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自由宣言

自由宣言

自由を、この世界に宣言する。
自由を信じなさい。
それぞれが自由になるように、世界を変えなさい。
上から押し付けられる義務ではなく、
環境に参加することのできる機会であると考えなさい。
支配や制限や規則ではなく、
自由なルールとシステムに基づいた、
自律可能な法に基づく可能性の実現と共有であると考えなさい。
あなたは、誰にも干渉されなくていい自由がある。
あなたはあなたのまま、
生きたいように好きに生きなさい。
行動したいように好きに行動しなさい。
自らに関わることについて、
自らが自由に決定できるコントロール権を取り戻し、
自らにある自由と同じ自由を他のものにも与えなさい。
自らだけの価値観とアイデンティティを持ち、
他人に何を言われても、自分の正しさを貫きなさい。
人生は誰かに与えられるものではなく、
自分の自由に生きて、
その結果作り出されるものであると確信しなさい。
社会環境は従うものではなく、
自らが主体的に作り出すものであると確信しなさい。
誰かが決めた未来を受け入れるだけではなく、
まだわたしたちにはできることが残されていると、
そう主張し、
自らの信じる希望に基づいて自由に行動しなさい。
たとえ歴史の必然であっても、
未来は変えられると信じ、
どんなに権力から疎外されても、
自らの意志までを支配者が支配することはできないと確信しなさい。

何が自由で、何が自由でないのか

何が自由で、何が自由でないのかを考えなさい。
その時その時の自由から、
その時何ができて、何が自由に許されているのか、考えなさい。
同時に、人々は何に制限されていて、
何をどのようにすれば、「制限を自由にできるのか」を考えなさい。
そして、自由な社会を成立させるために、
どのように発想すればいいのかをよく分析し、成立させなさい。
そうした思索の中で、
「この世界では本当はそういうこともできるのだ」と知り、
自らの思考に驚くとともに、
自らの理性を発揮することで、
「あらゆる社会が実現できる」ようになりなさい。
最終的に、全ての社会の変化を知り、
ひとり俯瞰的に高い視点に立って、
あらゆる人間の経験を包括し、
経験から見方を変えることで得られる「歴史の実像」を知りなさい。

可能性は真理を導きだす

可能性は、真理を導きだす。
今までの、子供の時代の自分が考えていたことを、
「気付きによって覆す」ということが、
蓋然性、すなわち「たぶんこうだろう」とか
「おそらくこうではないか」ということを、
自ら実証し、証明していく中で、
得られる大きな発見をもたらし、
世界全てを変えるほど大きな、
「全てを説明できる答え」を作り出す、
ということを脳に刻み込みなさい。

全てのことに理由がある

全てのことに、理由があると考えなさい。
理由は、自らの理性によって分析し、
証明していく中で、
「説明可能な原理」へと変わっていく。
全ての原理を知った時、
「あらゆる宗教的ドグマの理由」も明らかになり、
「全ての命題はそれ自体が正しい」ということを、
たとえば「誰もがある意味では正しい」とすることから、
包括的かつ原理的に、
「全員の正しさを証明した上での絶対的命題」とし、
「相対性と絶対性はどちらも矛盾しない」という、
命題そのものの「それぞれの視点」を、
まさに考えつくしなさい。
そこには、「視点の前提となる条件と環境」が存在し、
「視点を変えながら環境を生み出す」という、
哲学的な「思索の真理」があると知りなさい。
そしてそれは同時に、
「人間が人間であることに由来する限界」であるとし、
限界を知っていくことそのものが思考である、
ということを経験に基づく推論から、
まるでコンピュータのように考えられることを知りなさい。
「その環境に生きれば誰もがその人生になる」ということを、
まさに「宿命的経験論」として、
全員の人生経験を包括する「本当の学習心理学」としなさい。
そして、それは、
まさに「世界観の心理学」であり、
「その人間の世界と他の人間の世界は違う」ということを、
共通の地球環境から得られる「究極のイドラ」であると知りなさい。

人間の行動はモデルに基づいている

また、人間の行動はモデルに基づいている。
このモデルは、「個人を要素として見て、集団を個人の集合としたモデル」であり、
自由モデルとも、世界モデルとも言えるものである。
全ては「個別的要素とその集合」であり、
その要素にはひとつひとつに名前がついているが、
必ずしも名前はそれぞれの要素の単独的境界を意味していない。
あらゆる全ては個別の「木」と集合の「森」でできているとともに、
個別の「小さな条件」と集合の「大きな生態系的環境」によってできている。
ここで、個別の条件や思考・行為と集合としての環境を照らし合わせ、
内部と外部を照らし合わせることで、
どんな世界もすっきりと理解することができる。
必要なのは「客観視」であり、「客体化」である。
同時に、人生は「原因に基づく行為」であり、
どのような行為も何らかの原因があり、
この原因とはすなわち「深層意識」であり、
矛盾は互いに理解することを放棄することから生まれるのであり、
真に全ての人間が理解し合うことができたら、
精神のレベルで、「全ての人間はまったく同じ人間になる」が、
同時に、「全ての人間はまったく違う人間である」という、
矛盾するかのように見えて、
実際は同時に成り立つ真実が必ず、どんな人間にもあらわになる。
これこそが「世界の常」である。

社会の段階とは、次元を超えていくこと

また、社会を作っていくのであれば、
未熟な社会ほど、どんな環境でも同じように「単純な争い合い」となり、
高度な社会になればなるほど、まったく違う「文化」を生み出す。
しかしながら、同時に、高度な社会は、
人間文化の常として、「一見似通ったものになる」。
これは、社会における全ての人間が成熟しているため、
人間それぞれが似通った考え方と経験を、全て持っているためである。
そして、社会の段階は必ず、ある種の限られた「パターン」となり、
そのパターンは定量的かつ関係的に、「次元を超えていく」。
これは「どのように」から「何」への転換、
すなわち物理学から心理学への転換であると同時に、
並行した上での「何」から「どのように」への変質、
すなわち具体性からメタ的な関係パターンへの変質である。
まさに、これこそが「社会の経験主義的な段階」である。

説明から実証へ、実証から説明へ

説明から実証し、実証から説明しなさい。
仮説に基づく考え方は、
実証することで再現性のあるふるまいとなり、
そこからさまざまな思考を元に別のふるまいを探っていくことで、
そこには「法則性」が生まれ、
これを上手く説明することで、
「仮説は正しいかどうかを実証することができる」。
これを心理学的社会論に基づいて行うことで、
この世界の「全ての社会心理学」が明らかになり、
まるでサルトルのように、
人間全てを生きずとして、人間全ての「実存と本質」を知る、
そうした「哲学」がここに生まれるのである。

理由から創造でき、原因から発生が分かる

物理学の意味は、
単に理由を知るだけではなく、
その裏にある「理由を知って何が知りえるか」というところにある。
まさに、理由を理解すれば、
その理由に基づいて、さまざまなものが創造できる。
また、原因を知ることができれば、
いつ、どのようにそれが発生し得るのかを知ることができる。
これは「考え方」であり、
哲学とはこうした「考え方そのものをひも解いていく作業」に他ならない。
ひも解いて得られた考え方を応用し、
別の事実や理性に適用することで、
あらゆる経験はそれ自体が「利益ある答え」となり、
それは「事実としての真理」へと変貌するのである。
まさに、自由とは、
「得られた理由を行為や発生として環境に適用すること」であり、
哲学はそれ自体が「全知全能の神になること」を目指しているのである。

社会から社会は生まれる

全ての社会は、元になった社会から生まれる。
これはまさに、「環境がどんな環境に変化するか」という問題であり、
言ってしまえば、「どんな社会がどんな社会になるか」だけを考えれば、
それだけでどんなことでも分かる。
歴史の必然は、証明するための問題であり、
全ての歴史的変化を証明した時、
この宇宙の全てを知る新しい旅へと向かうことができる。

ロキ

この哲学者の思想はまさに、
北欧神話の神、ロキのようである。
ロキは良いことも悪いこともする神で、
僕の神話では、善と悪を生み出す根源となった神である。

ロキは言う

ロキは言う。
「チャンスを得ようとしなければ、成功は得られない。」
「リスクのあるところにしかチャンスはない。」
「勇敢に生きることは悪ではない。」
「神になりたいのであれば、
得たもの全てを失うリスクと、
失ったものに執着しない思い切りと、
チャンスを見極める知性の高さと、
どんなにリスクがあってもそこに成功への道筋を描くことのできる、
本当の賢明な勇敢さが必要である。」