わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

わたしたちは変わることができる

啓蒙

わたしたちはできる。
わたしたちは、変わることができる。
これこそが「啓蒙」である。
この世界は変えられる。
現に、科学技術やITが変えていく。
その科学技術やITは、
会社や資本主義によって
単に「わたしたちを使うだけ」ではない。
わたしたちは、それらをコントロールする。
わたしたちは、「わたしたちが使う」IT技術によって
わたしたちはできるということの「証明」とする。
そう、オープンソースはそのためにある。

わたしたちは変わることができる

わたしたちは、変われる。
一度失敗しても、
その失敗を反省して、
二度と同じことをしないということを誓い、
学習することができる。
学習することを忘れた人類など、
既に人類ではない。
それは妖怪か悪魔である。
間違ったことが間違っていることを受け入れる勇気、
それを賢者と呼ぶ。

文明は必ず進歩する

文明は、必ず進歩する。
その進歩は、富や力だけの進歩ではない。
いつから、発展という言葉は、
富や力だけの発展を意味するようになったのか。
それは間違っている。
僕たちは、本当の精神的な意味で、
資本主義の流行り廃りにまどわされず、
権力や資本にたなびくことなく、
本当の意味で文明は進歩する。
文明とは、そういうものである。

全ては変わる、ひとつとして同じものはない

全ては変わる。
ひとつとして同じものはなく、
同じに見えるものは全てが刻々と変わっている。
わたしたちの世界は、
今までの世界とまったく違うものになる。
そして、気付かないうちに、大切なものを失っている。

時はどんなに頑張っても停止できない

しかしながら、時は流れていく。
どんなに留まろうと頑張っても、時は停止できない。
停止しているかのように見える、
何もない変わらない世界においても、
さまざまなものが刻々と変わっている。
気付かないうちに、この世界はどんどん滅んでいる。
大切なものはひとつひとつ失われていき、
重要で価値あるものは悪魔のようなものへ変貌する。

必要なのは経験よりも気付き

必要なのは、
経験よりも、むしろ気付きである。
この世界がどんなものであるかを気付くことで、
「今までとは違った見え方を持つことができる」、
それこそが正しい経験であり、気付きである。
同じ環境に慣れきって、
涙を流すべきところで涙が出なくなるような、
そんな悪の経験は、最初から必要ではない。

啓蒙は扇動ではない

啓蒙とは、「このようにも見えるのか」と
見方を変えることであり、
決して人々を煽り立て、扇動し、
心理学的に世界を支配することではない。

理想がなければ、自分の力を発揮できない

また、理想がなければ、そして理性がなければ、
自分の力をいかんなく発揮することはできない。
「けた外れのエネルギーを発揮するためには、
けた外れの情熱が必ず必要である」。
理想と理性を持て。
そのことによって、正しい情熱が純粋できれいな心に宿る。
邪悪な心に、情熱の魂が宿ることはない。

世界の全てを知った時、科学の意味が分かる

世界の全てを知った時、
この世界における全ての経験から、
「科学の本当の意味」が分かる。
学校で習った科学や歴史の意味が、
本当はどういうことを意味して教えられていたのか、
何が本当に大切な科学的知見だったのか、
世界の全てを知った時、
始めて自分で気付く、そのような体験ができる。
それは「自然なる可能性」と呼ぶべきものであり、
「同じことを再度自ら発想する」という世界観である。

人々は間違っていない、ということに人々は気付いていない

そして、人々は間違っていない。
どんな人間も、間違っている人間など居ない。
しかしながら、人々は、そのことに気付いていない。
この世界において、敵対や未熟さが多すぎて、
人々は未熟な人間が嫌いになるが、
そうした未熟な全ての人間に理由があり、
誰しもがその理由に照らし合わせれば、
誰も間違っていないのだ、ということが分かる日が必ず来る。
同じことを分かっている人と心を通わせることで、
理解は確信へと変わる。
それこそが「青春」である。

分かってしまえば、全てのことは説明できる

分かってしまえば、全てのことは説明できる。
それだけではなく、理由や法則を応用することで、
「自らが自由に生み出すこと」すらできるようになる。
説明できるようになり、
生み出せるようになれば、
変えることも、発明することも、
「自らがそれを目的とするような
理想や信念を持った人間になること」もできる。
「全ての理想を持った人間」になることすらできる。
その全ての理想こそ、
「この世界全てを変えることのできる希望」であり、
それが救いであり、
そして人々のことを吸収すればするほど、
「本来の自分に立ち返ることこそが幸せ」であることに気付く。
そして、「ありのまま生きること以上の幸福は無い」ということを、
僕は胸に刻んで生きることにしたのである。

社会を築くために

社会を築くために必要なのは、
まさにありのままを愛することである。
ありのまま、今の社会のそのままでいいとすることこそ、
もっとも大きな変革のエネルギーとなる。
今の社会を維持することができなくて、
どうして新しい社会を築くことができようか。
安定した世界で、
人々に嘘をつかず、秘密にせず、ありのままを見せつければ、
人々は「自分から積極的に行動する」ようになる。
この積極的な行動のためには、
むしろ、宗教が害悪になる。
宗教は、「現状で満足してしまい、世界に作用することがなくなる」。
よって、宗教は間違っている。
この世界の全てを変えることができるためには、
宗教や革新派だけではなく、穏健派の保守も必要である。

ひとりの独裁者だけではなく、それぞれが自助の精神を持て

また、ひとりの独裁者が全てを為すことは、
現実的に不可能であり、
人類がこれほどに人口が膨らんだ現代社会では、
ひとりひとりが自分のことを行わなければならない。
ここで必要なのは、「単純と高度さを併せ持つ柔軟さ」である。
すなわち、単純なルール、単純な取り決め、
そして単純な「自由の理想」こそが、
もっとも多様性のある柔軟で高度な社会を築く。
そして、そこには、
「常に反省し続ける自浄作用」が必要であり、
改善と反省の積み重ねこそ、
正しい社会を築くことのできる最大の力となる。
そして、改善と反省を行うためには、
「捉え方を変えること」が必要であり、
実際、言葉や机上の空論を行うよりも、
実際にやってみて、
「現実世界においてどうなるか」を試し見る必要がある。

まだ誰も経験したことのない経験、それは暗黒物質

まだ、誰も経験したことのない経験を、
大実験や大発展を、
僕は計画し、実践し続けてきた。
その結果、この世界において
「もっとも巨大な暗黒物質を作り出した」。
この暗黒物質は暗闇だが、
実際は透明な空間であり、
ここに光を灯せば、「ごみの山は偉大な宝の山になる」。
そう、僕はそうした奇跡を生み出すことが得意だ。

戦争とは言うが、危険な綱渡りを続けただけ

また、戦争とは言うが、
実際は危険な綱渡りを続けただけである。
インターネットとマスコミを支配するその綱渡りは、
一度として世界に自分の本当の姿を見せることがなかった。
そのため、この終末を告げる最後の戦争は、
自分にしか「本当は何があったのか分からない」。
だが、僕は分かっている。
僕だけは、この世界が今どのような状況にあるのか、
それがなぜなのかを知っている。
そして、運命の「時の流れを失った戦争」は、
まがいものの記憶を作り出し、本当の記憶を奪っていった。

自由を成り立たせるとはどういうことか

自由を成り立たせるとはどういうことか。
それは、「自然な可能性と変化を受容し、
その受容のもとに世界全ての自由を成立させる」ということである。
要するに、簡単に言えば、
「みんなが自由になるように、
そしてみんなの自由によって社会の変化が成り立つように、
国家のモデルを作り上げる」ということである。

自然な可能性と変化の受容とは

自然な可能性と変化の受容とは何だろうか。
要するに、「相手のコントロールを許す」ということである。
つまり、信頼である。
「相手が自分と同じ自由を得られるようにし、
相互に承認した上で、
自らの自由と相手の自由を相互に許した上で
みんなで自分勝手な自由だけを放棄する」ということである。
また、それは同時に「社会自体の変化を受容する」ということであり、
社会を支配するのではなく、
人々に社会を自らの手で変えていく、
「自由な支配力」の受容を与えるということである。
そして、そこには、支配の罪悪感ではなく、
人々が自らの社会を自らのものであると言えるような、
アイデンティティ
すなわち誇りと希望が必要である。

神は未来を知っている

実際、僕は運命論をそんなにいいものであるとは思わない。
出会う前からRADWIMPSや米津玄師が自分のことを知っているのは
気味が悪いし、
この世界の全てが最初から決まっていると考えると、
夢も希望もへったくれもない。
しかしながら、神は未来の全てを知っている。
どんな未来のどんなことであろうと、
神は過去の時点で全てを予知した対話をする。
神の言葉を信じるものは、
預言者」であると同時に「予知能力者」である。
そして、神を中心に、そうした運命は起きる。
神以外のものは中心となりえず、
どんな場合や状況においても、運命では神が中心となる。

善悪と判断力による希望の確信は、自分を世界自体に帰依させる

また、善悪と判断力を経験と、
「新しい世界を知っていく道」から確信する、
希望の確信は、
自分を世界自体に帰依し、
「この世界こそが自分なのである」ということができる。
自分は世界の一部であると同時に、
世界は自分の一部である。
それが分かった時、「人間は世界存在である」と言え、
そして、世界存在を変えることができる存在こそが、
自由な存在であり、
チャンスを実現することこそ、
「他人を手助けすることである」ということが見えてくる。
すなわち、世界存在とのメッセージのやり取りこそ、
この世界における生きる意味であり、
それは経験と自らの生きた世界によって培われた、
善悪と判断力からなる、
「見返りを求めない、無償かつ無条件な手助け」なのである。

独自のリアリズムな歴史観

また、僕は独自のリアリズムな歴史観を持っていた。
すなわち、「歴史に残ることがすべてではないが、
歴史において起きた全てのことには必然的理由がある」ということである。
この世界にあったものは、
歴史に全て残っているとは限らない。
文献や書物が歴史ではなく、
地球もしくは宇宙にあった時間と全ての事実が歴史であり、
その「本当の歴史こそが歴史」であると同時に、
「本当の歴史においては全ての歴史に理由がある」。
そのように考えることで、
本当にこの世界がここになぜあるのかが見えてくる。
そう、「私たちはどこへ行くのかは分からないが、
どこから来たのかは分かっている」。
しかしながら、リアリズムという観点から言えば、
この世界の歴史は決して誰かが知ることはできない。
「誰も知ることができない」ということを、
哲学では「不可知」と呼ぶが、
僕は歴史だけではなく、様々なことに対して、
この「不可知」の考え方を導入する。
これは決して、「知ることができないと諦める」ことではなく、
歴史や宇宙が「本当は違うものなのだ」と
「常に自覚して捉え直す」ことである。

考えて分かることよりも、実践して分かることの方が多い

また、考えるだけでは分からないこともある。
考えて分かることよりも、実践して分かることが多い。
しかしながら、「経験は一生物の宝」であり、
一度経験しておくことが、
あとあといい結果を生み出すことがある。
どんなに愚かなインターネットの経験でも、
IT技術を勉強する上で、
自らの狭い知識を広くする、
「案内ガイド」と「拡大レンズ」の役割をしてくれる。
他人が見てどんなに知ることが不可能に思えても、
過去に一生物の青春の経験から世界を知っているものにとっては、
逆に知ることは簡単で容易いものである。
そして、何かを自分で書こうと思う時には、
適切な文書を読む必要があるが、
そうした時に、どんな知識であろうと、
ごみのような経験であろうと、
役に立たないものは決してひとつもないのである。