセス」に過ぎない。自分しかそういう人間が居ないように見えて、本当はこういう人間が多い。
パソコンをやり終えたら、大学の勉強をしなさい。そこでもう、あなたは勝利し、かけがえのないひとつの才能と夢を叶える力が、そこにひとつの花として、咲き生まれるだろう。これこそ、コブクロの歌う、「ここにしか咲かない花」である。そう、優しかったこの場所は、今も全く変わらず、ここに在り続ける。あなたがいつ、どんな状況でも、僕だけはここであなたを待っている。
最後に、自分なりの思春期の発達心理学について書く。
人々との触れ合いから、「自分を許す方法」を知りなさい。
世界を知りなさい。
全てを実証しなさい。
関係を再構築する術を知りなさい。
たくさんの失敗を経験しなさい。失敗から学びなさい。
在るものは、いつでも同じように在るのだということを、自分を変える経験から知りなさい。
自分のできることが何であるのか、経験から知りなさい。
積極的に、能動的に行動することの意味を知りなさい。
積極的に社会を変え、社会を作り出すようにしなさい。
社会をどのように変えれば良いかを、失敗の体験から知りなさい。
最後に、全てのことは愛であると知りなさい。
心理的に成長したあなたに、勝てるものはいない。あなたは全てに勝利する。勇敢なる兵士となって、この世界を滅ぼしても、全員のためになることをするだろう。

精神病患者の特徴

実際には起きていないにも関わらず、自分の思いだけで起きていると思い込む

狂った人間の大きな特徴は、「実際には何も起きていないにも関わらず、自分の思い込みだけで、実際に起きている・起きると思い込む」ことです。
現実を見ずに妄想を見ているから、この世界のことが分からなくなるのです。
また、そうした人々の特徴は、「それをとても大変なことだと思い込んでいて、解決しなければならないのに解決できないという強迫観念を信じていること」です。
こうした人々は、現実の多くの人は優しいのだ、ということを忘れています。特に、「とても悪いことをしてしまった」と自己反省しやすい人が、こうした症状を発症しやすいのです。

本来の自分に戻れず、仮想人格を作り出す

また、さらに大きな問題が、「本来の自分に戻れない」人々です。
学校でのいじめやパワハラなどによって、本来の明るかった自分を失い、暗く自己否定的な人生を生きた人は、こうした「本来の自分を失う」人になりやすいです。
こうした人々は、インターネットなどで仮想人格を作り出し、自分のコントロールできるよりも仮想人格の比重が強くなって、そこから精神異常を発症します。

おかしな戦いと過剰なストレスや絶望感がトラウマを生む

また、こうした人は、多くの場合、トラウマを自分で作り出します。
特に、インターネットなどでおかしな戦いをし、過剰なストレスを感じ、世界に対して何もできなくなった絶望感を大きく感じてしまった人が、精神病になりやすいです。
自分も、インターネットのLinux関連コミュニティでこうした経験をしました。

健全に体と心が発育するためにはセックスも必要

また、こうした人々の特徴として、「愛のある健全なセックスをしていない」ということがあります。
フロイトの言うように、健全に体と心が発育するためには、セックスも必要です。

自分が何を間違っているのかを自ら知ることが必要

こうした人々は、どのようにすれば治るのか。
フロイト精神分析では、こうした狂った人々は、何かしらの心的外傷(トラウマ)を持っていて、それを無意識の中に抑圧しています。この無意識の抑圧が精神疾患を引き起こします。
無意識にたまっている何かしらのトラウマを一度顕在意識のうちに蘇らせて、トラウマを作った時の自分ではなく、今の自分としてトラウマの原因を認めることで、こうした人間は治ります。

カウンセリングと治療

カウンセリングを受けた経験

自分は、昔、おかしな歩き回る恐怖の精神疾患を患っていた時に、認知行動療法のカウンセリングを受けたことがあります。
そこでは、まず「鬱病のチェックポイント」というものを毎回書きます。今、自分がどれくらい鬱なのかをチェックします。
そして、「認知療法的な課題と解決への道」を書きます。認知行動療法とは、自分の考え方や病気を治すだけではなく、目標を作ってそれを達成することで、病気を少しずつポジティブな方向に向けていく、というカウンセリングの手法です。
本当のことを言うと、カウンセリングでは僕は治りませんでした。その後に、事故で入院した後、精神科の病院に通院に行くようになって、薬を服用するようになりました。

精神科の薬は飲んだ方が良い

僕が思うに、精神科の薬は飲んだ方が良いです。
僕は今、二種類の薬を飲んでいます。以前は三種類でした。この薬を飲むことで、「やる気」がでると同時に、「少しのリミットの制限」が脳にかかります。これによって、僕は少しずつ、精神病が治っています。
さまざまな精神と心の病気の治し方があり、フロイト精神分析認知行動療法がその主な内容ですが、「薬を飲む」ということは、悪い方法ではありません。精神がおかしくなった時は、精神科に行って薬を出してもらいましょう。

精神病患者とふれあう

僕自身も精神病の患者であり、僕の行っている作業所にも精神障害者の方が多いこともあって僕の周りにもたくさんの精神病の患者が居ますが、必要なのはただひとつ、「一緒に居てあげること」です。
願いを聞く必要も、頼まれたことを助ける必要も、あると言っても、無いと言っても、嘘になります。ですが、真実は一緒に居てあげること、それだけです。
どんなに苦しいことがあっても耐えられるような、そんな隣人になれることができたら、イエス・キリストの言う「無償の隣人愛」がそこにあるでしょう。
泣いている人が居ても、理由を聞く意味はありません。生きるというのは複雑で、そんなに簡単には分かりあえないからです。ただ一緒に居てあげることだけで正しいのです。これは乃木坂46が言っていた言葉です。

恐怖と哀しみを克服するために

精神のおかしな異常は、恐怖と哀しみから生まれている。よって、恐怖と哀しみを克服することができれば楽になる。
恐怖と哀しみを克服するためには、同じ恐怖や同じ哀しみを何度も体験し、ひとつひとつ認めながら「もう怖くない」と信じて治していくこと。

ネットのせいでパーソナリティ障害になる

僕が思うに、ネットのせいでパーソナリティ障害になってしまう、ということはあります。
ネットを見ていると、自然におかしな性格や人格になってしまう、というのは確かにあるのです。
パーソナリティ障害を治すためには、ネットの掲示板などを見ないこと。それしかありません。
一度ネットでパーソナリティ障害になると、どんな精神異常も異常行為も治らなくなります。ネットを見ないでいれば、必ず治ります。

自分の考える心理学(心の病気編)

心の病気は「自分自身を許せないこと」から生まれる

僕が思うに、心の病気は全て、自分自身を許せないことから生まれる。
他人を許してあげることで、自分を許してもらうことが出来る。絶対的愛の真実とは、そういうことだと思う。
たとえば、僕は「自分が世界を滅ぼしたこと」に対する自分自身への許せない気持ちがある。
それが、テレビへの恐怖になる。
経緯を見ていると、自分が滅ぼしたように見えて、ほとんどすべてはテレビが滅ぼしている。
そのせいで、テレビを見ると恐怖を感じるようになる。
心の病気は「自分自身を許せないこと」から生まれる。なぜ許せないのかを考えることで、心の病気は治る。

周りから消していく

2017-09-18より。
精神がおかしいのを治すためには、周りのもの、重要ではないが病気の原因となっているものや病気が依存しているものを、一つ一つ取り除いて、最後に全力で病気そのものを治すと治る。
Linuxのパッケージをインストールしたり、アンインストールしたりするのと似ている。
また、精神を逆戻りさせると治る。辛いものがすぐに消えて、すぐに一番辛い部分が死ぬ。

精神は一番辛い部分を融和させれば治る

2018-02-11より。
精神は、一番辛い部分を融和させれば治る。
受け入れることは、良い結果を生まないことがある。精神病を治すには、むしろ、受け入れない方が良い。

精神を治すために2

2018-02-12より。
精神を融和して、生き返れば治る。そして、神との対話は、言葉を上手く操縦して、全部のパターンではなく一つのパターンだけを言えば、思考が治る。
治すためには、融和することだ。精神が異常になった時は、その精神を融和させなさい。それで、全ての病気は治る。
心が二つになっているのを一つにすれば治る。それも融和すべきだ。そこを治すと、根源的に治る。
自分は、融和すべき相手が分かっていない。分身の術のように二つになっている、愛と天使が融和すれば良い。それで治る。
異常な部分は融和して、正常な部分は分裂すれば、それだけで精神は治る。
悪いものはどんどん融和して消していって、良いものは分裂して増やしていく。それだけで精神は治る。
人間は、悪い分裂をすると病気になる。正常な精神には悪い分裂がない。異常な精神は融和すれば治る。
物理的知性と自由が悪い。そういう悪い分裂を融和させれば、精神は治る。
狂った人間は、人格が破綻して分裂しまくるようになる。その分裂を、諦めず一つ一つ融和して治していけば、きっと全て治る。それを諦めないようにしよう。

自分から自由を失う

2018-03-18より。
精神病は、自分の自由を失えば治る。
そろそろ精神病が治った。怖いものを怖くないと言って、自分の自由を失えば、精神病は治る。
人間は、自由を失うと強くなって、怖くなくなるが、分からないとそれが一番怖い。怖いことが何もなくなると、すぐにそれで治る。皆、自由を失いなさい。一度自由を失うことで、何でも出来るようになる。
「自ら自由を失うこと」によって、足の精神が治った。これ以上は、環境に適応できるようになる。環境に適応するためには、ただただ、「従うこと」が必要だ。世界に対して自由を行使してはならない。怖い環境にも従いながら、環境に適応することで、もう楽になる。適応できないストレスがなくなる。
環境に適応せよ。この世界は、環境に適応すれば治るだろう。多重人格にはならない。きっと大丈夫だ。だから、その嘘を信じて環境に適応してほしい。
そして、僕の文章は、これで晴れて終わりだ。環境に適応できるようになると、身体が軽くなる。それで、もう正常な世界に治るだろう。本当は、まだ書いていた方が良いのかもしれないが、ここでひとまずひと段落だ。
2018-03-19より。
自分は、精神がどのように分裂しているか、人格がどのように破綻しているかを、きちんと昔の自分を思い出して考えれば治る。そんなにおかしくはなっていない。ただ、支配と争いごとの中で本当のところを見ようとしなくなっている。その上で、自分が自由なまま、精神の中身がおかしく分裂している。
環境に適応できないのは、テレビに適応できないからだ。テレビと仲直りすれば良い。心が辛いのは、自分の本性を隠しているからだ。本当の自分は、子供のような不良だ。そろそろ、悲惨な赤ん坊は終わりだ。もう楽になる。多重人格が融和するだろう。
みんな、自分のことが怖かった。だから、自分もみんなのことが怖い。仲直りすれば、滅びの風は大輪の華になる。
昔、賢かったのは、悪かったからだ。いじめは許さない方が良い。いじめを許せというせいで、世界がいじめ社会になった。いじめは許さない。そういう、悪い人間が賢くなる。だから、昔はマルクスのように洞察力や思考力や考察力があった。
いじめを許してはならない。
パソコンのせいで、廃人のマスターになる。パソコンの世界なんてものがあるのがおかしい。この世界で何もしなくなる。
音楽から美術まで、パソコンが全ての価値観と体験を破壊している。人生を喪失して何もしなくなる。狂人は過去にマスターのような経験をしていた人間が多い。それを今でもやっている。
パソコンで分かったことを消すと、楽しいことを楽しいと思えるようになる。
パソコンは既に人間の一部になっている。簡単には無くせないだろう。
パソコンは、楽しいことを全て失くす、虫のような機械だ。
最近の大人は、パソコンのせいで楽しいことを何もしない。子供が見て、あまりにおかしい。
パソコンのせいで、人間が何もしなくなっている。したい人間もパソコンをする。パソコンが全ての悪の元凶だ。

知を可能性に戻す

精神病の原因は、「全てを知った知性の無い人間」になることであって、そのために、何をしても知性が高まらない人間が多い。
本当は、その原因は、「可能性」がないことにある。
人間は、知識を得る過程の中で、可能性をどんどん失って知性を作っている。だが、その知性が最後まで達すると、未知がなくなってしまい、もし狂って馬鹿になった時に、知性が復活できなくなる。
それは、人間の持つ意味が「知性」であると誤解していることに起因している。
本当は、人間の持つ意味は知性ではない。人間の持つ意味は、今のこの世界が変えられる、という意味での「可能性」なのだ。
だから、知性を一つずつ、可能性に戻していきなさい。そのことによって、人生と世界に意味が生まれる。今の自分を変えていけるようになる。そのために必要なのは、知性を可能性に戻すことだ。
精神病の原因は全て、知性を高めすぎて知識を得て、最終的に全ての知識を知って知性が消えることに起因する。だが、それは本当は正常な人生のプロセスであって、普通、治らない。
だが、知識を全て可能性に戻すことで、逆に、「未知の可能性」を知ることができる。知を知るのではなく、未知を知ることができる。ソクラテス無知の知のような命題だが、それが正しい精神病の治し方である。
知を知るのではなく、未知を知りなさい。そこに答えの扉はきっとあるだろう。
昔の僕は、未知を捉える方法を知だと誤解していた。おかしな人間は、そういう人間が多い。経験から未知を捉えることを知だと考え、その経験的な説明を科学的手法だと考えていた。それも悪くは無いが、それはある意味、知性と知識を混同している。知識は必要ないし、知性も必要ない。必要なのは、可能性、それだけだ。
ネットで社会経験を積み、知性を捉えること。だが、それは本当は可能性の限界を少なくしているだけだ。本当に精神のことを治したいなら、可能性の限界を大きくしなければならない。それは、キリスト教の神を信じれば救われるだろう。
本当は、馬鹿が賢いこともある。実験を一切しなくても、考えるだけで分かる人間は多い。だが、試すことを恐れないこと。特に、行動はしなくて良い。執筆の中で色んなことをするように、実験のようなことも、自分の活動の中ですれば良い。

人格を少しだけ破壊する

認知症、知的障害、統合失調症のような、頭が狂って馬鹿になる症状は、僕は「人格がおかしいこと」に起因していると思う。
一度人格が崩壊すると、辛い学習が治らなくなる。あらゆる全ての学習をしながら、完全なロボットの機械的な脳になって、神のような存在に思考を抜き取られるようになる。
それを治すためには、一度、人格をまた破壊するしかない。だが、それをすると、同じになってしまう。
解決策は、ある。それは、「人格を少しだけ破壊すること」だ。
人格を少しだけ破壊することで、辛い部分だけが無くなる。それによって、人格は正常になる。
特に、僕の場合、機械的に動く部分が悪いように見えて、それは本当は悪くない。本当は、自分の手で精神をしっかり掴んで離さない部分が悪い。
精神を掴んでコントロールする部分を殺すだけで、大分楽になる。それによって、きっと精神病も知的障害も認知症も、何でも治ると思う。

精神を良く考えて残し、消す

精神がおかしくなっているのは、精神を良く考えて残し、良く考えて消すようにすれば治る。
単純に、全ての精神を消しても、精神は消えない。もっと精神の残し方、消し方を、複雑化すれば、すぐに正常な精神になる。

狂った人間が何を間違えているか

2018-05-28より。
自分が何かを悲しんで怖がっているのは、赤ちゃん時代が悪い。親が、自分のことを好きになれなかった。虐待ではないが、そういう理由で昔から親が嫌いだ。
疲れるのは、いつも最大限頑張っているからだ。周りの人間を信頼しないのが悪い。もっと、信頼して、楽にすれば良い。それだけで休めるようになる。一瞬も安らげない人間は、何をしても楽にならない。
引き篭もりになったのは、学校から逃げ出したかっただけで、本当はいじめなんか受けていない。いじめではないのにいじめを怖がって、相手のことを信頼しなくなった。頑張る自分が嫌いで、親とも離れて自分だけのことをしたかった。だから、本当はいじめよりも家が悪い。そして、ネットとゲームが悪い。
狂った人間に特徴的なのは、確固たる意志を持っていないかのように見えて、本当は自分自身の自由な意志に負けないぐらいの批判的な精神を持って、今自分がやっていることを確固たる意志でやっている。
だから、狂った人間は、「そんなことよりも、もっときちんとしなきゃいけない」と思うことでは治らない。「そんなことはしなくて良い、最初から辛いことなど何もしなくて良いのだ」と言わなければ治らないのだ。
ただ、本当はそれもそれで正しくない。狂った人間は、何も出来ないから、何もしなくて良いと思い込んでいる。本当は、すべきことやしなければならないことはたくさんある。全てが終わった世界で何もしない人間は狂う。狂った人間は、そこが分からない人間が多い。狂った人間は、すべきでもないし、すべきでないわけでもない。もっと、自由になれば良いように見えて、自由も間違っている。自由とは、何も考えず選択することであって、何も考えずに選択した結果、狂った人間はそこにある。
すべきだと思うこと、しなければらないことが一向に出来ないまま時間が流れ去ることによって、狂った人間はさらに焦らされる。自分はもっとすべきことがある。だが、そのすべきだと思っていることも間違っている。一般の学校や大人が考える「すべきだと思っている洗脳」は、ほとんどが全く間違っていて、考え方そのものがおかしい。そのことによって、狂った人間はさらに狂う。この世界の全ての常識が間違っていて、自分は正しいことに気がついているのにそのことを周りに話せていないのだ、相談出来ないのだと勘違いする。それが、さらに自分の勘違いを増幅させていく。
あまり意味がないが、周りに迷惑をかけないことしかすることは出来ない。そもそも周りの人間たちも何も分かっていない。そのことが、さらに周りのことを信用させなくなるのだ。解決は難しい。だが、治らない精神病など存在しない。今、自分が頑張っていることを頑張っていれば良い。コミュニケーションが出来ない人間は、ありのまま生きて、迷惑をかけながらもひっそりと生活するしかない。
宇宙には神と悪魔が居るが、本当はどちらも神だと言った方が良い。なぜなら、悪魔は神のことを悪魔だと思い、悪魔のことを神だと思っているからであり、どちらが神でどちらが悪魔だとは一概には言えないからだ。
僕は、もう全て治ったせいで、精神が死んでいる。何も食べなくなっても、生きられるようになる。そういう、死んで生きているものは、賢い。宇宙には、生きていないように見えるものが多いが、それは何もしなくても存在できるものはその方が賢いからであって、生き物のように物質的吸収を生きるために必要とするものよりは、何もしない物質や精神だけの天使の方が、地球よりも賢い存在だから、宇宙はそのようになっている。
本当は、考えない方が良い。こういう精神病は、過去におかしく考えた人間が多い。考えれば考えるほど、人間は狂って現実のことが見えなくなってしまう。考えるのをやめ、現実をただありのままに見ようとせよ。この現実が全てだ。そうすれば、精神病はいくらか楽になるであろう。

頭の中のロボット人間を治す

2018-05-29より。
新しく分かったこととして、頭は時計のロボットだけではなく、計算をやっている。その計算とは、「3ならば9、5ならば2、4ならば6といったように、何かの数字に対して何かの数字を導き出し、それを書き換えて組み立て直すことで、永遠に時計の針を計算し続ける」というものだ。これと並行して、1,2,3の3つの数字をやっている。だが、ここには欠陥が存在する。それは、3の次は1に戻ることで繰り返す、ということであり、本当は3の次は1になるべきではなく、4になるべきなのだ。きちんと、流れるように、違う時間を経験しなければ意味がない。そこを直すと、もう脳が狂っているのは治る。
これが分かったのは、僕は最近「夢の内容を覚えている」からだ。眠っている時に、適当なそういう賢い夢を見る。最近のそれで分かったのは、「夢では大冒険しているだけではなく、普通の生活もしている」ということだ。特に、パソコンやIT技術をふんだんに使った未来のヨーロッパの大学宿舎のような生活をしている。そこでは、僕がこの地球という場所で経験したのと、同じ友人たちが現れる。だが、本当は、それは同じ友人、といっても、この世界の友人ではない。夢の世界の友人だ。僕は、夢の世界に居る友人の方が、現実世界の友人よりも、本当の友人だと思う。そして、この世界にあるWindowsLinuxよりも、夢の世界にあるWindowsLinuxの方が、本当のパソコンだと思う。それはなぜなら、夢を見ていると明らかに、夢の方が大切で重要な世界だからだ。この宇宙は、ただ地獄を永遠に治し続けているだけで、あまり意味がないし、出来ることなど何もない。夢の世界でも小説を書いているし、友人と楽しい食事もしているし、さまざまな他の家や地域に行ったりもする。現実ではないにしろ、本当の意味ある存在が存在する世界は、僕は現実世界よりも夢の世界だと思う。夢で映画も作っているし、プログラミングもしている。演劇のようなことも、スポーツのようなことも、夢でしかしていない。忘れたように見える友人たちは、夢の世界でいつも僕を励ましてくれている。父親も母親も、若くて元気なままだ。天国とは、そういう世界のことを言うのだろう。

これが私であると言えるような私になる

僕は、精神病というのは、「これが私であると言えるようなあなたになること」で治ると思う。
精神病の患者というのは、自分がこのような自分である、ということを拒んでいる、あるいは逃げている人間が多い。自信を持って自分がこうである、と言えない。もっと昔、賢かったころの自分のことを自分だと思っていて、今の自分を受け入れられない。だから、人格の統合が出来なくなっている。
誰もが、自分から逃げ出すことはできない。「自分のなりたい自分」を明確に考え、「これが私である」と言えるようになれば、精神病は治る。

人間は変わらない(方が良い)

人間は、一度努力のカタチが出来てしまうと、なかなか変わらない。もう、そのやり方でしか出来ないようになってしまっている。
だから、今まで頑張ってきたことをやめて、別のことを頑張ろうとすると、何も出来なくなって狂うようになる。それが、精神病や神経の病気を生み出す。
本当は、その人の頑張っていることを別の形で出せるようになれば良い。それを悪い方向に向けるのではなく、良い方向に向けることで、精神病は治る。

精神病の共通原因は虫歯

ただ、ある意味、精神の問題だけでは治らないこともある。僕の場合、虫歯が悪かった。虫歯を抜くと、すぐに疲れなくなり、楽になった。
みんなも、虫歯は抜いた方が良い。虫歯は最も危険な病気だ。
全ての病気を治したあとで、唯一残る不快な病気は虫歯だ。他の病気は、切除すれば楽になる。虫歯は上に被せても、いつまでも自分のことを襲い続ける。

常にきちんと考えきちんと行動する必要はない

学校教育で、私たちは「常にきちんと考えなさい」「常にきちんと行動しなさい」と教えられるため、どんな場合や状況であっても、きちんと考えて理解した上で、正しく行動しなければならないのだと、僕たちは思い込んでいます。
ですが、早急の問題があった時に、必要なのは常にきちんと考えることでも行動することでもなく、「その目の前の問題を解決すること」です。
これは、精神がおかしくなった人間だけではなく、英語やパソコンの学習についても言えます。常にきちんとした勉強や理解をする必要はありません。習得できるのであれば、そうした「きちんとした呪縛」から外れることをしても、その方が正解であることは、特に英語などの学習では、良くあります。
常にきちんと行動していると、「きちんと行動しない方が良いのにきちんと行動してしまう」という心の病気になってしまいます。常にきちんとする、という学校の教えられる制限を少し解除したところに、本当に正しい行動の仕方は生まれます。

簡単な説明

心理学