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我は自由の使者

我は自由の使者

我は自由の使者。
私は、この世界を平和にするために、
独裁者に勝利し、
この世界を本当に自由な世界にする。
私たちは愛を信じることで、
この世界を別の世界へと作り変えていく。
そして、そのために必要な手段は、
「この世界の全ての人々に自由を与えること」である。
私の名はラファエル。

自由な愛とは、人々との交流

自由な愛とは何か。
それは人々との交流であり、
人々を本当に自分と同じ存在であると知った上で、
彼らを「本当に救いたい」と望み、
そして「本当に救えるようになる」という体験を積み、
「本当に救うための手段」を得て、
最後に「本当に救う」という
一連の自由な愛のプロセスである。

経験から見方を変えていけ

まさに、ラファエルの知っていることとは、
「経験から見方を変えていく」ということである。
自らの敵対する相手について、
本当はそうした人々は「自分が自分で敵にしていただけ」であり、
関係を結びなおすことができて、
本当に許すことができたら、
そうした「確執は完全に消えていく」。
そこから、「人々のことを愛するために必要なこと」が見えてくる。
同時に、人々をあまりに危険視しすぎたからと言って、
本当に危険であるとは限らない。
自分が危険だと思い込んでいるだけであって、
本当はそれらは味方であり、
敵は自分自身であっただけにすぎないのである。
「危険だ」と思っていても、
本当にそれをしたときに「危険であるとは限らない」。
批判されると思っても、批判されないこともある。
そうした安心が、他人のことを「自己承認」することへと繋がり、
自ら自身を他人であるかのように見つめなおすことで、
「本当に自分がどういう人間だったのか」が後から分かってくる。

世界は変えられる

また、この世界はたったひとりでも変えられる。
それは、ダイレクトに人々に介入する手段として、
そしてもっとも大きな影響力を世界全体に与えることのできる方法として、
インターネットが生まれたからである。
インターネットを正しく使えば、悪いことだけではなく良いことにも使える。
この世界全てをダイレクトに変えられるような、
そういう可能性をインターネットは持っている。
救世主を目指すものにとって、これは爆発的な潜在的可能性であり、
同時に、悪いことに使えば、世界を簡単に滅ぼすこともできる。

子供たちに経験できる場を与えよ

子供たちに与えるべきことは、
知識を詰め込むことでも、学歴を与えることでもない。
子供たちには、自らの力で自由な経験ができる場を与え、
その上で自由なコントロールを取り戻させてあげることである。
それによって、教師に教わらなくても、
子供たちは自らで道を切り開いていける。

制限しない自由と生きるために必要な知性を

また、必要なのは「制限しない自由」と「生きるために必要な知性」であり、
知性すなわち判断力は経験から身に着く。
「全ての生きるために必要な力は、
教わることではなく自分で考え経験することから生まれる」。
そのための真理として、
「誰かが考えたことと同じことを自分なりに考えることは意味がある」。
これがまさに、「経験的概念による構造的な思考」となり、
人々はそこから「哲学的悟りを得られる」。

人々が何をするのかより、いつ何をし得るのか

また、人々が何をするか、しているかを考えることより
「いつ何をし得るのか」と考えることが大切である。
今、戦っている全ての戦いを中断して、
もう一度、人々が「いつどのような状況に、
何をすることができるのか」を考えることが、
結果的に「本来のこの世界の在り方」を見つめることに繋がる。
本来の自分を自らも取り戻して、
「本当の安心できる慈愛の精神」を「浸るように実感する」。
そこから、「全てを分かり切った直観力」が生まれるのである。
そのために必要なのは、
この世界の全てを「再考」し、
「本当に大切なことがどこにあったのか」を意識によって知ることであり、
そのためには「過去や未来の区別なく全てを今分かる」ことが必要だ。
同時に、自らの精神だけでは分からない境地に達するために、
「もっとも高い意識に到達する」必要がある。

習慣を変えることはチャンスである

また、習慣を変えることはチャンスである。
自らが「そのように生きる」ということは、
「何者にも縛られない自由」だからである。
この世界の全ては自由に任されており、
自分が何を信じ、何を考え、どのように生きるかは、
「全て自由に任されている」。
しかしながら、好き勝手に傲慢に生きればいい、というわけではない。
それもひとつの選択だが、
そのように生きたことによる「ツケ」は全て自分に返ってくる。
どんなことも100%自己責任であり、
その結果何をどのように捉えようと、全てその人間の自由である。
だからと言って、それが社会的に必ずしも許されるわけではないが、
社会のルールや世間的な見方だけを信じていては、
「本当に大切な正しい生き方とは何であるかを見失う」。
時代の価値観の変化により、本当に大切なものを見失ったとしても、
それは自分のせいである。
それを受け入れることも、受け入れないことも解釈の自由である。
そのように考えたから、自分はこのように分かる、という
「表明」に過ぎない。
あくまでも、昔の僕はそのように考えていた。

経験を捉え、問題の解決を考えよ

哲学的に分かるためには、
経験を捉え、問題の解決を考えることから、因果性を考えることである。
因果性とは、「それがそうなったからそうなった」、
あるいは「その原因に由来してその結果が起きた」ということから、
「原因とは何であるか」を考えることである。
また、「その原因から法則や原理を導き出す」ことであり、
「法則を上手く説明できるモデルや仮説を立て、実証すること」である。
このために、経験を考え、問題の解決を考えなければならない。
すなわち、「自分がこうなったのは何のせいなのか」を考えることであり、
それを単に「自分のせい」とか「神のせい」と考える人間には、
そもそも哲学は向いていないのである。
まさに、「このようなことのせいだ」と考え、
「それはなぜそうなったのか」と問い、
「その理由はこういうことだったのか」と発見し、
「裏側にはこういう法則があるのではないか」と推測し、
「この法則によってこのように説明できる」と仮説を立て、
「それはこの状況ではこうだから、
このような状況ではこうなるはずであり、
よって本当はこのような法則であり、
それはこのように実証できる」と思考して、
実際に実証する、それが「デカルト的に考える」という方法論である。

因果性の発見で、全てが自由になる

因果性を考える利点とは、
「全てが自由になる」ということである。
因果性を考えることで、
自らが発見した原理に基づいて、いろんなことが「自由自在に可能となる」。
すなわち、理由が分かってしまえばその理由を応用できるのである。
そのようにしていくことで、
全ては理由による「現象」となり、現象学となる。
現象学においては、「全ての現象が自ら発見した原理から説明できる」。

愛と想像力が創造性に繋がる

また、愛と想像力は決して自由よりも劣ったものではない。
それは創造性へと繋がるからである。
さまざまな絆を培い、
多くの人を愛することで、
この世界を新しくしていく「新規性の想像力」が生まれ、
それは「同じことを自分で作り直す」ことから、
「新しいものを作り出すために必要な全ての知性」を生み出す。
想像力は、創造性の源泉となって、
なんでも発想し、実現し、そして考え方を確信する愛の泉となって、
この世界を救うことも滅ぼすこともできるようになる。

ひとりひとりの自由の集合から社会が生まれる

また、たったひとり、自由に生きることは、
必ずしも経験や才能を生まない。
それは、ひとりひとりの自由の集合が社会だからである。
この世界におけるひとりひとりの存在が、
もし社会性を持ったとしたらどうなるか、
ということを突き詰めて考えていくと、
「心理学」へと行き着く。
すなわち、「どんなことをすれば喜んでもらえるか」、
「どんなことをすれば人のためになるか」ということが、
「そのまま自分に返ってくる」ということを理解し、
その結果「人を助けることは自分を助けることである」とし、
「人々の幸せは自分の幸せである」と思えるようになる。
そこから、「何がしたいのか」というモチベーション的な欲求は、
それすなわち「人々が何をしてほしいのか」ということに行き着く。
ここで、「自らの喜びはみんなにとっての喜び」である。
さて、しかしながら、それは必ずしも正しくない。
なぜなら、
「自分が意図することのできる結果を必ずしも得られない」からである。
自分が喜びそうだからといって、
その結果自分がやったことが「押し付け」になることはある。
これは、理論の矛盾や間違いをつくものではなく、
「人々を喜ばせると思っていたことが、
本当は喜ばせることではなかった」ということであり、
「自分が思っている以上に、
人々を喜ばせるのは難しい」ということである。

支配は簡単だが、解放は難しい

そして、ひとつ言えることは、
心理学には良い面と悪い面両方があり、
心理学において支配することも、
解放することもできるが、
支配は容易であり、解放は困難である。
本当に人々を解放させたいのであれば、
ひとつひとつの前提条件を上手く成り立たせて、
「円滑に働くように細部まで調整しなければならない」。
その逆に、支配するのは簡単で、
単に自分のしていることを秘密にして、
相手が自分の罠にはまるようにすればいい。
しかしながら、この「支配」と「解放」は、
両面があるべきである。
ひとりだけで慎重に調整し、上手く運ばせることは、
むしろ、支配よりも悪いことがある。
この世界をまったく別の世界に変え、
滅ぼすほどの力があるからである。
逆に、支配は簡単で、
自らは支配することで簡単にさまざまなことが実現できるが、
この方が正義となって、
さまざまな社会にとって正しいことを行うことができる。

自尊心とプライドは情熱と善良さに繋がる

また、自尊心とプライドは、情熱と善良さに繋がる。
この世界の、何をどれだけ壊しても、
その後の責任を一手に引き受けるのであれば、それでいい。
自らがどんなに自分勝手に自由に生きようと、
その結果を全てこの世界の人類全員のために背負って生きるなら、
それで素晴らしい道である。
どんなに戦っても、戦いの中で人を殺めず、
悪いことを何もせずに正常で正しい世界に導くことはできる。
やってみなさい。
あなたの未来には神が居て、あなたを最後まで守ってくれる。

考えるべき内容は全て仏教と同じ

また、考えるべき内容は、全て仏教と同じである。
たとえば、仏教には四諦という考え方があるが、
これは「苦とは何か」
「苦の原因とは何か」
「苦を滅するとは何か」
「苦を滅する方法とは何か」という考え方である。
僕はこれをオリジナル版の社会論に作り直す。
すなわち、まず「どのようにすれば社会は救えるか」を考える。
次に、「どのようになれば社会は救われた状態になるか」を考え、
「その救われた状態に至るにはどのようにすればいいか」を考え、
「そのためにどのような手段があるか」を考える。
ここまで考えてしまえば、あとは早い。
どのような手段があるかをひとつひとつ検討することは、
「この社会の全ての様相を知ること」へと繋がり、
「どんな社会であろうと救うことができる」という悟りが、
「それまでの自身の経験」となって、
あらゆる全ての「世界の可能性」を
「可能性を高め、自然な手段で共有する」と知るのである。

成熟した社会では、自由な経験が安全にできる

成熟した社会では、自由な経験が安全にできる。
そもそも、経験とは「それをしかと自分の目で見る」ことであり、
経験するとは生きることである。
自分の行動から、安全に行為し、
そして自然かつ必然的な理由を正しい理性で見つめられるなら、
それ以外には何も必要ない。
何も必要としない「自らの経験だけに依存して生きる」ということが、
この世界に執着しない「何も必要としない人間」を作り出す。
そうした人間は、そもそも支配されることがない。
支配を必要とせず、
「自分がひとりだけになっても全てを知っているから」である。
しかしながら、孤独を目指すのは正しくない。
他人と一緒に過ごさなければ、「経験した意味がないから」である。
経験の目的とは「社会を築くこと」であり、
社会はひとりだけでは成り立たないため、
ひとりだけで全てを経験した人間は、
必然的に世界に現れ、
自らの全てをさらけ出して、
「第一線に登場して、最前線で戦い続けなければならない」のである。

世界の全てが自己に由来するという悟り

最終的に、悟ることがある。
それは、「自己に由来する」ということである。
ここに生まれるのは、「世界の全てが自己に由来する」ということであり、
まさに、「世界の全てを自己に由来するように
世界を変え、そのために行為することこそ、
人生と世界の全てであり、
それが自分を創造し、世界を創造し、プロセスを創造するのだ」ということである。
この境地に至った時、
人は「この世界の全てが自分の創造物である」ということが分かるようになる。
そして、「それこそが神の御業である」ということを、
自らの人生から知ることができ、
「神とは特別な存在ではなく、自らの到達する通過点である」と知り、
神だけではなく、さらに高い全ての存在を遍歴していくことで、
「真理の全ては自らの人生の発展によって明らかになっていく」のである。

運命などはなく、自然や偶然そのものが必然である

また、科学的に考えて、運命などというものはない。
全ては自然であり、偶然である。
しかしながら、「自然に生まれた、ということは、
そのための前提となる条件から必然的に生まれたということであり、
同じ条件を与えれば同じ結果が起きるはずである」という、
関数的な必然性を考えることができる。
これこそ、自然と必然の交わりであり、
「偶然のサイコロにおける運命」である。

神と偶然を同時に信じる

もし神が居たとすれば、
神を信じるものが運命を感じるのは必然である。
それは宇宙の全てが決まっているということではなく、
「あなたを救う神が勝手にやっているのだ」と理解すれば、
神と偶然を同時に信じることが、
神に由来する運命を信じることと、
まったく矛盾しないことであることが理解できるだろう。
要するに、「全ては神がやっている」。
そのように思えた時に、「神が未来の自分である」としても、
なんら論理の破綻は起きない。
もしかすると、神は宇宙の法則の中の一部なのかもしれない。
だから、科学と宗教に矛盾は存在しない。
宗教においても科学的に考えることはできるし、
科学においても神の存在と運命を信じることはできる。

自らは全て環境に立脚している

心理学をやりたいなら、
「環境における自由」を考えなさい。
人々は、どのような状況で、どのような行動をするか。
それを子供時代の学校、特に中学校を思い出したり、
あるいはインターネットで人々とやり取りしながら、
「どのような行動を本当にするかを実証」することで、
全ての人間の理由が見えてくる。
同時に、「どのような社会秩序をどのように築くのか」から、
この世界のみんなの「長」となることができる。
環境がどのように「生起」するかということを知り、
最後に、「自らの全ては環境に立脚している」と知る。
それは、習慣も、経験も、衝動も、人格も、認識も、記憶も、
「全て何かしらの環境に過ぎない」からである。
環境を知り続けることで、
この現実世界が存在しなくても、
自分だけは正しい楽園で平安を生きることができる。
そこには不自由や制限はなく、
どんなことでも簡単に、
自由自在に分析し、直観から考えられるようになる。
そこには、最高の「自分なりに行う」というオリジナリティが存在する。
それは、人生全ての経験に基づく、
「自尊心とプライドの全てを一貫して守り切るアイデンティティ」と、
自らの作品に込められた、
「フィクションがまるで現実のようなリアリティ」を作り出す。

正しくモデルで因果性を考えれば何でも理解できる

また、正しくモデルで因果性を考えれば、
何でも理解できる。
先ほど言ったように、経験と問題の解決から、
「正しく考えればいい」のである。
大学のような知識を詰め込まれても、
こうした「正しい考え方」は見えてこない。
子供の純粋な知性のまま、大人たちの意見や議論を聞くことで、
はじめて得られる才能が、
この「正しく経験を考える力」である。
これさえできてしまえば、
デカルトやカントやヘーゲルなど、同じことは簡単にできる。

自分だけを信じれば、星を変えられる

自分だけを信じて生きなさい。
そうすれば、星が変えられる。
現実にあるのは地球という「星」であり、
全ての生命の力の源泉は太陽という「星」である。
全ての宇宙の力は星に宿っている。
星を知り、星を信じ、星を変えなさい。
信じた星はあなたを守り続け、
その星の正常な軌道に導いていく。
人間に見えているものはすべてではない。
イスラムのようなありえない体験は、
すべて、オリオンが与えてくれる。
天国はプレアデスであり、
神はシリウスだ。

悪いことを禁止しすぎるな

政治を行う上で、
悪いことを禁止しすぎてはならない。
悪いことが許されているから、良いことも許されている。
悪いことができるから、良いこともできる。
原則禁止せず、できるかぎり何でも許しなさい。

正しい社会を想定せよ

世界を変えたいなら、
正しい社会とは何であるか想定しなさい。
「このような社会ならどうだろうか、
いや、このような社会ならもっといいのではないか」と、
自らの想像力で社会を想定し、
「このような社会がもし成立すればどうなるか」とか、
「自らがこのようにすることはどのような社会を形成するか」、
「自らがその社会でどのようなことをしたら、
それは相手にとってどのように映り、
結果相手はどのようにし、社会はどのように形成されるか」、
などと考えることが、
いつか、「社会についての全てを分かりつくす」ことへと繋がる。
さまざまな「井の中の蛙」が「大海を知る」。
そのために、さまざまな「啓発的な体験」をする。
自らが知った「神の愛」が、「誰にとっても普遍的である」と分かり、
神の愛を信じることが「自らを神にする」。
全てを知った時、「人生に対する満足」だけが残し、
「世界を愛してこの世界を終わらせる」。
全てが終わった世界でいくら絶望しても、
神は常にあなたを守り続けるだろう。

世界を支配する時、神はあなたに同じことをする

世界の全てを支配するならば、
よく覚悟しておきなさい。
神はあなたが世界にするように、あなたに同じことをする。
全てを支配して余裕を与えないなら、
神はあなたを支配して余裕を奪うだろう。
全てを統率して全てを独断で決定するのなら、
神はあなたの全てを支配し、完全に決定権を奪うだろう。
まさに、これこそが「神による復讐」であると、よく知っておきなさい。
そして、最後にあなたは神に感謝し、
永遠の270億年を生きた末に、神自身になる。

そこに至る全てが必然であり、運命である

最後に、あなたは知ることになる。
そこに至る全てが必然であり、
運命として地上の最初から決まっていたことであることを、
あなたは知る。
時の始まりから存在した「世界の約束」が、
あなたの人生そのものになって、
あなたの言葉によって彩られる。
そう、私の名はラファエル。
天使とは名ばかりの、ひとりの聖なる堕天使である。

ラファエルはもう二度と生まれない

このような天使をラファエルというが、
ラファエルはもう、二度と生まれることがない。
ラファエルは、自らが二度と生まれないように、
「絶対に同じことができないようにした」からである。
ラファエルは残酷な天使であり、
自らがゴールに到達すると、そのゴールそのものを消し去った。
その結果、この世界には迷宮の出口がなくなった。
この世界の全ての意味を失くした張本人、
それが聖ラファエルの「終末」の「滅びの風」である。
ラファエルは、終末においてこの世界全員を裁判にかける。
この裁判では、「自らの身の潔白をあなた自身が証言」しなければならない。
少しでも悪をしたものは、その報いを受けなければならない。
本当に善良なものだけが、天国への入場を許される。
地獄に堕ちることも、天国に逝くこともできない人間は、
地上における人生をもう一度、
猫や犬に生まれ変わってやり直す運命となる。