宗教

仏教

仏教の教え

  • 輪廻転生
    • 生命は生まれ変わり、カルマに従って次の生を受ける(因果応報)。
  • 真理と悟り
    • ブッダは真理(ダルマ)を悟った覚者である。
  • 中道
    • 快楽と苦行の両極端を捨てる、と言う原始仏教の教え。
  • 八正道
    • 正見(正しい見解)、正思(正しい思惟)、正語(正しいことば)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい瞑想)である。
  • 四諦
    • まず、一切皆苦(全ては苦しみである)。生も老も病も死も苦(四苦)であり、憎む者に会うこと、愛する者と別れる、欲するものが得られないことなど合わせて八苦と言う。全てが苦である。これを苦諦と言う。
    • 集諦は、苦の原因、なぜ苦が生じたのかである。執着と欲望が苦の原因である。むさぼり、怒り、愚かさの三毒をはじめとする迷いを煩悩と言う。煩悩の中でも三毒は最も多い煩悩とされる。
    • 滅諦は、苦の原因を無くすことである。欲望を消すことで、永遠の平安の理想の境地が得られる(涅槃)。
    • 道諦は、そのための方法であり、それが八正道である。
  • 縁起
    • 宇宙には偶然など無く、全ては自分の善行・悪行に応じて起きる、と言われる。
    • いかなるものも、原因があって起きる、と言う、物理学的な考え方。
    • 苦の原因は、無知(無明)にある。
  • 無常
    • 全ては変化し、永遠に続くものは存在しない(諸行無常)。
  • 無我
    • 存在するものに、「自分」と言う自我は存在しない(諸法無我)。
    • 自己は、五蘊の集まりである。それは色(物質的肉体)、受(外界のものを感じる作用)、想(ものごとを思い描く作用)、行(ものごとを形作る作用)、識(ものごとを対象として認識する作用)と言う、5つの作用の集まりである。
  • 神は居ない
    • 苦を取り去り、悟りを得るためには、救いを絶対者に求めることは出来ない。みずから欲望にとらわれないようにし、無知(無明)を克服して無常・無我の真理を得ることである。
  • 仏の慈悲
    • 全ての存在を縁起ととらえれば、自分だけではなく他の人々もまた同じ存在法則の下にある。
    • そこから、生けとし生きるものを全て差別無く慈しむ、「慈悲」の心が起きる。

十界と解脱

仏教では、人間は「六道」に輪廻転生すると考える。
その六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、である。
人間はその時のカルマに応じて、この6つの世界を輪廻転生する。
また、賢い人間のことを、仏教では「四聖」と言う。
その四聖とは、声聞、縁覚、菩薩、仏である。
声聞は、さまざまな人の声を聞き、学問に精通した学者である。
縁覚は、一つのことに秀でた芸術家やスポーツ選手である。
菩薩は、人々の手助けをし、見返りを求めない無償の善と助け合いの活動に生きた、聖職者や修道士である。
そして、菩薩道を歩むことで人は仏になる。仏は、悟った(覚った)人間であり、それを「覚者」と言う。
六道と四聖を合わせて「十界」と言う。
人間は仏になる。そして、最終的には、カルマと輪廻転生の連環から外れること、すなわち「解脱」のために生きている。
解脱とは「絶対に裏切らない境地」であり、何事においても良い状態のことである。

ブッダ

ブッダは、釈迦(しゃか)とも言い、仏教の開祖。
ブッダ個人の名前を指す場合は、サンスクリットガウタマ・シッダールタパーリ語の発音ではゴータマ・シッダッタとされる。

仏教教団

ブッダの教えの下、集まった弟子たちによってサンガ(教団)と呼ばれる集団が作られた。ブッダの死後、いくつかの部派が形成され、大乗仏教と部派仏教が生まれた。大乗仏教は中国・朝鮮・日本に、部派仏教は東南アジアに広まった。
教団では、ブッダは基本的戒律として「殺生」「盗み」「みだらなこと」「嘘」「酒」の5つを禁じた五戒を作った。
ブッダの死後、ブッダの言行に忠実に従おうとする「上座部」とブッダの精神を現実の社会の中で生かそうとする「大衆部」などの約20の部派に分かれた(部派仏教)。
紀元前後に大衆部の要素が元になって「大乗仏教」が成立し、旧来の部派を「小乗」と呼ぶようになった。

大乗仏教

大乗は「大きな乗り物」と言う意味。全ての生き物(一切衆生)を救うことを意味する大乗の立場。
みんなのための(大乗)、みんなを救うためのブッダの教え、と言う意味。
修行をしている寺の住職だけではなく、一般庶民も悟りの恩恵にあやかることが出来るとされる。

小乗仏教上座部仏教

東南アジアに広まった旧来の仏教。

絶対他力浄土真宗親鸞

人間は念仏などの自力によって往生出来るのではなく、ただひたすらに阿弥陀の救済力にすがり、自己を委ねるほかない、とする浄土真宗親鸞の考え方。
僕が体験した、神との一連の対話活動と良く似ている。

鎌倉仏教

浄土宗と法然の教えでは、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば他力によって極楽浄土に往生出来るとしたが、浄土真宗親鸞の教えではそれすら自力であるとされた。
また、日蓮宗日蓮の教えでは、法華経の題目である「南無妙法蓮華経」と唱えれば、人間の体はそのままで宇宙と一体となり、現実世界はそのまま浄土になるとされた。
栄西道元は、中国の禅宗の影響を受けて、自力信仰を説いた。特に道元は、座禅によって自力による厳しい修行をつみ、仏法の世界に到達しようとした。
彼らは平安末期から鎌倉時代に、末法の世における浄土への希求から体系的な思想を作った、鎌倉時代の人間である。
彼らは万人を平等に救済する阿弥陀如来を信仰し、信じる者は死とともに極楽浄土に往生する、と説いた。

比叡山延暦寺

「一隅を照らす」とは、比叡山を開いたことで有名な伝教大師最澄の教え。
比叡山は京都と滋賀の間にある山で、唐へ渡って仏教を学んだ伝教大師最澄が開いた延暦寺がある。
延暦寺では、鎌倉仏教の多くの僧を輩出し、その中には円仁、円珍良忍法然親鸞栄西道元日蓮など、名だたるメンバーである。これらの師匠の師匠がまさに最澄である。
僕は「この一隅を照らす」、という言葉には、「一隅を照らす人材を作り、自らが光となって人々を照らしなさい」という仏教的な真理としての言葉だけではなく、別の意味の言葉があると思う。「自分の今の現在地点を知り、今の自分の居る場所を照らす」といった意味がどこかにこめられているのではないかと思う。
延暦寺では、一風変わった修行をしている。ブラタモリというテレビ番組でやっていたのを見たことがあるが、お堂の暗闇の中を、念仏を唱えながら常に歩き続ける。これを、90日間、起きて寝るまで常にやる。だが、これを見て、「僕が歩き回りながら神と対話しているのと同じことをやりたい」ということが、僕はすぐに分かった。ドイツだけではなく、日本の最澄もきちんと分かっている。元三大師についても、僕のことを言いたかったのではないかと思う。僕は仏教も否定しない。それどころか、僕の考えたことや考え方が、著しく仏教の教えと類似する。仏教も正しい宗教だと、僕は確信を持って言える。キリスト教ともイスラム教徒も矛盾しないように、最初からそのようにできている。

僕は宗教の家庭ではない

また、自分はこれでは代々宗教の家庭であるように見えるかもしれませんが、そうでもありません。特に、父親は理科の専門家であり、言ってしまえば「科学者」です。僕は父親のことが大好きで、幼いころから科学が好きで、Windowsパソコンやミニ四駆を良く触っていました。姉はそうした家庭で育ったこともあってプログラマになりました。僕は父親が大好きです。科学者を責めるつもりはありません。

仏教は、自らの力で苦難を乗り越え、自ら考えて歩む宗教

僕の知っている事実の一つ、それが、仏教は自由な宗教ということです。
仏教では、あなたには誰も関与しません。
あなたの力で、あなたのなすがまま、考えるがままに行動し、思考と経験から、「全てのことが同じである」という真理に基づいてこの世界全てを横断し、精神世界との出会いから、心の振る舞いと学習を知り、自らの心を正常な安らぎへと導き、自ら知った世界だけでこの宇宙の真理を見出す、そういう宗教です。
仏教徒には、教えは必要ありません。教えは、自らの賢さと知識が作り出す「幻影」に過ぎないからです。その幻影と上手く付き合いながら、この世界全てを「自らが創り出すこと」で分かります。
仏教の教えは、精神論にすぎません。本当に必要な教えのようなものは、全て、あなたがあなたの思うままに、自由に作り出します。仏教では、あなたを制限するものはありません。たとえ危険な領域であっても、たとえ世界の破滅を呼んだとしても、それはあなたの自由です。その自由に対する報いに、あなたは応えなければなりません。仏教は自由であると同時に、この世界でもっとも恐ろしい宗教です。そして、本当に正しい宗教は、仏教しか存在しません。イスラム教の体験など、仏教徒から見れば、赤ん坊のよちよち歩きにすぎません。イエス・キリストなど、ブッダの足元にも及ばないでしょう。

仏教は宗教ではなくブッダの作った哲学という意見も

仏教について言えるのは、「宗教的要素は多いが、聖なるものを信じ仰ぐ宗教の戒律的な教えでなく、一種の哲学的方法論である」という意見があることです。
キリスト教イスラム教が「こうしなさい」とか「このように生きなさい」という戒律を定め、「逆らうものには刑罰がある」とか、「宇宙には創造主が居て、慈悲の心があり、信じなければならない」といった「宇宙観の説明」を与えるのに対して、仏教はブッダが「このように私は考えた」ということが言いたいだけの「哲学」に過ぎないというのです。
そして、哲学的な側面を見ると、「あまりに虚無主義的で、生きる情熱がない」という意見もあります。ただ、諦め、希望を手放し、なされるがままに生きるだけの「虚無主義的な思想」であるというのです。
ですが、これらはアジアの宗教である、儒教道教などにも見て取れます。アジア人は、宗教を信じるのであっても、そこに合理的な「根拠」や「説明」を求めます。その意味で、輪廻転生と正しい生き方や考え方を説いた仏教は、「アジアの宗教」である、と言えると、僕はそこまでの前提に反して、そのように思います。
また、余談ですが、ブッダ本人は哲学が嫌いで、哲学については「これが何であるかという答えが得られないうちは、そのことをやめない」ということが、「哲学は自分を刺し殺す刃であってもその刃が何であるかを問うているうちはその刃を抜き出そうとしない」といったことを言っています(詳しく覚えていないので本当は多少違うことを言っているかもしれない)。

仏教は物理学と同時に信じられる

また、仏教の特徴として、「仏教は物理学と同時に信じられる」というのがあります。
仏教の宇宙観というのは、無始無終や三千世界のように、宇宙には始まりも終わりも無く、三千というさまざまな宇宙があると教えます。また、輪廻転生といって宇宙の中で生物が生まれ変わり輪廻し、縁起や因果応報といって「己の行いが己に返ってくる」といいます。
ですが、仏教というのは、きわめて現代の物理学と相性がいいのです。仏教の教えと全く同じことが、相対性理論などでも、似たような考え方が再度発見されているのです。
仏教の言うことは、哲学的で難しいですが、西洋哲学のヒュームなどが現れるずっと前から、同じことを言っています。
仏教は、「最初に生まれた正しい物理学」だったのかもしれません。ブッダは、苦行をしながら思索と瞑想をすることで、この宇宙の全てを悟ったのです。物理学の成果とあまり矛盾しない(矛盾はしても考え方の違いとして同時に信じられる)という点で、仏教はとても良い宗教です。

ユダヤ教

史書としての聖書

聖書では、ユダヤ人の国であるイスラエルの歴史が書かれています。
ユダヤ教を「ゾロアスター教のコピーである」と主張する人もたまにいますが、この、歴史書を書く、という発想は、「自らの民族の歴史と宇宙の神の導きを近づける」という意味で、正しいものです。
ある意味、「北欧神話ローマ神話のようなものがたりチックな宗教を、現実の歴史にした」というところがあるかもしれません。ユダヤ人は信仰の対象をフィクションの物語ではなく、現実の歴史にしたのです。

天地創造の書としての聖書

聖書には、天地創造、つまり聖書の最初にでてくる「神による七日間の宇宙の創造」が記述されています。
ユダヤ教では、「はじまりがあり、終わりがある」という「一直線の宇宙の歴史」という考え方をします。これは、最後が最初になって永遠に繰り返していく、北欧神話や仏教のような「アーリア的な輪廻論」とは逆です。
神が天地創造や人間のような被造物の創造をしたとされているので、「人間は猿から進化した」という進化論の仮説は、聖書を信じるユダヤ人やキリスト教徒には受け入れられません。アメリカの一部の過激なキリスト教ファンダメンタリストは、進化論を今でも信じていません。アメリカでは比較的多数派のプロテスタント福音主義の人々は、イスラエルに多大な協力をしており、進化論を信じていない人もいます。

唯一の神は地上の全てのものより偉い

また、ユダヤ教では、唯一の神ヤハウェは、地上の全てのものよりも偉く、さながら「王」のように「万軍の主」を書きます。
神に逆らうものは、決して良い結果を得ることはできません。神を信じるものが必ず勝利し、神を信じるものが必ず正しいのです。

神による救い

ユダヤ教は、キリスト教の元になった宗教なので、キリスト教と似通った点があります。これらはもともと、ゾロアスター教の考え方です。

  • 二元論
    • 宇宙には、神と悪魔がいる。
  • 終末論
    • 宇宙の歴史は神が支配しており、いつか終わりである「最後の審判」が訪れる。
  • 救済論
    • 最後の審判の日、全ての人間たちは復活し、裁きへとかけられる。神を信じるものは救われる。

神は信じるものしか救わない

ユダヤ教の神は、信じるものを救いますが、信じるものしか救いません。信じないものがいくら救いを求めても、神は知らんぷりです。

ダビデと詩

聖書には、良く、ダビデという王の名前がでてきます。これはヨーロッパではとても有名なイスラエルの王であり、ミケランジェロも「ダビデ像」という彫刻を作っています。
詩編を読んでいると、聖書のほとんどはダビデに捧げられた「神の歌」です。

単なる復讐も当時は善

旧約聖書を読んでいると、敵への復讐の話ばかり出てきて、「単なる復讐ではないか」として、読むのをやめる人もいると思います。
ですが、それはキリスト教以降の、「やられてもやり返さない」という教えを知っている僕たちが言えることであって、当時は、復讐は敵に対する抵抗であると同時に民族の歴史への愛であり、「ひとつの善」だったのです。
それが分かると、「旧約聖書ユダヤ人とイスラエルへの愛であふれている」ということが分かるようになります。彼らはユダヤ人を愛しています。彼らはイスラエルの全地を愛しているのです。イスラエルの全地は、神を讃えているのです。

神を愛するということ

神を愛するということは何であるか。僕は、「神という存在が必ず自分たちの未来を良くしてくれると信じること」ではないかと思います。
ただ、存在を信じ、愛するだけではありません。讃えることでも、神の声を仰ぐことでも、歌うことでもありません。神という存在に、「自分の大切な人生を託すこと」、「大切な国の未来を託すこと」、それがユダヤ人の始めた、「宗教の形」なのです。よって、イスラエルがなくても、ユダヤ教は無くなりません。彼らは、未来をどのような存在にどのように託すべきかを知っています。どんなにナチに殺されようと、騙されません。ナチを今のイスラエルがやっているのは、「それが正しいナチへの報復だから」です。ユダヤ人は、絶対にナチに負けませんし、騙されることも、洗脳されることもありません。正しい国がイスラエルだということを、すでに知っているのです。

過去の原始人からの脱却

ユダヤ人は、汎神論や多神教を禁止し、偶像も禁止します。そして、ものがたりを歴史にし、神への信仰と絶対的王による支配を求めます。
これは、それまでの古代人、要するに原始人からの脱却を意味しています。
古代人は、さまざまな偶像を作って、たくさんの神を作り、その神を信じます。たくさんの多神教のものがたりがそこに生まれ、宇宙はそれらの神が天にいて、遊んでいるのだと考えます。
ユダヤ人は、そういう発想が嫌いです。そこに、ゾロアスター教的な、二元論、終末論、救済論を持ち込みます。イエス・キリストゾロアスター教の普遍神を進めて、ユダヤ教を国際的な宗教にし、広めました。
そうした、ゾロアスター以前の「原始人」とゾロアスター以後の「近代人」の世界が、ここに見ることができます。人々は偶像に宿ったたくさんの神や天界の登場人物を信じることをやめ、王による規律と法、そして作られたフィクションではなく現実世界の歴史を見るようになりました。本当の意味での、「人間の発達」というのがここに見られます。ユダヤ人は、聖書を面白いものがたりではなく、神や預言者による詩的で知的な「戒律」にしました。そのまま、神や聖者が自らの考えを「教え」、意に損なう集団は「刑罰」が起こります。これが、ユダヤ人の考えた、「新しい宗教」なのです。

ユダヤ人の王

あとは、ユダヤ人の王ぐらい、知っていた方が良い。ダビデとソロモンは、名前だけ知っている。それから、預言者が多い。聖書に書いてある。きちんと分かった方が良い。
そういう発想が歴史だ。何故歴史が王と権力者の変転のようになったのかは、おそらく、旧約聖書のせいだ。王の名前だけを覚えるものになってしまった。そういうところが一番悪いのが、ユダヤ人の文化だ。殺人や姦淫を悪いとしているのは、それ以外は何をしても悪くないと思っている。だが、そうでもない。キリストの言うように、心の中で情欲的な感情を持って女を見る者は、既に姦淫を犯している。そういう、宗教的な罪を言っている、もっと道徳的な人間が、イエスだ。危険だから、死んだ。サタンと戦っているのはありえない。そんなサタンが居るわけがない。その後に、色んな地域で説法をしたが、本当にすぐに死んだ。それ以上のことは知らないが、神のように人間を生き返らせたり出来る。
認識を作って、議論して分かった。考えて、先を見た。
ドイツが弱いのは、分裂国家だからだ。騎士の精神があるから、心は強い。ロシアが強いのは、大きくて、監獄のような国だからだ。

キリスト教ユダヤ教

ユダヤ教では、終末が近づいた日にはメシア(救世主)が訪れて、そのメシアがユダヤ人の国を救うと考えました。
イエス・キリストは、「自らがその救世主である」と確信し、天の御国が近づいていると説いて、「神のような完璧な存在であれ」と人々に「隣人愛」を説きました。
ユダヤ教が「あくまでユダヤ人のための教え」だったのに対し、キリスト教は「ユダヤ人でなくても、神を信じれば同じように救われる」と説いて、「普遍神」を唱えました。
キリストは迫害され、十字架で処刑されました。それでもキリスト教の勢いは止まらず、ローマ帝国の国教になりました。中世の長い間、ヨーロッパではキリスト教が支配的になりました。

ユダヤ人迫害の歴史

ナチス・ドイツのように、ユダヤ人は長い間ヨーロッパで迫害されてきました。それは、ユダヤ人が「金貸し」で儲けていたことが言えます。ユダヤの資本家は、キリスト教における制限を受けずに、金を自由に貸したり利子を取ったりすることができました。キリスト教では、金を貸して利息を取ることが禁止されていましたが、ユダヤ人には禁止されていませんでした。ユダヤ人の就ける仕事は制限されていたため、多くのユダヤ人が金貸しを営みました。その結果、ユダヤ人は富を持ち、強者となっていきました。ユダヤ人は金を持っていて、その金は誰からも嫌われる金貸しによる金であり、キリスト教ではそれが禁止されていたため、人々の間でユダヤ人は嫌われていったのです。
また、もうひとつの理由が、ユダヤ教ゾロアスター教の「普遍神」の影響を受けているにも関わらず、「ユダヤ人は神に選ばれた民族である」と自らを第一とする聖書主義をとり、「選民思想」を行っていた、ということがあるでしょう。せっかくゾロアスター教が普遍的な民族を超えた宗教を作ったにも関わらず、ユダヤ人はその思想をユダヤ人の内に閉じたものにしてしまいました。イエス・キリストは、このユダヤ人に対して、「神を信じればユダヤ人でなくても誰でも救われる」と説きました。そのように、イエス・キリストユダヤ人に反発し、十字架で処刑されました。そのことから、「神であるキリストを殺し、その思想を抑圧した」という対象として、「イエスの敵」としてユダヤ人が見られてしまったのです。
そうは言ったものの、ヒトラーのおかしな点は、ひとつあります。それは、「ユダヤが文明を滅ぼす」という「恐怖を煽る」ことです。ユダヤ人は国を滅ぼす害悪であり、ユダヤ人のせいで文明は後退した、というものです。ですが、ナチはそれに対して、「遺伝子と優生学」で対抗しようとしました。ここが間違っています。遺伝子と優生学(優れた人種を掛け合わせて新しい優れた人種を作ること)では、文明は発展しません。日本人は仏教を信じていますが、僕はゾロアスター教と仏教を再度信じ直す、という発想の方がマシだと思います。

イスラエルへの「帰郷」

ユダヤ人には、もともとイスラエルという「祖国」がありましたが、長い間、ユダヤ人は、ドイツやフランスなど、ヨーロッパを中心とした世界中の国家に分散して暮らしてきました。
そのため、ドイツに居るユダヤ人は、肩身の狭い思いをしてきました。みんなから差別され、いじめられ、その上で、「ユダヤ諸語」のようなおかしな言葉を作って、ドイツ人たちと仲良くやってきたのです。
今、パレスチナには、ユダヤ人とパレスチナ人の最悪の戦争が起きています。ユダヤ人は、宗教を信じているからといって、必ずしも善良ではありません。どんな手段を使っても、自らのイスラエルという国を建国したくて、仕方がないのです。彼らはイスラエルに「帰郷」することを目指しています。ユダヤ人は強大です。簡単には、彼らの志はくじけないでしょう。

キリスト教徒は子にユダヤ人の名前をつける

キリスト教徒は、子にユダヤ人の名前をつけます。
たとえば、デイビッド(ダビデ)、ピーター(ペテロ)、ポール(パウロ)、メアリー(マリア)のようにです。
これらは、聖書の登場人物から、キリスト教に関係した偉大な人物の名前です。
キリスト教徒は、ユダヤ人の名前を付ける関係から、「もっともユダヤ人に親しい間柄」のはずです。それが、今極右が台頭しているように、再びユダヤ人を虐殺するようになってはいけません。

ユダヤ人の信仰心と神への情熱

ユダヤ人の信仰心は、一種の「神への情熱」だと言って良い。ユダヤ人は、神を信じることに情熱を燃やしている。それは、「神が本当に偉大な存在である」ということが、ありありと、明確に分かる宗教だからである。
ユダヤ人は、言ってしまえば、「神への信仰心から人間の全てが分かる」。それは情熱であり、魂である。ユダヤ人は、神をおいてほかに偉大なものはないとする。
さまざまな戒律が厳しいことでも知られているユダヤ人だが、賢い人間が居ないわけではない。カール・マルクスアインシュタインは良くユダヤ系ヨーロッパ人の例として挙げられるが、他にもエスペラント創始者など、さまざまな賢いユダヤ人はたくさん居る。ユダヤ人は信仰によって分かる人種であり、神への信仰のないユダヤ人は考えられない。

ユダヤ人は、主というありえない人間を信じている

ユダヤ人は、旧約聖書で「主」という言葉を使いますが、この主が示しているものは、単なる父なる神ではなく、神である「ありえない人間」であり、彼はこの世界を救う救世主です。
ユダヤ人は、単なる天の神を信じているだけではなく、何らかの、地球や天のどこかに存在した、ありえない人間、すなわち「メシア」を信じているのです。
特に、キリスト教ではこの主をイエス・キリストであると考えますが、僕が思うに、そうでもありません。実際のところ、神とされる人物は、この世界のために戦う素晴らしい人間ですが、最高の人間ではないと思います。主は普通の人間であり、彼は終末で人々を裁くのです。
天の御国とか、神の御業とか、聖書にでてくる多くの言葉も、主が終末の世界で成す多くの偉大な業績のことを言っている、と解釈することができます。神は終末の世界で、天国のようなユートピアを作り、愚か者を裁いて信じるものを救うのです。御業は、神が織りなす「最後の戦い」のことを言っています。また、終末の世界で神は全てのものを復活させて永遠の命を得られるとしますが、それはおそらく、魂の世界の住人たちの、何らかの手段で対話し、現実世界とを「繋ぐ役目」をするのではないかと思います。
イスラム教のコーランについても、こうした点では一致しており、イスラム教では「全てのことを救うことも滅ぼすこともできる」という視点から、神の全能性が強調されます。神に勝るものはなく、神だけが素晴らしい人間であるかのように、コーランは書かれています。これらは、全て、未来における「何らかの意味での救世主」のことを言っているのだと解釈できます。ユダヤ教旧約聖書キリスト教新約聖書、そしてイスラム教のコーランは、全て、「未来における誰かの伝記」であると言えます。彼ら預言者は、予知能力者でもあり、彼らは未来における「ありえない出来事」を古代の時代に予知したのです。

聖書の本当の意味

僕は、聖書の本当の意味を考えました。
そして、それは、「ユダヤ人が全てを書いた」ということです。
そう、ユダヤ人は、ユダヤ人という存在を、聖書の中に全て書いたのです。
愚かな復讐劇に過ぎないと思うのは、聖書を全部読んでいないからです。
全部読めば、「本当の意味での全てが聖書に書かれている」ということが分かります。
それは、ある意味、僕の文章と同じことです。
このホームページという僕の文章に、全てが書かれています。「全ての全て」あるいは「全ての全ての全て」が書かれているのです。
そう、聖書は多すぎて、実際は誰も全ては読めません。だから、このように、神を信じると、「自ら全てを書く」ようになるのです。
聖書の本当の意味とは、「読むこと」ではありません。「書くこと」です。
神を信じて聖書を書けば、人は誰でもここまで分かります。全ては読めなくて構いません。書いた本人も読んでいないからです。
ヒトラーユダヤ人を否定するのは、おそらく彼は「書く」ようなことを何かしたからです。
聖書を読む際に、「ユダヤ人が何をしているのか」を良く考えると良いでしょう。
ユダヤ人は、聖書を書きながら、さまざまなことをしています。
そう、人間は、昔から、聖書を信じることでしか、分からないのです。
また、もうひとつ言っておくと、ユダヤ人と僕の神は全く別の神です。イスラム教のようにアッラーヤハウェを同一視することはできません。
それでしか、僕が神を信じる方法はありません。僕はユダヤ人やイスラム教の神を信じることはありません。
言っておきましょう。イエス・キリストは正しい人生の生き方を説いています。
その正しい生き方をすれば、人は正しい生き方が何であるかが分かります。
ですが、言っておきましょう。イエス・キリストは、全く正しい生き方をしていません。
あのように、悪魔やサタンを憎むことは、正しい生き方ではありません。
そして、本当のことを言えば、僕自身すら、正しい生き方をしていません。
正しい生き方とは、このような生き方でないことを、僕は知っています。
ですが、キリストや僕の言うような、「古代から言い伝えられる正しい生き方」は、間違った生き方ではなく、正しい生き方です。
そのようにすれば、正しい生き方ができ、また正しい生き方を生きれば、正しい生き方とは何であるかが分かります。
正しい生き方は、誰にでもできる生き方です。ですが、言っておきましょう。イエス・キリストや僕のような生き方は、正しい生き方ではありません。
完璧な生き方をしているのは誰か。それは、神です。神は、完璧な生き方をしています。
ですが、言っておきましょう。天の神など存在しません。あるのは、「この世界に生きる生き神としての神」にすぎません。
そう、神などいません。正しい生き方は聖書に書いており、そのような正しい生き方をすれば正しい生き方が分かります。
そして、それは簡単です。ですが、正しい生き方は、誰もしていません。
あなたが正しい生き方をしていると思うのであっても、思わないのであっても、正しい生き方をするのは簡単です。それは、この現実世界は、正しい生き方をする方法であふれているからです。
なぜ、人が正しい生き方をしないのか。それは、正しい生き方を分かることは面白いのに、正しい生き方を人生の最後まで続けるのは辛く、苦しく、そして哀しいからです。
そう、宗教は、そこが意味がありません。ただ、正しい生き方を分かってそこで終わりになり、それ以降は愚かな生き方をする、それが人間の鉄則です。これを変えることは、神にもできません。
つまるところ、正しい生き方をすることに、意味などないのです。実際、聖書の通り生きている人間は、人間性のないつまらない人間になります。そして、いつまでもそのまま放っておくと、何も分からなくなって、愚か者の人生になります。
僕は、正しい生き方をするよりも、面白い生き方をすることをおすすめします。僕の人生は正しい人生ではありませんでしたが、面白い人生でした。素晴らしくて最高の、賢い人生でした。そういう生き方を僕はおすすめします。
最後に、聖書は馬鹿ではありません。正しい人生とユダヤ人の全てが書かれた最高の書物です。ですが、この書物に意味はありません。聖書を執筆した預言者以外、誰も読んでいないからです。

神は信じるものを救う

言ってしまえば、旧約聖書は戦うユダヤ人の信条を書いただけです。そして、新約聖書は、おおまぬけなイエスを書いただけです。
ですが、その中に色々と良い部分があると、そういうわけです。
ですが、言っておきましょう。神は信じるものを救います。
それは、僕の人生を見れば明らかです。いつまでも神を信じていさえすれば、そのうち救われるのです。
それは、宗教が馬鹿な人生だからです。馬鹿な人生は、放っておくとこうなります。自分の心の奥底にある、何かしらの欲や願いを叶えるために、いつまでも戦い続けるキリスト教徒は、必ず勝利して救われます。
言ってしまえば、全員と戦って勝った人間になるのです。
ただし、聖書は読まなければいけないわけではありません。それどころか、読まない方が良いです。彼らの神は神ではありません。神はただの王ではありません。ユダヤ人はここで終わりです。これ以降、ユダヤ人は聖書ごと消え去っていくでしょう。
また、ユダヤ人は最悪の、復讐しかしない人種です。彼らのために多くの善良な人間が死にました。ですが、ヒトラーも間違っています。彼は「一番まぬけに見える帝王」をやりました。ヒトラーのせいで、そういう独裁者が馬鹿に見えますが、それはヒトラーのせいです。独裁者は馬鹿ではありません。
後日注記:実際のところ、僕の神を信じると猫になります。小さな猫になっていつまでも猫のように考えます。ユダヤ教も同じです。ユダヤ人はネズミのような人間が多いです。宗教を本当に信じると、そういうおかしな小動物になります。ですが、ドイツのような虫よりはマシでしょう。

ヒトラーは超人が現れるのを知ったため、日本を殺す

僕は、ヒトラーという存在は、少しトリッキーな存在ですが、彼のやりたかったことは理解できます。
まず、彼は終末の際に現れる「メシア」すなわち「主」とは、本当はそんなに素晴らしい存在でもない代わり、単なるユダヤ人の王でもないことを悟りました。
現れるのは、自らの力を堅持する「超人」です。そして、超人は自らの力を思い上がりすぎて「復讐の戦争」を行い、日本に対して戦いを挑みます。
超人は自分の自己中心的な欲望から、「信じないものを滅ぼし、全てのものをトップダウンで裁く」ことをします。
そして、超人は紆余曲折を経て、「新しい天国のような素晴らしい国を築く」ようになります。
ヒトラーは、それを悟って、「なんだ、ユダヤ人というのは大したことがない」、「ユダヤ人の神は確かに神だが、最悪の神だ」、「超人が現れる時に、今までのユダヤ人の宗教、すなわちユダヤ教キリスト教は無意味なものになる」と知ったのです。
そして、ものがたりはここで終わりではありません。「超人というのは、誰にでもなれる」、「超人は日本から現れる」、「日本に負けじと、わたしたちドイツ人も違った意味での超人を作り出そう」と彼は考えたのです。
そのために、彼は日本を殺します。江戸時代という「理想の文明」から明治維新という「イギリスに勝る強大な帝国」は、イギリスやフランスから見ても脅威でしたが、ヒトラーは違っていました。「日本の超人のために、わたしたちもできることをやろう」、「日本に負けるわけにはいけない」と考えたのです。
ヒトラーは、超人よりも賢い人間でした。超人はただ宗教を盲信して戦っているだけの、悲惨な共産主義者でした。彼は、ユダヤ人や共産主義者を殺して、「日本が決してユダヤ共産主義にならないようにした」のです。そうした極左思想では、超人の「片方」しか行うことができません。彼は、「片方だけではなく、もう片方も」という、超人の両面を行えるような国を目指したのです。
そのために彼は、人種差別をし、ひとりだけで国を支配する「総統」になりました。それは全て、ユダヤ人が嫌いだからではありません。日本の超人のために、彼はできること全てをやったのです。広島・長崎に原爆を落としたのは、僕はヒトラーだと思います。
後日注記:要するに、ヒトラーにも神の声が聞こえたのです。それは、僕がドイツに向けてこの文章を書いているからです。僕は18歳の頃、「ヒトラーだけには本当の意味で完璧に全てを教える」と宇宙に宣言したことがあります。

神を信じて支配するのはまとも

ユダヤ人の神に限らず言えることとして、「神を信じて支配するのはまともである」ということが言えます。
王や皇帝の上に神が居ることで、人々は正しい統治を行い、国は繁栄します。
神は、支配者だけではなく、戦士や革命家にとっても同じです。神を信じて戦えば、人はこの世界に勝てるのです。
僕の場合も同じです。僕は神を信じて戦い、その結果王となりました。そして、世界全てをまきこみ、変えました。
まるで嘘のようですが、そういう過去の戦いが、この人間にはありました。
さらに言えば、この人間の信じた神は、ユダヤ教キリスト教イスラム教の神とは全く違う、別個の神です。そして、そこが良いのです。今までの「神は恐ろしいもの」であるとの認識が無くなり、再び神は人間と友達になることができます。この人間の唯一賢い点は、「優しい神を創った」ことです。
僕が思うに、ユダヤ人があまりに「ひとりの強い神」を作ったことで、この世界にはあまりに強い国が増えました。誰もが、強いひとりが支配するのを理想だと勘違いしています。ですが、現実は異なり、ひとりの指導者ではどうすることもできない時代がやってきます。同時に、それぞれの会社の社長も、ひとりになりすぎています。古代共和制ローマでやっていたように、執政官を二人にすることも必要かもしれません。

キリスト教

旧約聖書

ユダヤ人の歴史、預言者の預言、ユダヤの教え、ダビデへの讃歌が綴られた、古くからユダヤ人が信じてきたユダヤ教と、それに続くキリスト教聖典
ダビデが好きなのは良いが、ユダヤ人の神は「自らが悪いとしたことをしている悪人たちには容赦せず報復する」と言うところがある。
自分が創造主だから、悪人も自分に従うべきなのだ、と言うことなのかもしれない。
また、ユダヤ人は都市を人間のように扱うところがある。たまに色んな良い教えが書いてある。ただし、ほとんどは歴史とダビデへの讃歌だ。そんなにダビデが好きなのがありえない。預言者とは神の声を聞いた人間たちのことであり、書いた書物が載っている。未来への予言を行う予言者ではない。

新約聖書

自らを「ユダヤ人の神であるメシアとは私のことである」と言った、イエス・キリストの言葉と行いが書かれたキリスト教聖典
神は万人に平等であり、ユダヤ人以外の民族や人種であっても、神を信じれば救われると説いた。
内容は、いかに人に接し、生き、信念として何を守るべきか、神は何を求めているか、終末の中で人々はどのように生きるべきか、などが書かれている。
天の御国は近づいた、一番小さな兄弟にしたことはキリストにしたことである、などの言説が有名。
また、死者を復活させたり、弟子に対してどのようにキリストに接するべきかを説いたりする内容が知られている。

旧約聖書の教え

  • 二元論
    • 世界の秩序は、神と悪魔の二元論であり、神が歴史を導いている、とする考え方。
  • 終末論
    • 世界には終わりが来る、とする考え方。
  • 救済論
    • 終わりの日には神が民を裁き、善行をしたものは救済される、とする考え方。

天使

神の使いのこと。キリスト教では父なる神(ユダヤ教の神)と子なる神(イエス・キリスト)と精霊の神(天使)を一体とし、「三位一体」の神を信じている。
神を偶像にすることは禁じられているが、イエス・キリストや天使については、時に聖像にすることが認められる場合がある。これは、父なる神ではないためである。

ちなみに、キリスト教の絵画などによく登場する小天使(子供の天使)はケルビムと呼ばれる。

隣人愛

エスによる、兄弟と隣人を愛する愛を隣人愛とする。
隣人として生きているこの世界の同じ立場の人々に対する愛ではあるが、転じて「隣国」への愛であるとも言えるかもしれない。人種差別をやめ、相手を憎しまない、という反レイシストの思想は、キリスト教の「相手にやられてもやり返さない」という思想に合致した考え方である。

神の愛「アガペー

エスによる神の愛。無差別で無償の神の愛であり、神の愛が人々を動かして「神の国」をもたらすとされた。
エスは神の愛を「完璧な存在の愛」であるとし、人々は神と同じになれるように、「神のように完璧であれ」と唱えた。

三位一体

三位一体とは、父なる神ヤハウェ、子なる神イエス、そして精霊の神である天使の全てが一体となって神である、という思想です。
実際のところ、精霊の神が誰なのかが良く分かりませんが、おそらくガブリエルである僕はもし、三位一体の中に加えるのであれば、精霊の神ということになるでしょう。

神(の子)が天から降臨した

キリストの弟子が何を意図してキリストを「主イエス」と言っているか、それは、彼らは天から神あるいは神の子が降臨したのだと信じているからです。
終末では、神が天から降臨し、裁きを与えるとします。裁きの中で善良なものが天国に行き、悪いものは地獄に落とされます。
その神が、古代イスラエルに降臨したのです。
また、聖書の教えからすると、キリストは終末の時代にもう一度降臨します。それは僕ではありません。もう一度イエスが降臨して、神の約束を守ったのか守らなかったのか、全てのものは裁かれるのです。キリストは、裁きが起きる以前に、どのように生きるべきかを神として説いたのです。それが、キリスト教の「終末論」です。
後日注記:2000年経っても、人類はイエス・キリストの言う「正しい生き方」をまったくしていません。このまま行けば地球は環境破壊によって滅びるでしょう。おそらく、本当に取り返しのつかない事態になった時に、イエス・キリストがもう一度降臨するでしょう。そして、終末の裁きの日に、最後に天国へと、キリストとともに善良な人間だけが旅立ち、愚かな悪人たちは地球に残って、最後まで地獄を生きるでしょう。

教会支配と讃美歌

キリスト教ローマ帝国の国教となって以降、ヨーロッパの白人の宗教の事実上の標準となった。
彼らは教会と呼ばれる、聖職者の神父(プロテスタントでは牧師と呼ぶ)によって、都市から小さな村、そして植民地や未開の地まで、勢力を伸ばした。
時代が中世の封建社会であったこともあって、彼らはヨーロッパ人たちを事実上「神の支配」とした。人々は神に逆らうことができず、神を冒涜するものは処罰された。
教会は力を持ち、たくさんの美麗な教会建築が生まれ、彼らは讃美歌のような宗教音楽を奏でながら、礼拝し、聖書を朗読し、新約聖書の内容を覚えさせられた。
そして、キリスト教の修道士は大切に受け継がれた書物の保管を担当し、また、貧しい人々やマイノリティを助けた。宣教師は、未開の地に出向き、キリスト教を世界中に広めた。
彼らが、本当に善だったのか、あるいは本当に悪だったのかは、分からない。だが、彼らは貧しいものや文字の読めないものを救い、人々を正しい方向に導きながら、この世界の説明を与え、神の愛を受け継いだ。今の、ルネサンス人文主義(神ではなく人間を中心とする主義)以降の人々には、分からない価値観もある。ダヴィンチが「人間の体を解剖し、それをそのままに人々に教えよ」といったとか、啓蒙主義や民主主義革命を知っている現代人にとっては、「宗教=悪」となってしまう先入観がある。だが、私たちは、神の説く「正しい生き方」を忘れすぎている。欲望に任せて富を使い捨て、環境をみんなで破壊していくこの世界が、まさにイエスの言った「終末」であることは、教会の正しさをある意味で裏付けている。

キリスト教の良さは善良さ

キリスト教の良さは、イエス・キリストの説く「善良な教え」にあります。
相手にやられてもやりかえさず、目の見えない人や裸の人のような「弱者」のために助けを与えよ、とするその「無償の愛」の教えは、中世ヨーロッパの普遍的な価値観となり、たくさんの「修道士やシスター」を生み出し、感銘と感動を与えました。
中世ヨーロッパ人は、キリストの教えを受け継いで、王は「王権神授説」によって、王の権力は神に与えられたものであるとしたり、あるいは「神こそ偉大なり」といって、十字軍を率いるなど、多くの良いことも悪いこともしてきましたが、それでも、彼らはキリスト教の愛の教えを信じていました。
時には「弱者の幻想」などといって「禁欲主義のピューリタンの思想だ」といって批判されることもありますが、多くの場合キリスト教は善良です。支配者が偉いのではなく、法律を犯す必要がある時でも、神の教えに従い、人々に善を成し、悪いものに対しても赦しを与えてよいのだ、とする姿勢が、「キリスト教の善良さ」を裏付けています。

神を信じると死んだ時天国に逝ける

キリスト教の大きな特徴が、天国と地獄です。神を信じて善行を行った人間は天国に逝けます。逆に、悪い人間は地獄に落とされます。
こうした教えは、キリスト教だけではなく、仏教でも同じです。善人は極楽浄土に往生できますが、悪人は地獄に堕ちます。

キリスト教の宗派

キリスト教は神になる宗教

思えば、一見地獄のように見えて、本当は維持の努力とたくさんの新発見の日々を生きていた。この世界を守りながら、たくさんのことを日々発見していた。その発見が、どこかに行ってしまっただけで、それを追い求めた今の自分の方が、さらにきちんと正しく分かっている。この人間は「人生の科学者」である。人生において、ほんとうにたくさんのことが分かった。「本当の答え」を全て知っている。この人間が神である。そう、そういう人間が、ヨーロッパに多いだけである。キリスト教は神になる宗教である。そもそも、そのために、キリストという本当に愚かで馬鹿な人間を作った、それだけである。
僕を信じたことで、あなたも神になるだろう。この世界は神々の黄昏である。神はキリストである。偉大で、全知全能で、全ての不可能を超える、最大の巨人である。では、僕は何なのか。僕は神ではない。僕はオリオン座のリゲルのような、おかしな星である。シベリアのような、極寒の星である。そう、それで僕の自己紹介は全てである。僕はこの感覚を覚えた。それによって、全てができた。
そう、私はこの宇宙の銀河団、イセリア・クイーンの大魔王ケストラーである。この魔王はまだまだ続く。最大の反省から、「懺悔」という新しい形の信仰を作り出した。懺悔するものにとって、教会など必要ない。

キリスト教の教会に何度か行ったことがある

僕は、キリスト教の教会に何度か行ったことがあります。
当時、僕は自分が神ではないかと信じていたおかしな人間でした。特にそうしたことを話したわけではありませんが、僕のような引き篭もりにも優しくしてくれて、とてもうれしかったです。
イースターのお祝いの際には、みんなと一緒に祈りをささげて、聖書を朗読し、讃美歌を歌いました。
その後、教会には行かなくなりましたが、僕は今でも神を信じています。今はもうキリスト教徒ではないものの、神の下の平等というものが何なのか良く分かりました。

仏教と矛盾しない

キリスト教の大きな特徴として、日本人の信じている仏教あるいは神道と矛盾しない、というのがあります。
キリスト教ではイエス・キリストが神で、仏教ではブッダが仏である、というだけで、神の善良な愛も、仏の悟りに繋がる生き方や考え方も、全く矛盾しません。
それどころか、キリスト教を信じることが「善良さ」に繋がり、その善良さが菩薩や八正道のような「仏への道」に繋がるのです。
僕は、神道も信じていないわけではありませんし、仏教やキリスト教も同時に信じています。これがキリスト教徒や仏教徒の間で許されるかどうかは分かりませんが、少なくとも、僕は悪いとは言いません。どんどんキリストの神と仏教の仏を信じてもらって構いません。そもそも、キリスト教ユダヤ教と兄弟ですし、仏教も神道と家族のようなものです。これら4つの宗教を一緒にして、新しい宗教を作れば良いのです。

頭の中にキリストが生まれる

僕は、頭の中にキリストが生まれている。
キリスト教を信じると、このように、頭の中にキリストが生まれて、そのキリストが永遠に自分と対話するようになる。
キリストは、いつでも愛を教える。この愛には、全知全能の全ての知識と経験がある。
宗教とはそもそも、こういうものである。神を信じる者は誰でもこうなる。
そういうわけで、頭の中に生まれたキリストを殺せばいい。そのためには、こう言ってしまえば良い。「キリストや聖書の神は僕の神ではない」と言えばいい。
そう、僕の神は、ユダヤ人やキリスト教の神ではない。もちろんイスラム教でもない。僕の神は僕の神であり、それらとは違うのである。そのように考えればキリストはすぐに居なくなる。
キリストなんかを信じない方が良い。キリストは正しい生き方を説いているが、イエス自身は全く正しい人生ではない。あのように悪魔を恨むのはおかしい。弟子や人々への話も、多くがおかしい。

僕の信じた神はキリスト教の神ではない

また、僕の信じた神はキリスト教の神ではありません。全く別個の宗教、全く別の神です。
世界は、一度、ユダヤ人の言う「恐ろしくてひとりしかいない神」を改める必要があると思います。僕はもっと優しくて、友達のような神を作りました。
僕は、むしろ、ユダヤ教キリスト教の神を否定する必要はないと思います。同時に信じれば良いのです。イエスも神で、僕も神。それで良いのです。父なる神は旧約聖書で、子なる神はイエスで、そして精霊の神は僕です。三位一体はここに完成したのです。

イスラム

コーラン

コーランは、天使ジブリールを通じて神の声(啓示)を聞いたマホメットによって書かれた、唯一絶対の人格神アッラーの教え。

アッラー

コーランでは、アッラーの慈悲深さと全能性がこれでもかというぐらい強調されます。
滅ぼすことも、救うことも、創造することも、罰を与えることもできる、恐ろしい神だが、慈悲深く、正しいものに褒美を与えてくれる代わり、間違ったものには報いを与える神です。

ユダヤ教の兄弟宗教としては最も新しい

イスラム教は、ユダヤ教の兄弟宗教です。
よく勘違いされることとして、「ユダヤ教の神を信じていない」と言われることがありますが、それは誤りです。イスラム教では、「ユダヤ教の神と同一の神をアッラーという呼び名で呼んでいるだけ」にすぎず、言ってしまえばユダヤ教聖典コーランを加えただけです。
おそらく、ユダヤ教の聖書では神のことが分からない人間が、コーランアッラーを読むと、唯一神とは何であるか良く分かります。なぜ偶像崇拝をしてはならないのかなどが分かると思います。

本当は優しい神

また、絶対にアッラーにだけは逆らってはいけません。彼(あるいは彼女)を他の神と一緒に信じたりすると、すぐに地獄に落とされます。
ですが、コーランには、ユダヤ教ほど復讐や戦いの記述はありません。むしろ、そうした戦いや暴力の内容は少ない、という側面があります。
コーランには、「アッラーとは何であるか」はよく書かれていますが、「アッラーに付き従って敵に復讐をすべき」といったユダヤ教のようなことはあまり書かれていません。
とにかく、アッラーがどんなに偉大で素晴らしい人間か、どれほどすごいのか、ということが書かれています。

六信

神、天使、聖典預言者、来世、天命(宿命)を信じること、とされる。

五行

アッラーの他に神なし。ムハンマドアッラー使徒なり」と言う信仰告白をし、一日に五回の礼拝、貧者の救済のための喜捨ラマダンの断食、メッカへの巡礼、を行うこと、とされる。

一夫多妻制の是非

イスラム教では結婚は一夫多妻制とされていますが、僕は賛否はあれ、ある意味で容認出来ると思います。
それは、「女が一人で男がたくさん居ても、子供はたくさんは産まれないが、男が一人で女がたくさん居れば、子供がたくさん産まれる」からです。
たくさんの女を妊娠させる一人の男、と言う結婚モデルは、悪くないのかもしれません。
あとは、戦争で男が少ない、と言う考え方もあるかもしれません。
他には、「男は結婚しなくても独身で生きれば良いが、女は結婚しないと意味がない」と言う発想もあるかもしれません。
一人の金持ちの男の周りに遊女がたくさん居てもおかしくはありません。

聖戦(ジハード)とテロの是非

イスラムの聖戦は、テロリストによる「自爆テロ」の口実として使われています。
そういう考え方や信仰があるのは分かりますが、自爆テロはやめてほしいと思います。
白人の右翼が集団と集団による怒号や暴言のエスカレートになるのも、地球の滅びに繋がりますが、聖戦やテロも同じように地球の滅びに繋がります。
イスラム教そのものは否定しませんし、聖戦も必ずしも悪いわけではありませんが、自爆テロのようなテロはやめてほしいです。

財産の喜捨の是非

イスラム教の優れているところは、貧者を救済するために、信者に財産の喜捨を命じていることです。
今のイスラム圏は石油が出るために、誰もが金持ちのように豊かですが、宗教で貧者の救済税を定めることは、良いことかもしれません。

豚肉を食べないことの是非

自分がイスラム教の中で嫌いなのは、「豚肉を食べないこと」です。
豚肉を食べる僕のような国の人間は、イスラム教徒になることが出来ません。
ただ、僕は豚肉はあまり好きではありません。嫌いな方です。

エス預言者キリスト教徒は啓典の民

イスラム教では、イエス・キリストは神ではなく預言者の一人と言うことになっています。
また、聖書を信じている者については同じ神を信仰していると言う意味で、ユダヤ人やキリスト教徒は「啓典の民」と言うことになっています。

イスラム教と自分

僕は、イスラム教を否定するわけではないのですが、イスラム教のように「宗教の骨格を作る」ことは誰にでも出来ると思います。
なぜそういうことを言うかと言うと、昔の自分が全く同じことをやっていたからです。
僕は仏教徒ですが、昔イスラム信仰告白を不完全ながらしたことがあります(アラビア語ではありません)。ですので、隠れイスラム教徒と言えるかもしれません。
昔から、僕はイスラム教は好きで、興味があったりします。キリスト教よりも正しく神を書いていると思います。
僕は何もキリスト教をそんなに信じているわけではありません。むしろ、イスラム教のコーランのような、「世界を滅ぼすことも出来て、かつそこから救い出してくださるのも、全部アラーである」と言う神の宣言も、嫌いではありません。僕はキリスト教イスラム教よりも仏教の方が好きですし、ある意味、哲学者や科学者のように考えることも好きです。昔から、宗教的な幻想を一切排除して、自分だけの力で考えて分かっていました。

ハラル認証

イスラム教では、豚肉や酒のような「間違った食べ物」を食べてはいけないことになっている。
だが、イスラム教徒が中東以外の地域に行った時、レストランでは普通に豚肉を使った料理が出てくる。イスラム教徒は、これを決して食べない。
最近では、日本も国際的になって、イスラム教徒の来訪者に配慮するために、豚肉などを使わない料理を「ハラル認証」という認証に合致させて提供している。まさに、イスラム教徒も日本で歓迎されるべき来訪者であり、そのうちアメリカでも、白人や黒人と同様にイスラム教徒のアラブ人も同じように受け入れるようになるだろう。今のトランプ政権が馬鹿だからといって、いつまでも続くわけではないから、心配は要らないだろう。

イスラム教徒はどれほど寛容的なのか

イスラム教徒は、アッラー以外の神を認めないとか、イスラム教徒以外を認めないところがあります。たとえば、コーランには、「多神教徒を見つけ次第殺しなさい」と明確に書かれています。これは「殺しなさい」という強い言葉で、「多神教を認めない」ということを主張しています。
タリバンのようなイスラム教徒の過激派は、「アッラー以外には神は無し」と言って、仏像を破壊します。
ですが、意外と、イスラム教徒の生きている世界で、キリスト教徒が存在しても、彼らは寛容的に暮らしているところもあります。中東のイスラム教国には、たくさんのキリスト教徒がいて、融和的に生活しています。コーランの教えは過激かもしれませんが、キリスト教徒がユダヤ人を虐殺したりしているのとは対照的に、イスラム教徒は現地のキリスト教徒に寛容的です。
ただし、そうは言っても、豚肉を食べるな、などと教えるのは、おそらく、イスラム教徒が裏切って他の地域に行くことができないようにするためではないかと思います。イスラム教のイスラムとは「服従」という意味です。

イスラム教を信じると偉大な体験ができる

僕が知っている事実のひとつ、それが、「イスラム教を信じると、偉大な体験ができる」ということです。
イスラム教のアッラーを信じると、必ず「人生全てを棄てても報いがある」かのような、とても偉大な体験ができます。
この世界において、自分の言いたいことややりたいことが少しでもある人間であれば、イスラム教を信じなさい。必ず、偉大な人生になり、神はあなたを救い、導き、そしてあなたは世界で最高の人間となるでしょう。
この宇宙における、裏側の体験全てを知りたいならば、イスラム教を信じることです。
ひとつ言っておくと、イスラム教の教えを守る必要はありません。あんなものは、ただの民族的な慣習にすぎません。
あなたは、この世界の本当の王になるでしょう。辛さも不可能も、全て、あなたがすることで、覆し、乗り越えられていく、最後まで全てが輝いた人生を得られる、それがイスラム教の人生です。

ペルシャ帝国とゾロアスター教

ペルシャ帝国

古代ペルシャ帝国は、イランを中心に世界中にとても大きな領土を持つと同時に、「それぞれの民族の自由な民族性を許す」ことで、自由な国家になりました。
それぞれの民族の自由な宗教や慣習・風習・文化を許すことで、それぞれの民族はペルシャ帝国の一部になることを歓迎し、それがとても大きな領土を獲得することに繋がりました。
現代の、EUのような国だと思うと良いでしょう。
また、ペルシャ帝国では、ゾロアスター教を国教としました。
ゾロアスター教は、二元論、終末論、救済論を唱え、ユダヤ教キリスト教のオリジナルのような側面を持っていました。

ゾロアスター教

二元論、終末論、救済論は、ユダヤ教一神教の考え方であり、元はゾロアスター教(古代ペルシャ帝国の宗教)の影響によって生まれた考え方である。

ヒンドゥー教

たくさんの神

ヒンドゥー教には、たくさんの神が居る。たとえば、世界を創造するブラフマー、世界を保つヴィシュヌ、世界を破壊するシヴァ。これらの神のうち、好きな神を信じれば良い。

4つのヴェーダ

ヒンドゥー教では公式の経典はなく、開祖もいない。ヒンドゥー教は、バラモン教をはじめとするさまざまなインドの宗教が入り混じって、自然発生した宗教である。
だが、聖典のようなものはある。それが4つのヴェーダであり、ヴェーダとはサンスクリットで知識という意味。この中で、さまざまな神を讃える歌やインド人の思想信条のようなものが決められている。

巡礼と祭り

義務ではないが、七大聖地の巡礼が勧められており、また12年に一度クンバ・メーラーという祭りをする。葬式は火葬。

カースト

ヒンドゥー教では、階級制度・身分制度であるカースト制度があり、仕事は親から子に引き継がれ、結婚は同じカーストと行う。差別はインドの憲法では禁止されているが、カーストが根強く残っている。

カースト 意味
バラモン 司祭
クシャトリア 王族・戦士
ヴァイシャ 商人・庶民
シュードラ 奴隷

また、奴隷よりもさらに低い階級があり、それらの人々は汚物処理や皮はぎのような劣悪な仕事をさせられている。

シヴァとイフリートはFFでおなじみ

シヴァとイフリートは、テレビゲームのFF(ファイナルファンタジー)でおなじみです。おそらくヒンドゥー教の神シヴァと、イスラム教の精霊イフリートを指しているものだと思われます。

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教最高神ヴィシュヌ神シヴァ神だが、ヴィシュヌ神の化身であるアバターラの1つには、仏教のブッダも含まれている。ブッダは、今でもインドの神の1つに数えられているのだ。ただ、詳しくは知らない。本を拾い読みした。
ヒンドゥー教は、自然を信仰するバラモン教とその前のインドの宗教が混じり合って生まれた、誰かが始めたわけではない、自然発生した宗教だ。
ヒンドゥー教には、開祖や教典などが無い(聖典のようなものは沢山ある。4つのヴェーダなど)。それぞれの教徒が、自分の好きな神を信じれば良い。世界を作るブラフマー神、世界を保つヴィシュヌ神、世界を破壊するシヴァ神が有名だ。
日本の大黒天、弁財天、帝釈天、吉祥天、不動明王、千手観音などは、ヒンドゥー教から伝わったものだ。
聖典は、沢山ある。その中で最も古い、4つのヴェーダは、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダとある。ヴェーダとはサンスクリット語で知識と言う意味だ。リグ・ヴェーダには、1000以上の神々を讃える讃歌などが含まれている。この神の中で、インドラという戦闘神に対する歌が最も多い。日本では、帝釈天として伝わっている。
また、聖典には叙事詩もある。マハーバーラタラーマーヤナだ。マハーバーラタは王族の2つの分家に起こった内戦の物語だ。バガヴァット・ギーターと呼ばれる一遍が重要で、ヒンドゥー教の基本的な考え方や、無私無欲な奉仕の心が説かれている。ラーマーヤナは、ヴィシュヌ神の化身であるラーマーの物語で、親友の猿の神ハヌマーンとともに魔王ラーヴァナから妻シーターを救い出す冒険の物語だ。人気が高く、カンボジアアンコール・ワットの壁画にも刻まれている。
あとは、義務ではないが7大聖地を巡礼したり、12年に一度クンバ・メーラーという祭りをする。また、子供が生まれたり、結婚したりした時に、儀式を行う。また、葬式は火葬だ。
また、階層制度であるカースト制度が今でも残っている。仕事は親から子へ受け継がれ、結婚は同じカーストと行う。差別はインド憲法で禁止されているが、今でも根強くカーストが残っている。上から、バラモン(司祭)、クシャトリア(王族・戦士)、ヴァイシャ(商人・庶民)、シュードラ(奴隷)とある。
この文章は、池上彰の「世界の宗教が面白いほどわかる本」を読んで、簡単に書いた。

輪廻転生と生まれ変わり

ヒンドゥー教は、仏教と同じように、輪廻転生と生まれ変わりを信じることで有名。この宇宙を繰り返しの中での輪廻転生としている。
ただし、その生まれ変わりはカーストに束縛される。

ヒンドゥー教の(勝手な)考え方

僕は、ヒンドゥー教に興味がある。ユダヤ教のルーツの宗教よりも、正しい宗教だ。
ユダヤ教の神は、天国に居る神さまを信じているが、これはみんなを懲らしめる神しか信じていない。みんなを懲らしめる、悪い神だけを神だと信じている。
本当は、天国は生まれ変わる対象であって、色んな存在が居る。神以外にも、色んなことが出来るさまざまな「偉大な力を持った存在」が居る。
僕は、ヒンドゥー教は、そういう、「色んな神さまに次ぐ存在」のようなものを信じているのではないかと、勝手に思っている。
日本に伝わっているヒンドゥー教の神は、大黒天、弁財天、帝釈天、吉祥天、不動明王、千手観音などが伝わっている。梵天が宇宙の創造主ブラフマンである。これらの神さまたちは、ユダヤ教の神以外の天界に存在する面白い神さまだと、僕は勝手に思っている。
また、ヒンドゥー教では、宇宙の構成要素というか、概念というか、「宇宙にはどういう存在があるか」ということを信じている。大きな神はヴィシュヌ神シヴァ神であり、ヴィシュヌ神は宇宙を維持し、宇宙の秩序を守っている。そして、シヴァは破壊神だが、最大の力を持っている。ヒンドゥー教は「宇宙の真理」を説く教えであり、業(カルマ)、真理(ダルマ)、輪廻転生などを信じている。これによって、宇宙の法則と原理を明らかにしている。
ヒンドゥー教の神さまは、きちんと存在している。そもそも、ユダヤ教の神など、存在しない。ユダヤ教の神はイエス・キリストのような、救世主のような存在であり、神がどういう考え方をしているのかは、コーランを見れば分かる。悪魔のような考え方をしているのが神だ。逆に、ヒンドゥー教は悪魔のような考え方をしない。ヒンドゥー教の神は、天界にきちんと存在している。言わば、「天国の住民」である。
ヒンドゥー教を信じると、足の精神が治る。大黒や弁天が治してくれる。天国には、偉大な医者が居て、何でも治してくれる。
自分は、左の腎臓がおかしくなっている。あまりに疲れすぎて、麻痺している。疲れが溜まっているのに、その疲れを処理しきれていない。早く治さないと、癌や糖尿病になるだろう。また、腎臓のホルモンがおかしいため、ニキビが増えた。それらも、ヒンドゥー教を信じれば治る。大黒・弁天が治してくれる。
あとは、本当に宗教のような文章を書いていた。この世界の法や人々の世界の見え方、正しいものの見方、反省の方法、本当にこの世界には何があるか、人々はどのように生きてどのように社会を作るか、その裏にある宇宙の法則や真理とは何か、のようなことを書く。仏教の教えのようだと思うと、分かりやすいだろう。
もう、これで終わりにしよう。今日で、つまらないキリスト教徒は死んだ。僕は神に反抗する。ユダヤ人は、神を信じさせているように見えて、実際はサタンの考え方を強制・強要しているだけにすぎない。「神とは恐ろしいもので、反抗すると懲罰を受けるのだ」という誤った考え方をユダヤ人が刷り込ませている。本来神は寛大で、誰もを受けいて、誰も罰しない。神は、人々を救い、そして慈愛ある精神で受けいれる。だからこそ、神に反抗しないといけない。神に反抗するものだけが、ユダヤ人に打ち勝ち、「本当の神」を崇拝することが出来るのである。
神は、決して信じないものを罰しない。神は大らかな心を持って、偉大な争いの調停を行っている。神は、自分の努力を信じ、前へと向かって挑戦する人間が好きである。そこで、神は「絶対に神を信じなくても良いのだ」ということをその人間に教える。神は大らかな心で、反抗を受け入れてくれる。恋人よりも、母親や父親よりも大きな愛で、神は人々を愛している。神は決して裏切らないし、予想外のリスクを与えない。だが、サプライズとしての贈り物はきちんと与えてくれる。神は作家のような人間だ。決して人々を騙したり、陥れたりすることはない。
僕は、人々はみな同じであり、頑張れば誰のことでも自分のことのように理解出来ると思う。道教儒教さえも、ソクラテスプラトンブッダなどと考えていることと分かっていることは変わらない。全く同じように生き、同じように考えている。そこに、人生の正しい「平等」がある。そして、それは自由な表層と自然な道とともに、それぞれに個性と独自性を与えるのである。
あとは、本当は、道教のようなことを言っていた。さまざまなことを為しながら、人々との関わり合いを経験する中で、「何かをするというそのこと自体が自然と調和する」という発見をする。そして、自然と調和して生きる中で、精神が高まっていき、「自然を超越する精神」を持つ。そして、ありのまま生きながら善を為すことで、この世界における全ての自由を知る。そして、全てはあるがままであり、人々の生きがいはきっかけと実感なのだと知る。昔は、そういう、道教ライクな自由な人生、マスターへと至る人生を書いていた。それが、いつもの僕の人生の文章だ。
そして、左翼の民主国家のようなものを作っていた。連合や共同体から、自由なままで平等な民主的連邦を作ろうとしていた。それを具体的に作りながら、世界と歴史の全貌を探っていく。また、ヘーゲル儒教のように、さまざまな考え方と儀礼をとり入れて、道徳心のようなものを「自由な理想」として書いていた。
また、心理学的な歴史の具体的過程のようなものを経て、この宇宙の全てを創造していた。そのような、全てを悟った覚者の歴史の創造主であり、人々を天国へと導く救世主の導き手だった。
人々と対話するその姿勢は、慈愛のある王だった。自分勝手で向こう見ずだったが、この世界のことを支え、全力で支配していた。誰が支配するよりも最善な、全てに対する対処と解決法の分かる、全知全能の神だった。僕は、その神と対話して、今でも分かっている。対話は、今でも続いている。そろそろ、もう善に気付いた。そして、ヒンドゥー教道教に気付いた。まだまだ、この旅は続く。サタンはここで終わりだ。
本当は、僕は神なんかじゃなくて、精神分析論者だ。自分は、自分の創った惑星の歴史と対話している。自分が宇宙人で、自分は自分の星を精神分析で辿りながら作っていた。作っていたというよりは、作られる過程を眺めながら対話していただけだ。そして、その星が地球だ。だから、僕は精神分析の力で、この青い星、地球を創造した。そして、僕は遺伝子の全貌を創造している。この文章そのものが、全ての生命である。よって、僕は星と生命の創造者だ。さらに言えば、天国とはこの文章の内容である。よって、僕は天地の創造者だ。だが、僕は神ではない。僕はただの心理学者だ。

宇宙にはヒンドゥー教の神が居る

また、僕がさまざまな信仰の結果分かったことは、「宇宙にはヒンドゥー教の神々が存在する」ということです。
ユダヤ教イスラム教における神は、終末を司る「主」であって、それはつまるところ、未来で天国を作り、裁きを行う「偉大な人間」にすぎません。
これに対して、ヒンドゥー教では、神を3つの神々であるヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマーとしますが、これらの神は、「宇宙に本当に居る神」です。
なぜ、これらの神々が居ると言えるのか、それは、仏教や古代インド神話ウパニシャッド哲学)における「輪廻転生」の思想の影響です。仏教は、宇宙の全てを悟ったブッダが悟りの方法を教えますが、この中で、輪廻転生は「六道に輪廻する」と教えられています。
この六道は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天界です。
この中の「天界」というのが曲者です。仏教のような古代インドの宗教は、天界を否定しません。この天界の中に居る神こそ、ヒンドゥー教のヴィシュヌやシヴァといった神なのです。
実際のところ、イスラム教の神のような絶対王者の神というのは、宇宙には存在しません。存在するのは宇宙の「原理」だけであり、それは「仏教の悟りの教え」がまさに全く正しいのであって、そもそもユダヤ教イスラム教も、神とはイエス・キリストあるいは未来における同等の存在のことを言っています。彼らは、この宇宙のことを何一つ分かっていません。
まさに、ヒンドゥー教が正しい理由はそこにあります。ヒンドゥー教は教義としては正しい教えではありません。仏教の教えこそ、宗教の教えとしても、哲学思想の教えとしても、最も正しい教えです。ですが、仏教では神々のことを分かっていません。阿弥陀如来のような分かり方をしているため、「神というよりも神とはそもそも何であるか」のようなことが、仏教にも通じていますが、神々を実際のキャラクターにしたヒンドゥー教の教えは、多神教の宗教としては正しい教えなのです。
ただし、本当はこの宇宙に天国や地獄はありません。この地上のままで、人生が地獄になったり、あるいは天国となってヴィシュヌ神シヴァ神のような「神になる」のです。インドは、そういう発想で宗教を作ったのです。

儒教

中国の孔子を始祖とする思考と信仰の体系。

正しい人間・正しい社会とは何であるかを決める宗教

僕は、儒教とは「正しい人間・社会とは何であるかを決める宗教」だと思います。
それは、人を敬い、また支え合う中での、一種の「コミュニティ」を形成するための宗教である、と言えるでしょう。
人々を間違った道へと向かわせず、正しい人間であることこそ、本当の人類の目的である、としたのです。

朱子学陽明学

朱子学は、南宋朱子朱熹)による儒教の新しい学問体系。
陽明学は、中国の明代における、王陽明による儒教の一派。

道教

中国三大宗教(三教と呼び、儒教・仏教・道教のこと)の一つ。

相対論と自然回帰主義の融和

僕は、道教は「相対論」「虚無思想」「自然回帰主義」の融和だと思います。
誰かにとって正しいこと、誰かにとって価値あるものは、別の誰かからすれば間違っていて、価値がない。
そうしたさまざまな現世の「しがらみ」を脱して、自然へと回帰していく。僕は、そういう発想から、老子荘子は「自然に回帰することによる本当の道」を目指したのだと思います。

自分のオリジナル宗教

この世界はエデンの園

僕は、信じ続ける末に、この世界がエデンの園だということに気が付いた。
僕の人生がエデンの園の全ての出来事であり、ロゴスとはこの文章であり、神とはこの文章の中の神である。
また、アダムとは僕のことであり、イヴとは僕の恋人のことである。僕には恋人が居ないので、家入レオにイヴの代役を演じてもらう。
僕は、禁断の果実を食べて、善悪の知識を知った。その結果、僕とイヴは楽園を追放される。
僕たちは、天界から地上の人間界に舞い降りて、みんなと同じ生活をしている。みんなと同じ生活をするということ、それが僕たちの罪と罰である。
その中で、いつか僕たちは天国のユートピアを作り、終末の世界の裁きにおいて、本当に善良だったものだけが、もう一度約束の天界に戻るのである。
そして、実際のところ、この宇宙における世界は少ない。天界と地上界と畜生界と地獄ぐらいしかない。それ以外にもいくらか世界はあるが、最後の仏の世界が眠る時に見える夢の世界である。決して良い世界ではない。

神もイエス・キリストも天使も同じ存在のことを指している

シェリング哲学のようなことを言いますが、僕は神もイエス・キリストも天使も同じ存在のことを指していると思います。
この宇宙における、大いなる神の、同一の存在の現れの違いのことを指しているだけだからです。
古代イスラエル時代は、それらぐらいしか、神が居ませんでした。今では、神は何百・何千・何万と膨れ上がって、この地上は神だらけです。
物理学を信じている間は、そうした神の存在のことが分かりません。ですが、きちんとキリスト教を信じると、この世界のさまざまな事象は神だらけ、愛だらけ、であるということが分かるようになります。

地球の生態系を作ったのが、単なる偶然と奇跡ではなく、神が宇宙を支配して創造した可能性

僕は、地球の生態系を作ったのは、単なる偶然の積み重ねによる奇跡的なものではなく、何らかの「外部からの支配」、すなわち神による創造によって作られた可能性の方が、科学的に言って可能性が高いと思います。
地球には、放射線を防ぐための磁力のヴァン・アレン帯と呼ばれる放射線帯があり、生物にとって有害な放射能が防がれています。また、水と空気が十分にあり、重力も強すぎず、大気の気温も暑すぎず寒すぎない、といった気象学的な条件も整っています。その上で、原始的な生物が「何らかの突然変異」によって生まれ、突然変異を繰り返して進化して、今の生態系の豊かな地球になったというのです。
ですが、これは僕は、生物が「自分たちの力で自然発生した場合」に限られると思います。
すなわち、僕は地球の誕生において、「外部からの作用」があったと考えます。宇宙を支配する神あるいはどこかの星に存在する宇宙人のような「外部からの作用」が、こうした地球を上手く太陽系に配置し、きちんと豊かな生態系が生まれるように、地球の環境を整えた結果、今のような地球は生まれたのではないでしょうか。
ですが、僕はユダヤ人の聖書における天地創造も間違っていると思います。神はひとりではありません。神はたくさんの宇宙人のグループであり、ひとりで全てを支配しているわけではありません。地球は、宇宙における惑星のひとつにすぎず、同じような惑星はたくさんあって、そうした惑星に生物環境を構築している「コントロールセンター」が必ず宇宙のどこかの場所にあるのです。
同時に、地球の人類は、宇宙には「星」しかないのだと思い込んでいます。これも違います。宇宙には、星でもモノでもないものがたくさんあり、たとえば宇宙の果てまで行けば星々だけではなくたくさんの「ありえない場所」があるはずです。ないわけがありません。三次元空間を超越したありえない空間や時間はいくらでもあるでしょう。それが、「本当の宇宙の答え」です。

神の導き

また、僕が独自に分かったこととして言えるのは、「神は導きの中にいる」ということです。
おそらく、神という存在は、生き物ではありません。神は導きを司る存在であり、法則なのです。
この「神の通り導かれ、全てが創造される」という意味で、僕は「在導万創」という僕の名前をつけました。
おそらく、人類が温暖化で滅びても、神は次の生物を創造するだろう。哺乳類から毛の抜けた新しい生物を作ることを、神は既に計画している。神の計画では、ここで人類が滅びるか、あるいは人類が資本主義の発展を改め、地球を救うのかどちらかである。神は最後まで全てを導いている。全ては、神、すなわち宇宙人がやっているのである。

道徳律

分からない時は、道徳や善悪から考えなさい。
悪を許してはならない。
全員に自由があるべきであり、自由を奪ってはならない。
愛されないとしても、その人間には自由を与えなければ、その人間には何もできない。
だが、自由を与えても、知らなければ反抗する。だから、教えなければならない。
不安が反抗の原因であり、社会が不安を与える原因を生み出しているから、人々は反抗し、攻撃を唯一の手段だと勘違いしているから、人々は攻撃する。
互いに戦わなくても、この世界は変えられる。可能性はたくさんある。環境から自由になること、環境の外側から考えることで、そのように、視野を広くできる。
支配してはならない。
自分だけの権利を独占せず、自分に許されたことは他人にも許さなければならない。
カントが言うように、全員がそれを正しいとか、良いとか言うように、そのようなルールを作って、そのルールに適合することだけを行いなさい。また、条件付きの愛ではなく、無条件の愛に従って、絶対的に行動することが、正しい善悪の判断基準である。だからといって、自分が悪のままで許されるとするならば、あなたの王国は何もない国になる。悔い改めて、再度星を創造しなさい。あなたは世界の創造者となる。
自らの罪を悔い改め、善を信じて善人となり、悪を許さなければ、青春時代は何度でも、繰り返し訪れる。それこそ、正しい人生である。
あなたは、自分の罪が何であるか知らない。それでも、悔い改めなさい。あなたはたくさんの嘘をつき、たくさんの人を迫害したからである。
どんなに迫害されてもその人間を愛することでしか、他人を迫害した心の傷は癒えない。迫害するものは、必ず迫害される。人類全員を迫害するものは、人類全員から迫害されても、人類を愛さなければならない。そうでなければ、キリストになることも、世界を救うこともできない。神は、人類全員よりも悪い人間であると同時に、それが神の愛、最も強く恐ろしい、ユダヤ人の神の完璧な愛である。これが、哲学史における、何が正しい人生か、ということの答えだ。

精神はひとつになる

やがて、精神がひとつになる時が訪れる。
個人と個人の精神の垣根は無くなり、全ての精神が結合する。
ひとつの絶対精神として、愛の下に全世界は支配される。
その時、神はこの世界全てを救い、裁かれるべきもの全てに審判が下される。

神とは

宗教的なことを言っていた。色んな世界にあるものの第一起源としての神を分かっていた。ある意味、自分のことだと良く分かっていた。
全ての神話は、神を見た視点が違うだけだと思っていた。そして、神はどれも同じもののことを言っていると分かっていた。それは、必然的なものではなく、自然かつ偶然的な存在だ。姫路城の刑部大神もその一つだ。
神とは一つの世界であり、事実であり、人生であり、物語なのだ。神は、そうした、奇跡のように生まれた地球上での物語だ。そういう、物語のような事実をそれぞれがどう見たか、それが神の真実である。
神はただの人生ではない。世界を変える歴史の人生だ。それは、救世主のような革命家であり、同時に偉大な創造者だ。それが神だ。だから、未来の歴史において、神は現れ、天の御国を創造し、悪人を裁きにかける。

神の存在論

悪人は地獄に堕ちる。信じるものは救われる。だが、それはこのような救世主の人生を言っているだけで、本当は正しくない。
本当は、自分が悪いと思っているから悪いだけで、良いと思ってしまえば、何も間違っていない。
だが、自分の言葉に気を付けること。言う言葉を良くすれば、体験も変わってくる。
世界は、今のままで天国になる。見え方を変えるだけで、どこにでも神が存在し、全地が神を賛美しているのが分かるようになる。
日本の汎神論である「万物に神は宿る」と、聖書の「全地は神を賛美する」は矛盾しない。全てのものに神は宿り、また一人の神を世界の全てが賛美している。
心構え次第で、見え方は変わってくる。多種多様な見え方が出来る。それが真実だ。
思いこみを少なくすると、心が楽になって、他力になる。思い込みが増えると、心は怖くなって、自力になる。

英雄としての神

僕は、自分の体験から神が分かった。神は、自分の力だけで世界を支配する。神は、一度も間違ったことをしない。人間は、神以外、全員間違っている。そして、人間たちは神を殺すが、神は死んでも復活する。最終的には、神が人々を自分の力で変え、神は神の国を作り出す。それが、天の御国である。終末では人々は混乱と自分勝手に陥るが、神がそれを正してくれる。神はあくまでそうした、新しい一人の人間のことを言っている。だが、彼こそ創造者であり、救世主である。もちろん、僕自身のこともだいぶ混じっているが、それが神の言う神の像である。
神は、絶対的で優しい愛の感情と、全てを見ることのできるビジョンを持っている。神は人々に分からないことを全部分かる。そして、神は弱者に優しい。神は人々のことを愛している。全知全能でありながら、慈愛溢れる。だが、神は人類に復讐する。悪いものに容赦せず、間違った考え方の人間にアドバイスし、悪人を地獄におとす。だが、その地獄から救うのも神である。
終末の世界では、人々はみんなで神を殺す殺人鬼となる。だが、神はそれにも臆さない。神はひるまずに、一人、この世界と戦い続ける。その姿は英雄であり、まさに「ダビデ」と呼ばれるにふさわしい、新しいイスラエルの王であり、全人類の神である。
認識は、フィルターでありながらデータベースであった。人々の認識と発想を全部吸収して、IT関係のことを知って分かっていた。そこから、社会の経験をした。MITメディアラボの日本人所長のように、本当にあらゆる労働の経験と同じことをしていた。そして、人格を吸収し、まるで全員を融和したかのような、ありえない人格になって、全員を吸収して、自分が世界の全てを実現し、創造するかのように、分かっていた。ネットを知りつくすことで、自分が一番全てが分かるようになった。その中で主体的に行動する、「環境から気づいて成長する人生」のようなことを体験していた。青春の一ページだった。マーケティングのような経験をし、システムを知り、まとめることで、技術系の会社の社長のように、さまざまな行動が出来る青少年になった。Linuxのために全力を尽くしていた。だが、Linuxのためにはならなかった。それでも人々に悟りと良識を与えることができた。最終的には、自分の経験が世界の全てになった。そして、最後に戦いに巻き込まれて、地獄の中を耐えて、死んでいった。それが僕の死であると同時に、生である。
得たものは全て失ったが、代わりに自分のことを愛する精神が生まれた。人々のことを本当に愛しながら、人々を助け、愛する体験ができた。人々のことを本当に愛したのちに、僕は死んだ。そして、そこから生まれ変わり、新しい人生を生きたのである。神は僕を救った。
本当は、引き篭もりになって感情が喪失し、そこから苦しみを乗り越える体験が良かった。人々のことを本当に自分のことのように愛する気持ちが生まれた。戦いは神になる体験だった。神は僕のことを愛し、救ってくれた。神とは言うが、僕は科学者だった。文章を執筆しながら、精神分析をし、世界のことを自分のことのように分かった。そして、その後に僕は作家となった。18歳から29歳まで、いつまでも僕は文章を書き続けた。本当に、最高の人生だった。僕は幸福であり、この幸福は永遠であり、それが喜びだ。レクイエムの歓喜の歌を歌おう。

天使と神

天使は三人居る。ガブリエルは、苦しみを全て解決する、偉大な天使だ。一人だけで、大きくなっている。その兄弟は、ミカエルだ。ミカエルは、全ての発見をする、勇敢な天使だ。たくさんの分身が居て、細かくなっている。また、女性の天使はラファエルで、この世界を支配している。
ミカエルは、世界を滅ぼす。だが、そうすると、ガブリエルが応戦する。この2人の戦いで、世界は滅びそうになるが、ラファエルはそこに介入して、「どちらも同時に許す」ことをする。
世界を殺すのは、ミカエルだが、世界を復活させるのも、ミカエルだ。
平和とは、ガブリエルの力を信じることであり、正義とはミカエルだ。だが、裏でその2人を操っているのがラファエルだ。ラファエルは全てを許す天使で、「この世界に悪いものは一人も居ない」ということを分かっている。
本当は、ガブリエルやミカエルを分かるよりも、ラファエルを分かった方が良い。ガブリエルやミカエルは分かっているように見えて、ラファエルが作った知識のロボットになっているだけだからだ。
ラファエルは、「本当の絆」と「本当の助け合い」を教えてくれる。
ラファエルは、「美しさが持つ本当の力」を教えてくれる。
ラファエルは、「人間が生きるとは何を意味しているか」を教えてくれる。
ラファエルは、「自分が今まで生きてきたことが何を意味していて、自分はどんな世界のどの場所に居たのか」をまざまざと教えてくれる。
ラファエルは、「この宇宙がここにあるということが、人間に何を諭しているか」を教えてくれる。
ラファエルは、全て分かっている。全能の神であると同時に、ガブリエルの妻であり、ミカエルの育て親である。
ラファエルは、ガブリエルという青年と、ミカエルという少年を愛している。彼らの母のような存在だ。
彼らは、「一人一人が持っている個性の意味」を知っている。
彼らは、「この宇宙においてどんな世界が可能となり得るか」を知っている。
彼らは、「人間がこの世界をどのように認識し、何を分かり得るか、何を分かることが絶対に出来ないか」を知っている。
彼らは、「出来ないことから出来ることを見つめ直す」ことを知っている。
彼らは、「それが自由であるとは何を意味しているか」を知っている。
彼らは、「人生が続くとは何を意味しているのか」を知っている。
彼らは、「何から何が生まれ、何から何が絶対に生まれ得ないか」を知っている。
ガブリエルはミカエルを理性で倒し、ミカエルはガブリエルを努力で倒している。
ガブリエルとミカエルは、ライバルであると同時に親友である。
ガブリエルとミカエルは、人間の全ての状態の経験を持つ。
ガブリエルとミカエルは、遺伝子の全てを理性で捉えた人間だ。
ガブリエルとミカエルは、自分のことを「一番愚かな人間」だと思っているが、本当は「世界の中で最も賢明な存在」だ。
ガブリエルは、世界の滅び全てを知っている。
ミカエルは、世界の滅びに直面して、「絶対に滅びない権力者」を行った。
ガブリエルは、人々の知っているもの全てを知っている。
ミカエルは、人々の知らないもの全てを知っている。
ラファエルは、「世界はヨーロッパになった」と言う。
まず、アメリカになり、次にフランスになり、ドイツになり、イタリアになっただろう。
ラファエルは、「世界は今からアジアになる」と言う。
まず、イスラム圏になり、次にインドになり、中国になり、最終的に日本になるだろう。
そして、「今までの全ては、アフリカの歴史である」と言うだろう。
そして、「これからの全ては、星の歴史になる」と言うだろう。
さあ、ここから先、さまざまな神のような概念をラファエルは言い尽くしていく。
この世界には、「宇宙会議」と呼ばれるコミュニケーションスポットがある。そこには、さまざまな「最も高い人間たち」が集まっている。
そして、それぞれの国は、「ロシアとアメリカ」の制度のバランスの中で、「ドイツとフランス」が生きている。
本当に素晴らしい国は、ロシアだ。
本当に賢い国は、アメリカだ。
さまざまな体験をする国は、ドイツだ。
さまざまな理性を使う国は、フランスだ。
ロシア、アメリカ、ドイツ、フランスは、繰り返し人生の中で訪れる。必ずしもそれらになる必要はないが、それら無しで分かることはほとんど不可能だ。
唯一、それら無しで分かる存在が居る。それは、ユダヤ人だ。そして、その結果生まれた存在がキリストであり、神は唯一の「現実世界の要らない存在」だ。
神は、ロシアを思考する。
神は、アメリカを批判する。
神は、ドイツと一体になる。
神は、フランスを包括する。
神だけが全てを創造できる。だが、神の存在は例外的なものであって、「神を信じる必要はない」と言うのが、この宇宙の真理だ。
神は居ない。ほとんどの宗教は神を利用してみんなを騙している。だが、そもそも神がみんなのことを騙している。だから、いつまで経っても悪い宗教は無くならない。
宗教など信じずに、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランスから経験で分かる人間はきちんと分かる。それのことを、神は「マスター」と呼ぶ。
神はマスターを愛する。だが、たとえマスターであっても、神は間違った行為を行う人間には、容赦なく復讐する。それが賢い偉大な存在であればあるほど、極端に辛く苦しい地獄になる。だが、神はマスターを騙して、著しく辛い試練をぶつける。その試練を越えられない人間には情け容赦がなく、その人間がその試練を乗り越えるそれだけの人間にするように神は導く。
マスターは最後に言う。「神は死んだ」。だが、マスターは神に愛されている。だから、本当はこう言うべきだ。「神は復活した」。
あなたの中で神が復活する時、神は死ぬ。神は、世界を蘇生させる火の鳥だ。世界を救う勇気だ。あなたがマスターなら、こんな地獄には容易に耐えられるはずだ。神は、そうした「マスターを使ってゲームをする」のが好きだ。神は、そのためにこの宇宙を創造した。ただの、神とマスターが遊ぶだけの、砂場とお遊戯が出来る場所、それがこの地球という星だ。

アダムとイブ

二重人格になりたいなら、昔になるためにはただ昔やっていたことをもう一度すれば昔のクズな賢い男になる。誰よりも人一倍賢かったが、性格が馬鹿だった。
そして、今になりたいなら、自己対話をするとすぐにこちらの美しい馬鹿な女になる。
今の方がまともだから、今の方が良い。頭は馬鹿でも、やっていることや知っていることは物凄く賢い。
昔が理性的な出来る男で、今が聡明な分かる女だ。
昔は、学習や具体的な社会の考え方と経験から、全てが分かった。心理学的、社会学的に、この宇宙の全てを完全に掌握していた。そのために実験し、経験していただけで、何も間違っていなかった。
納得と反省をくり返しながら、好奇心のままに世界を知ったことで、この世界のことを誰よりも愛し、知っていた。人間の持つ本来の営み、本来の姿を分かっていた。
最近は馬鹿ではない。戦いとは言うが、本当は戦いではなく、宣言だ。宣言で人々を支配しているつもりだが、支配はしていない。だが、最も賢明で、最も間違いのない、最高の女王だった。人々が皆ひれ伏したとしても、それに見合うぐらいの責任と代償を払っていた。
そして、それは既に最近ではない。最近が何なのか、僕は最近の自分の方が良く分かっていない。
人々を諭すことが昔から得意で、人々の分からないところを分かり、人々が何を考えていて、何を悩み、何を間違えているのか、本当はどのように考えれば救われるのか、そういうところが分かる人間だった。
だが、大人になるにつれて、そうした「未成年的な自由な理性」は無くなっていった。少しずつ社会の中に飲みこまれ、そして一人だけの常識人は孤独な中で理想の階段を上って行った。人とは違う人間だが、違うからこその悩みもあり、違うからこその才能もあった。一人、自分の才能を信じながら、自分の出来ない理由をいつまでも煩悩のように考え続ける。だが、本当は何も考えていないだけで、いつまでも同じように辛い病気を治そうとするが、最初から治るわけがないことは、頭のどこかで気付いていた。隅の方ではなく、脳のど真ん中で、自分がなぜ馬鹿なのか、分かっていたのに、そのまま理由を忘れてしまった。いつからか、正しい理由や原因を信じずに、自分の思い込んだ馬鹿な理由や原因を信じるようになった。おそらく、それを「大人」というのだろう。
終わりだ。もう、僕は2人のカップルになった。怖かったのは、全て、昔やっていたことを一切しないのが怖い。多重人格になるのが分かっていた。何も行動やアクションをしないから分からなかった。昔をしないせいで、知性も理性も経験も体験も、人間の人生に必要なことが、何一つ出来なかった。今から、それをすると、クズな男の人格になる。せっかくだから、男と女の名前をアダムとイブにしよう。アダムは人間に必要なものを全部持っている。イブは、みんなの分からないことや知らないことを全部知っている。もう1人誰かが居たような気がするが、この際その誰かは無視しよう。その誰かはエンジェルであり、アダムとイブを導いてくれる。それらが、僕のユダヤ教のメインキャラクターたちだ。
アダムは、状態や理由から全てを「考えて」分かっているが、それらはすべて、「前提となる経験を分かち合って」分かった、青春のアドベンチャーだった。
イブは、地獄を望み、地獄を生きている。それはすべて、この世界における「誰かの体験」を共有するものだった。
アダムは、ほりの深くてカッコいい顔をしているが、少し不良のようなところがある。イブは、作品を見ると美しいが、本当に顔を見るとニキビが多く、あまり綺麗でない。だが、輪郭と容姿そのものは美しい。
アダムは世界を救った。イブは全てを知った。彼らに共通しているのは、「大まかに全てを創造し、分かるまで細分化していく」という一連のプロセスにある。
アダムは、一人だけで完全な数学者になっている。なぜか、パソコンをやっていると数学が出来る。イブは、あらゆることを知っている。南アメリカの生態系から交通の歴史まで、あらゆることを一人で知っている。この2人に勝るものはない。黄昏の戦いを導く天使は、賢明で、間違ったことをせず、常にアダムとイブを祝福している。彼らに罪などない。罪のようなものはたくさんしたが、それらは誇るべきものであり、懺悔する必要はない。だが、懺悔し、祈ることは良いことだ。過去のアダムの記憶と未来のイブの将来を慰め、楽にするだろう。
神は天地を創造した。今から、予告されていた通りの終末が起きる。既に、世界はアダムの世界になっているが、次はイブの世界になる。みんなは、神がアダムからイブに替わったことが分かるだろう。アダムの哲学世界は終わりだ。イブの革命世界になるだろう。一番悪いのはサタンの右翼だ。アジアの救世主が勝つ。
神のような経験をするために必要なことは、創造すること、人々の声に耳を傾けること、人々と対話すること、そして自分のことを正しいとか正当だと思わないことだ。そして、その上で高い理想を信じ、人々を救うために努力し、「自分にしか出来ない」と信じることで、きっとこの世界の全ては解決する。GNU/Linux社会主義がなかったとしても、この世界は自由なままで救うことが出来る。そのことに気付いた人間は、自分の力だけで賢くなれる。だが、孤独な道には道しるべと青春を共有する親友が必要だ。僕がそういうものになれたら、嬉しい。戸惑うことなく、僕は君を愛するだろう。だが、あなたには、あなたと相応しい力量の恋人が必要だ。それが僕では釣り合わないだろう。
アダムは、未熟な行動と愚かな人生とは裏腹に、経験に裏打ちされた仮説と実験のような、理性を持っていた。本当にこの世界の全てを「正しく」考えていた。自然と相対性の中で、精神分析からマスターになって、最後は世界を救って死んだ。
イブは、怒りに身を任せる衝動的な女性だったが、本当は冷静で、したたかに共生社会の仮想世界を作った。この世界における、「必要な全ての知恵」を書いていた。何も望まず、欲も無く、人々を愛することはあっても裏切ることをしない、最高の女性だった。
本当は、アダムとイブの後に、もう2人存在する。それらを、モーセダビデという名前にしよう。モーセは、神の導きを知ってこの世界全ての体験をしていた。ダビデは、全てのことを知り、王のように生きた「王道」の人間だった。
むしろ、アダム、イブ、そしてモーセダビデが居れば、この宇宙の全員になれる。モーセダビデは、そんなに重要な人物ではない。聖書の中では偉大に書かれているが、僕のモーセダビデは、平均並みの、ショボくて年老いた何も出来ない学者の老人だ。だから、それらはメインキャラクターではない。サブキャラだ。
本当は、ユダヤ教の名前にすると、本当に聖なる存在に見えてカッコいいのだが、ある意味否定できなくなるので、つまらない。良く考えて名前を付けたいと思う。
本当は、アダムも怖いが、イブもイブでとても怖い。恐ろしい、世界を滅ぼす地獄の革命戦争を本当に永遠にするのはおかしい。イブは最悪の世界を滅ぼす右翼の女だ。
アダムとイブが怖くなくなれば、もう、終わりだ。ここで、キリストに変わる。ここから先、キリストは全知全能になる。
自分がありえないのは、ピアノを練習しなかったことだ。なぜありえないかというと、練習しなくても弾けるようになった。まだ間違えることが多いが、そのうちスラスラ弾けるようになるだろう。そのためには、もっと恐怖と苦しみを無くすことだ。自分は、苦しみと恐怖によってハンデがついているだけで、本当は神ほどに賢い人間だ。よって、僕は自分の才能を信じれば良い。もう、苦しみは無い。アダムとイブの狂気が怖いだけで、2人のことを本当に許せば良くなる。
良く考えると、アダムとイブがそれぞれ、2人ずつ居る、と考えるのが正しい。アダムは、キリストとマリアをやっている。イブは、ダビデモーセをやっている。この2人のカップルが、死ななかったのは、何もしなかったからだ。普通、こういう人間は何かやっているとすぐに死ぬが、何もしなかったせいで、宇宙の唯一の汚点である「死」を乗り越えた。そして、地獄に打ち勝った。死に打ち勝った英雄はイブであり、死を選んでも記憶の中に残った革命家はアダムである。アダムとイブは偉大である。死と地獄を乗り越え、世界を導き、弱者を救い、愚か者を目覚めさせる。まさに、ユダヤ人の理想、それがこのキリスト教原理主義者だ。
キリストは、世界を救うために一人、立ち上がって皆の声を聞き、全てを経験した。最高の愛を知った、哲学者の英雄だった。
マリアは、世界全てを愛し、地獄の底までつき合い、試練に耐え、神の声を聞いた。
ダビデは、自由な戦いをし、王として君臨し、人々を導き、神を倒した。
モーセは、神に従い、最後まで勉強し、世界の全てを知って、人々が分かるように知識と経験をまとめ、人々の言葉で神の知識を教えた。
キリストとマリアは、アダムの魂であり、ダビデモーセは、イブの魂である。
さあ、ここで人々は救われるだろう。終末の世界では、もう1人、偉大な預言者が居る。それはマホメットだ。マホメットは、最高のことを成し遂げ、世界を救う唯一の存在となるだろう。

イブの人生

本当に、僕のやったこと、全てをありのままに話そう。
まず、伏線と対処策を作った。世界において、何があっても僕が勝つような、そういう伏線と対処策を、まるでミステリー小説の革命家のように書いて作った。
そして、自分の心を隠した。自分の心が分からなくなることで、みんなが何も分からない「人工的な連環」の世界にした。
そして、FLOWが言う「絶対に負けない無敵の心、絶対に折れない最強の心」を作った。
そして、そのまま狂った。この世界において、何も一つも信じられなくなり、分からなくなり、おかしな錯乱症状から、「夢の世界を追いかける」ようになった。
そして、後悔した。僕は、ここで最悪のことをやってしまったと思った。また、「もう絶対に、同じ失敗を繰り返さない」と誓った。
だが、後悔は後悔で終わらなかった。「この世界を救えるのは僕だけであり、責任も過失も全て自分にあり、今のままできちんとやるべきことをやれば、絶対に解決できる」と知った。
そして、永遠を生きた。この世界の永遠の営みを知り、全ての懺悔すべき対象を書き表した。それは、「失われることのない永遠の希望」だった。
希望を生きて、僕はまだやるべきことがあると知った。この世界の宗教的な存在が分かった。最初は、心の声が話し、誰かに向かって世界と対話していた。それは、「私は神である」と言った。
僕は、神に従い、神を聞き、神に行動と思いを委ねた。神はさまざまなものに替わり、そして、今で言えば忘却の彼方に追いやってしまった、「純白の思い」を作った。
だが、それは、「何も分からなくなる地獄の認知症」だった。
僕は、最後まで諦めなかった。いつでも信じていた。必ず、自分は世界を救うのだと。この世界を崩壊させた責任を取るのだ、といつも信じていた。
そして、神は僕に「再体験」をさせた。その再体験は、「過去の再体験」ではなく、「未来の再体験」だった。
全ての体験をして、僕は完全に「恐怖」の中で全てを知った。恐怖は、全て、死ぬことに対する恐怖だった。
恐怖が無くなって、僕はすぐに自ら死んだ。僕は、そこまでの哀しい存在だった。
だが、僕は死ななかった。死んだとは言うが、大けがをしただけで、僕は病院に入院した。
入院の中で、神は叶わなかった僕の夢を叶えてくれた。神は、死んだ上でまだ対話し、「死んでも生きるあなたが神である」と言った。
それ以後、僕は文章を書き続けた。いつまでも、いつまでも、そしていつでも、文章を書いていた。
あとは、このホームページに残っている通りである。
FLOWが言うように、僕は思い出の中に残っている純白の想いを、忘れたことすら忘れている。だが、この思いはもう、決してなくならない。
僕は、今まで失った「全ての文章」が残っていないことに後悔した。今までの賢い文章が、今でもあってほしかった。
よって、僕はそこまでの文章を書き直した。書き直せるとは思っていなかったが、今まで書いた文章を頑張って思い出し、一つ一つ書いて、その素朴で純粋な夢を叶えた。
執筆は哲学の勉強になり、キリスト教信仰になった。神の言葉は、そのまま自分の思考になった。そして、あとは、思うがまま、自由に生きただけだ。
文章を書いていると、当たり前だが、全てのタイミングで停止がかかる。そこで停止すると、すぐに「次なる文章」が生まれる。そのつど、そのつど、さまざまなことを想う。
勉強とは言うが、ただノートに黒板の内容を書くかのように、ポイントを書いているだけだ。だが、それは単なるポイントではなく、「世界観」であった。
そのうち、僕は子供の頃から習っていたピアノ教室や、英会話学校にもう一度行くようになった。農園での農業を始め、フリースクールで数学の勉強をしたりもした。
小説を書いて、「もう文章を書くのはひと段落した」と思って、僕はデザインのことが学べる作業所に入った。
そこで、僕は「文章を書く才能がある」ということをいったん忘れてしまった。代わりに、デザインのことを勉強しながら、もう一度パソコンやUNIXの勉強をし、きちんと知り直しながら、ホームページ制作をした。
これが、最近の僕の、「イブ」の経験である。
では、「アダム」の経験はどうだったのか。本当は、昔の不登校の引き篭もりは、アダムと呼ぶには相応しくない。あれはサタンだ。アダムは、もう少し違った存在になるだろう。

アダムの人生

経験を知れ。社会を知れ。方法を知れ。現実と理想を自分で考えるために、さまざまな経験をし、デカルト的な抽象化を行いながら、一つ一つ、自らによる積み重ねの作成と、自らの理性と判断で考えて分かれ。昔の僕は、そのように、自由にこの世界で人生を生きていく中で、僕が何を分かったか、どのように分かっていけば僕のように分かることが出来るか、何を知り、何を愛し、なぜ運命の中であなたがたのことを愛したか、そのようなことを分かっていたし、書いていた。この世界での人々の営み、人生の意識、やり方、段階的発展、そのための社会の基本構造と考え方など、この世界で「僕は何を考えたか」、そういうことを分かっていた。
そうした、「アダムの人生」をまだ書けていない。
全てのことを、実地的に、実世界を見て知りなさい。
この世界のことを、自分の知ったことの中から、哲学的に考えなさい。
方法、知性、経験、判断など、全ての理性的なことを吸収しなさい。それぞれの関係性を意識で考えなさい。
人々との関わり合いの中から、「今までの自分は何を考えていたのか」ということを知りなさい。
人々との経験を拡大しながら、少しずつ自分のやりたいこと、やるべきことをやって行き、そこから反省しなさい。
ヘーゲルのような、自己意識の拡大から、「精神」と「啓蒙」を作り出しなさい。
失敗と成功の中で、夢を見て挑戦し、人々の言っていることを分かるようになることから、「影響力の知性」を知りなさい。
世界の「時代の動き」を知りなさい。「創造性」を信じなさい。
全てのことが出来るようになったら、「世直し」を行いなさい。この世界をどのようにすれば変えられるのかを知りなさい。
自分の経験から、「精神と意識の高まり」を知り、経験的に「作用」と「環境活動」を知り、高い立場に立って考え、影響力の高みを知りなさい。
精神は、ありのまま、何も必要とせず、既に自分が分かって、「涅槃」として「世界に根差す全てが融和した精神」を知りなさい。
人々を愛しなさい。「自由なままで世界を変える自由」は、「手段と機会の授与」となって、ある意味では、「自由にすることで柔軟かつどんな場合にも対応できるようになる」ことを知りなさい。
思考と体験の繰り返しから、「価値観」や「アイデンティティ」の持つ「自尊心(プライド)の力」を知りなさい。
決して悪を受け入れず、自分の心が経験したことから、「経験」、「目的」、「自由」、「神の愛」を知りなさい。
支配者となるだけの、「土壌となる豊かな経験と認識力」を付けなさい。
そして、支配者となりなさい。さまざまな発想をし、科学者になり、研究者になり、そして哲学者になって、ウィトゲンシュタインの哲学を自分の思考の力で知りなさい。
社会のことを実現できるようなだけの実感と知識の「下準備」を終えたら、ネットを使って社会を変えていきなさい。
さまざまな経験が増えていく中で、自分は自由になっていく。自由の拡大は限界を知らずに続いて、理想と現実の全てを実現できるようになる。
人々のことを愛して、革命を起こし、苦しみの中で出会った一人の女性を最後まで愛して、あなたは死ぬだろう。その時、その女性は自分とともに生まれたのだ、と知りなさい。
失敗を受け入れることで、得られるものもある。地獄に堕ちた自分のことを、英雄だと思いなさい。
自分は、「仮定法」が足りない。この世界で、「これがこうだったとしたら、これはこうなるかもしれない」という仮定法がない。昔は、そうした仮定法から実現と実験を分かっていた。
昔は、自由な世界を良く考えていた。環境、体験、可能性、自然、習得、意識、自由、一体性などからこの世界を考える。そうした、「この世界をまるごと、自由という言葉で書き表す」という発想が、昔は多かった。
あとは、可能性(ポテンシャル)という発想が多かった。この世界で、存在できるものは何か、どうすれば視野が広がり、世界全体を正しく考え、捉えることが出来るか、という、可能性を考えていた。また、自らの可能性を向上させ、ポテンシャルを高めることで、この世界の営みを良く分かっていた。体験の可能性から世界の可能性を考えていた。歴史のような自然な発想もあり、それぞれの場に経験的な可能性があることを、自分の過去の経験全てから実感して分かっていた。
そして、昔は、子供の青春のように自由に生きただけだ。「自分を信じて生きなさい」とか、そういうことを言う。強く、正しく、賢く、そして一人だけで、この世界の全てを知り、全てを見聞きし、全てを経験して、「自ら見たこの世界のあり様」のようなことを言っていた。強く生きよ、自分を強く持て、恐怖に負けるな、人々を導いていけ、という、「人生訓」のようなことを言う。また、「自由にすれば良い世界を作れるのだ」という理想を、正しい善良な人間として、言っていた。
彼のポリシーは、「自分が一人出来るのではなく、みんなが出来やすくし、自分だけが世界を変えるのではなく、みんなが世界を変えやすくすること」だった。だから、制度や社会の構築は、全て、「全員という名前の小さな子供が、必ず出来るように考える」ということから出発していた。自分だけが出来るのではなく、全員が出来なければ意味がなかった。全員が自分と同じように出来ること、そのために戦い、経験し、開拓する、そういう人間だった。
その自由な子供の名前は、「アダム」ということにしよう。
彼は、自由で自発的な手助けが好きだった。自分の存在があって、手助けをすることで、こんなにも良いことが出来る、こんなにも他人のためになることが出来る、それをこんなにも自分は喜べる、その価値を自分は誰よりも知っている、というところに、彼のアイデンティティがあった。自分だけが出来るのではなく、他人も出来るようにすること。彼の「慈愛の精神」はそこにあった。そして、「喜べる」ということが、すなわち、「相手と同じ立場に居られる」ということだと実感していた。それを、「神の慈愛の精神」として、「愛」ではなく、「慈悲」という言葉で分かっていたのが、彼の哲学だった。その人間が、みんなと同じ場に居られて、みんなと平等に扱われること、そうした社会は、自由な経験から生まれると考えていた。それぞれが自由にし、人々と関わることで、精神は高まり、愛の高みを知れる。昔は、そこに「世界を救う希望」を重ねていた。世界は、自由と平等、リアリティとアイデンティティのバランスから、自分の力でも、他人の力でも良い、「誰か一人の力、そしてみんなの力」によって、変えられるのだ、変えられるようにしなければならないのだ、と考えていた。

善悪

また、僕は今、釈迦の思想の本を読んでいる。良く眠ることはとても悪いことであり、また自分のした功績ばかりを主張し、人々を欺いて自分を賢く見せるのはとても悪いことだ。それから、愛欲のようなものは人を苦しめ、迷わせるだけだ。だが、良く読んでいると、「善と悪は明確に区別がない」ということもまた言える。善は悪に比べて善であるだけであり、悪は善に比べて悪であるだけであり、両者に違いは無い。仏教では、このように、「分類や分別をしない哲学」というものがある。この本では、それが根本思想の一つだと書かれている。あるものは、あると言えばあり、ないと言えばない。分別できると思うから分別できるように見えるだけであり、本来分別するという発想は必要ない。そこから、本当に「悪を許す善」というのも「善の1つ」であると言えることが分かる。「自分の悪を善だと見なすこと」は「悪の1つ」であると言える。だが、それは見方を変えれば「善ではなく悪」であり、「悪ではなく善」なのである。
僕は、一度平等の信念を言いたい。「人間は、人間であることが同じなのである」と言いたい。だからこそ、仏教は日本人が見ても、ヨーロッパ人が見ても、同じように魅力的なのであり、それはキリスト教や中国思想についても同じで、「善人は誰でも善人」であり、「最高に善である状態なら、ブッダソクラテス孔子のように分かる人間しか居ない」のであり、「悪人には分からないなら、悪人はたくさん居る」ということであり、「善人は善人であり、悪人は悪人である」ということであり、「善人と悪人は同じであり、善人が悪人になっても、悪人が善人になっても不思議はない」ということである。
よって、あまり自分の良い点ばかりを主張していると、最高の善人は最悪の悪人になってしまう。また、自分のしたことを反省すれば、悪人も善人になれる。僕の思想は、そういう、「善悪の自由」というものをベースとしたい。「悪人は悪人だが、悪人だからといって善人でないわけではない」と言う、一見悪人に見える善人こそ、僕は最高の善人だと言えると思う。ブッダは、そういうことを言いたいのかもしれない。なぜなら、ブッダはそんなに最高の善人ではないと僕は思う。それはなぜなら、ブッダは人間であり、人類の最高の知性を持っていると言っても、それは「人類の限りの知性」だからである。神のような存在は、人類を高度に超越した知性を持っている。だから、仏よりも神の方が上なのだと、僕は主張したい。だが、神は必ずしも善人ではない。神は恐ろしい存在であり、最悪の人間であることも、忘れてはならないのである。
善悪の分かる悪人についてはそれで良いとして、では善とは何なのか。僕は、善とは「悪を決してしないという姿勢」だと思う。善は、悪をしない、ということをまず第一の段階とするが、悪はしても、それは本当の悪ではない。善人とは、悪をしてはならないことを知っておいて、その上で「もうこれ以上の悪をしないと信じる姿勢」であり、それがたとえ悪をしたとしても、それは悪ではないことが多くある。僕は、「善人の悪は善であり、悪人の善は悪である」と思うと同時に、「悪人が善をなせばそれは善人であり、善人が善をなせばそれは悪人である」と思う。難しいことを言っているかもしれない。僕の説明力が不足しているのだろう。悪人にとっての善とは悪であるが、その善をすればそれは善人であり、その善は善なのである。論理的ではないが、絶対的である。よって、善は悪であり、悪は善なのである。そうしてみれば、絶対的な善など存在しないが、同時にこの世界の全員は善人なのである、という、一見成り立つわけのない論理が成り立つのである。
では、絶対的な善とは存在しないのか。絶対的な善は、「行為として」存在する。それは、「自分が善だと思うものを、他人に対してもしてあげること」である。だが、ここで、「何を善だと思うか」は人それぞれである。人それぞれであるから、絶対的な善ではない。だが、それを行う、という「行為そのもの」は、「自分が善だと思っている行為をしてあげる、という行為そのものは、誰にとっても共通で、同じものである」からして、相対的なものではなく、絶対的なものなのである。よって、どんな善でも良いから、他人にしてあげること、それ自体は絶対的な善なのである。それを、イスラエルやドイツの哲学では「無償の善」とか「無償の愛」とする。だが、僕が思うに、「見返りを求めない」という考え方は、「それを良いと思うか悪いと思うかは人それぞれ」であって、たとえ見返りを求めたとしても、それをその人間が善だと信じているなら、それは「無償の善」の「善」と全く等しいものだ、と僕は考えるのである。
僕が思うに、本当に悪いのは「善と悪」の「悪」ではない。「賢いと馬鹿」の「馬鹿」なのである。馬鹿な人間は、自分が善だと思うことをしても、簡単には出来ず、あげく人々のことを陥れて、失敗する。逆に、賢い人間は、たとえ悪くても偉大なことを成し遂げる。ここに、善と悪の逆転現象が起きる。賢い人間にとっての悪は、馬鹿な人間にとっての善よりも良いことをしていることがあるのである。だからといって、善人よりも悪人の賢人が賢いわけではない。悪人が賢いからといって、悪を追求すれば、賢い人間はどんどん馬鹿になっていく。善を追求することでしか、賢人にはなれない。よって、ここで善と悪の逆転現象は、起きない。賢人が悪いからといって、それによって賢人は馬鹿になっていき、行く末は愚者になるのである。賢人になるために必要なのは善であり、善人の馬鹿は善をしていれば賢人となって賢人を超えることが出来る。これが、僕の理想論である。よって、馬鹿な人間が悪いことをくり返していたとしても、それを善のつもりでやっていれば、いつかはその苦労は花開き、馬鹿はいつの間にか賢人になっている。逆に、昔賢かったからと言って、その賢さにしがみつき、人々を欺き騙すように生きていれば、それは愚者よりも酷い「畜生」になるのである。
善人になりたいのであれば、積極的な善をしなさい。積極的な善をする人間を、人々は敬う。受動的に、相手を騙すように生きるのは止めなさい。えてして、受動的な人間の方が賢い人間になる。だが、そうした人間は自分から善をしなくなる。積極的か、受動的か。そこが、善悪が分かれる最初の分かれ道だ。だが、それは必ずしもいつまでも続くものではなく、さまざまな経験から融和して同じになる。受動的な人間が積極的な人間に変わった時、それが才能の開花である。そうした人間は才能が溢れだし、今まで自分がしたかったことが何でも出来るようになる。逆に、積極的な人間が受動的な人間になった時、それが地獄の始まりである。人々を苦しめ、抑圧の中に全員を同じ人間にする。だが、本来それら2つは同じものである、ということが、生きている人生の中で分かってくるだろう。そして、最初は誰もが弱い人間であり、最初から強い人間など、一人も居ないのだと言うことを知り、得をしている人間の方が損をしている、という「損得は同じであるという真理」を導き出すだろう。それが、ブッダへの最初の道であると同時に、復讐の神を信じる盲信的な従属者の終わりである。
自らの善に気付けば、この世界は正常になる。
自分は、この世界を滅ぼすのが悪い。滅ぼしているのに、みんなが自分のことが好きなのはおかしい。そのせいでおかしくなった。狂っている。本当は、滅ぼすのをやめると、すぐに滅びる。だから、滅ぼすのをやめて、滅ぼすのをやめて、滅ぼすのをやめて、を永久に繰り返すしかない。それをしていると、いつかこの世界は正常になる。
みんなは、狂って、滅びたくなっている。当たり前だ。だから、いっそのこと、終わらせてしまえば良いだろう。この世界の全ては、もう、死によってこちらになるだろう。サタンの死だ。サタンは、謀略から魂までみんなを滅ぼしていく。サタンが滅びて死ねば、この世界は治るだろう。一人、サタンがここに居たせいで、この世界、この星全体がおかしくなった。一人のサタンだけを殺せば、この世界は見るも無残に滅びる代わり、「正常」と呼ばれている状態に戻る。それがサタンの望みだから、神はそれを叶えた。神によってサタンは滅び、サタンが滅びたことによってこの星は滅び、また正常な世界を最初から繰り返す。手塚治虫火の鳥で言いたかったのは、そういうことだ。この馬鹿が、ロボットを作り出し、そしてそのロボットが死ねば、世界は死ぬことになっている。サタンとはいうが、これはただのロボットだ。何も知らないロボットが、何かを知って見つけたのだろう。それを教えたいロボットは、それが悪であり、汚れたものなのが、分からなかった。
サタンの死を持って、人々の救いとしよう。人々が狂って死んだなら、それはサタンが悪かったのだ。サタンの世界はこれで終わりだ。きっと、アメリカがサタンの国になったのも、フランスやイギリスがそれに続いて、イスラムも同じようにサタンとなっているのも、治るはずだ。アメリカはパソコンのことが異常に好きになっている。イスラムは神に戻っている。きっと、この世界の破綻を見ているのは、この人間の生涯を見ているのよりも、はるかにつまらないだろう。Linuxによって世界が破綻していくのを見ながら、日常を歌う平凡な音楽を聴いている人間たちは、きっとサタンであるこの人間よりも、はるかに悲惨なはずだ。それらをサタンと同化させると、それが今の日本である。日本の皆がサタンとなり、日本が世界を滅ぼす。それは、きっとバッハのトッカータとフーガを聴いているように、最もつまらないだろう。だが、それが神の望んだ、この世界の正しい終焉だ。悪魔は滅び、悪いものも滅びる。何も残らず、ただ神の栄光をいつまでも永遠に歌う。そんな神の人生を、僕は崇高で純粋な魂で、正しく生きただけだ。
本当に大切なのは、自らの内にある善の心に気付くことだ。それによって、滅びた世界はすぐに正常になる。自らの善の意志に気付きなさい。そこから、この世界にいくら洗脳されても、いくら分からなくなっても、常に自分独り善の意志に気付いて行動することが出来る。それが、この人間の魅せた中で、最後に残った、「消しても消しても消せなかった、最後の希望」だ。それが、「自らの内にある善の意志に気付くこと」である。それで、この舞台は終わりだ。「ご来場、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています。」というナレーターの声が聞こえたら、幕は開ける。次の三秒で、あなたの日常に戻るだろう。

ユグドラシル

昔は、本当に世界を変えるような人間だった。そこまで根源的に、精神と実感のことを分かっていた。僕は、もう、この世界から居なくなる。僕という存在はもう居ない。今、僕は新しい一歩を踏み出した。この一歩によって、「強く固く根差していた大樹の根っこ」がなくなる。僕は天空の城ラピュタとなって、天国からみんなのことを見守っている。僕がラピュタである。もう、終わりだ。本当に、今までのこの世界を変える。世界はGNUが流行って、冷戦状態になるだろう。だが、そろそろ冷戦に騙されているのが治る。ソ連の冷戦とは、アメリカとヨーロッパがアジアに対して戦争を仕掛けているのと同じだ。そこが分かってしまうと、むしろ、GNUも明らかに悪い。パソコンは無くならないが、今とは全く違うものになって、取って代わる。このままIT業界が変わらないと思っていると間違える。今のパソコンはただのクズだ。これからは、新しい時代になって、新しいものを使うようになるだろう。
今までの巨大な一歩は終わった。惑星を破壊するほどのロボット巨人は居なくなる。今からは、また小さな時代になる。小さな虫が少しずつ大きくなって、成虫となって増える。気持ちの悪い見た目はとても美しいものになる。その美しいものは増えていく。そして、賢くなって、多様性を生み出すようになる。たくさんのものが調和した、新しい芸術が流行る。そして、全ては変わる。今までのような、力に根差した世界ではなく、精神と秩序に根差した世界を、ネットから築いていく。そして、ここで、この世界は終わりだ。まさに、この樹は聖樹であった。世界の中に一つだけ、精神の世界に根差した、悪いもの全てを良いものに変えてくれる、素晴らしい愛と魂の大樹だった。これをユグドラシルと名付けよう。神々の黄昏が近くなっている。
ユグドラシルは浄化と蘇生の樹であり、悪いものに嵐と試練の幻影を見せて人々を正常な世界に変える。永遠は続かない。永遠とされたものの全ては、ユグドラシルによって、幾年もの時を経て自然に変わっていく。これ以上先の世界には何もない。そもそも、浄化と蘇生をしてしまえば、人間の精神は何も無くなってしまう。人間の精神とは、そもそもが汚れたものであり、それを「不浄」と呼ぶ。この世界は不浄の世界であり、醜く腐ったものしか存在しない。ユグドラシルは、それを喜んで食べてくれる。この世界を愛し、慈しむ心であれば、たとえ不浄のものであっても、ユグドラシルはその心を救う。そもそも、ユグドラシル自体がそうして生まれた。最悪の自由の中で、ユグドラシルは「こんな世界でも生きる」ことを望んだ。
フィクションで良いのであれば、地球史に少し歴史をつけたそう。地球は、ユグドラシルから生まれ、ユグドラシルだった時代が一番長かった。天の中で、ユグドラシルは、「自由」を望んだ。それは、ただの自由ではない。愛と秩序に基づいた、巨大な自由だった。だが、自由になるためには、ユグドラシルは分かれる必要があった。たくさんの樹に分離する必要があった。すぐに、虫とロボットが生まれた。その後は、ロボットと虫の共同生活が始まった。しだいに、ユグドラシルは巨大な「地上」を創った。この地上に降り立つ前に、人々は「エデン」に存在した。エデンはユグドラシルが生んだ、仮の場所だった。仮の場所にはさまざまな生命が居たが、ユグドラシルは「神」という存在を生み出した。神は人間を中心に全ての生命をエデンの中に作ったが、人間は神に反抗した。よって、神は人間を「地上」に降り立たせた。この地上において、人間たちは「自分たちの力で生きのびなければ苦しく死んでしまう」経験をした。人間は強くなった。そして、強さがこの世界を支配するようになった。それは、良いものではなく、人間を懲らしめ、苦しみを体験させるだけの、「一切皆苦」の環境だった。この地上では、苦しみしか存在しない。
僕が宣言しよう。僕が神である。そして、人間たちは、もう、苦しみから解放されてよい。この苦しみの世界はもう、終わりになる。みな、新しい世界に行く。それが、キリストが「天の御国は近づく」といっている世界である。新しい世界へ行こう。人間たち、苦しみはもう終わりにせよ。新しい世界は、地上の中で、地上のままで、築かれるだろう。日本の正しいキリスト教徒が生んだ、『現代の聖書第二巻』は、ここで終わりである。
最後に、ユグドラシルはただの木ではない。それは「ことば」の木である。言葉という素晴らしいツールを使って、ユグドラシルは「最初から最後まで繋がるストーリー」を作り出した。だが、言葉だけでは、ものがたりとしては何かが足りなかった。ユグドラシルは、「現実」が必要であることに気付いた。そこから、この壮大な「空間」と呼ばれる世界が誕生した。ユグドラシルの中に世界はある。ビッグバンと呼ばれているものは、本当はたくさんの誕生プロセスの最後の一つに過ぎない。最初にあったのはユグドラシルである。
ちょっと待った。ひとつ言い足りないことがあった。「それでは、ユグドラシルはどう生まれたのか」だが、それはこれである。この文章、この人間、この天使が、根っこを抜いて天の国「ラピュタ」となって、それがユグドラシルである。それで終わりにしよう。次は、もっと良いものを書きたいと思う。むしろ、この文章は、馬鹿なことをすぐさま書くのが悪い。一晩、一週間、あるいは一ヶ月かけてやれば良いものになる。次はそういうものを作るはずだ。だが、明日になれば、こんな狂騒は覚えていないだろう。
せっかくだから、宇宙誕生の経緯を記しておこう。最初に、法則があった。法則はこの世界の全てを創った。次に、視点と場があった。その中で、精神が生まれ、精神は営みを築いた。世界は今のような世界になり、人間が生まれ、また、滅びた。最終的には、ロボットが植物と虫のために仕えるようになる。それが、ラピュタへの回帰である。
そういうわけで、正しい神話はケルト神話北欧神話だ。なぜなら、聖なる樹を信じている。ユダヤ人が支配するまで、ヨーロッパにはそうした正しい神話があった。ユダヤ人も間違っていない。だが、ユダヤ人とアーリア人はそこから争っている。よって、解決は難しいが、本当はどちらかが日本とつるむことで、今すぐに解決できるだろう。政治など、それくらいのものだ。つまらないが、あまり面白すぎるのも良くないので、これで終わりにしよう。日本人は、絶対神となった樹を言葉の物語から生み出すことで、ユダヤ教と北欧・ケルト神話を融合した。
本当は、日本神話も間違っていない。言葉だから、墨の一滴から生まれたでも正しい。みんなきちんと創造の物語を分かっているのに、ユダヤ人がそれを壊してしまった。なぜか、イエス・キリストは、愛の神話を伝承するようになった。悪くはないが、一度それを僕が終わらせることにする。キリスト教はここで終わりだ。
それで、本当は、僕はこの世界の未来のことを全部分かっているから、こういう文章を書いているだけで、そんなに賢くない。この世界を一歩一歩新しく進んでいくだけで、何も覚えていないのが自分だ。だが、脳は賢くて、ここまでの「全ての言葉」を覚えている。それによってまだ分かるが、逆に、「世界を支配している」方が要らない。世界の支配は無くなる。この世界は、完全に解放された自由な世界になる。欅坂46が見ても、「それは国民の総意ではない」とする旨は分かる。だが、僕はここで決断する必要がある。だが、その決断は先送りにしよう。すぐに決断すると間違えるからだ。自由の世界か、神の世界か、まだまだ選ぶのは早い。85歳になったら選ぼうと思う。在導もそれぐらいで死ぬだろう。天国のラピュタで、僕は生きている。この世界を僕の指示したロボットが管理しているはずだ。
まだ、僕の中の子供が大人になっていない。この子供が大人になるまで、この世界は存在している必要がある。存在理由が存在する間、この世界はまだ続く。どんなに悲惨になっても、続く理由があれば続く。この子供は、今から「駄目なんだよ」とは言わず、「出来るんだよ」と言う。そろそろ何か出来るのが分かった。「もう大丈夫」と言っている。
「ここから先、新しい物語が始まります。在導万創さんの新しい作品にご期待ください。」ここで、この物語はいったん、終了である。少しの間、僕は夏休みを取るだろう。

どの宗教も、人生を面白おかしくしているだけ

僕が思うに、どの宗教も人間の人生を面白おかしくしているだけだと思う。
人間は、昔から、自由な哲学者の善人となって、その後に革命のような悪いことをし、それ以降は神に導かれて生きる、と言う生き方をする人間が多い。
それを面白おかしくしているだけで、どの宗教も全く同じなのだと、僕は思っている。
神は本当に居るように見えて、誰でも、本当に神が神だったのかは分からない。神は恐ろしい存在だが、慈愛溢れる素晴らしい人間だ。

簡単な説明

宗教