神々とともに生きる詩人

一等星シリウスの導きを信じて

作家・デザイナー。Assyのリベラル文学研究所もご覧ください。

絶望の中には愛がある

絶望の中に宿る真実の愛

絶望の中には、愛がある。
絶望の中に宿る、真実の愛こそが、
自らを新しい人生の境地へと進歩させる。
そう、絶望の中で愛を信じよ。
それこそが、この世界における無償の愛、
「引き換えに何も必要としない、
一方通行の無条件な愛」を生み出し、
この世界を希望の世界へと変える役割を担う。

無意味だったように見えて、自分には使命があった

そう、戦いも人生も全てが無意味だったように見えて、
決して無視することのできない、
「大きな役目」が自分にはあった。
これは神に約束された使命であり、
世界の隅っこで生きながら、堂々とこの世界で対峙する、
「本当の人生」が自分にはあった。

世界の生まれ変わりを告ぐ

この世界に最後に告ぐ。
この世界は、生まれ変わる。
一度馬鹿に戻って、最初からやり直せ。
心を開き、
我慢するのをやめ、
馬鹿な精神を増やせ。
それによって、どんな病気も治るであろう。

ただのもの、ただの知識に直すと、驚きがなくなってしまう

ものをただのもの、
知識をただの知識に直すと、
驚きがなくなってしまう。
「本当はこういうものだったのか」という驚きが、
大学を卒業して、大人になると、
逆に分からなくなってしまう。
大切なのは、「今までと違う見方をすること」。
それは単に考えることだけではなく、
「世界自身の本質を知ること」である。

必要なのは、思い付きの前提となる構造

考える必要があるのは、
「思い付き」である。
それも、思い付きの「前提となる条件や構造」を
考える必要がある。
誰がそれを思いついたのか、
それを思いつく上で、
理性や世界のどのような経験的構造があったのか、
それを考えれば、
この世界の「様相」と「仮象」が見えてくる。
世界の果てまで、僕たちは辿り着ける。

人々はそれぞれ違う

人々は、それぞれ違う。
人々は、それぞれ違う世界を見て、違うことをしている。
一生の中で、一度も関わらない人も居るかもしれない。
それでも、僕たちは同じ知識や経験を共有している。
同じ常識をもって、同じ世界で、同じように生きている。
自由な世界が正しい人も、そうじゃない人も居る。
それぞれの違いを尊重しなければ、
この世界は破綻してしまう。

ソーシャル・ディスタンス

人々が平和に生きられるための条件とは、
それぞれの違いを尊重し、
社会全体を多様性のある共存の自由にすることである。
そのためには、社会的境界や離別、
ソーシャル・ディスタンス(社会的な隔たり)も必要だ。
みんなが同じであることは確かに良いことかもしれないが、
わたしたちはそれぞれの個人の自由を許すために、
それぞれを干渉されないように離別させる必要もある。

自らの自由がなければ、戦いは地獄になる

自らの自由があれば、戦いといっても楽な戦いである。
いつでも逃げることができて、
戦いに勝っても負けても常に変わらないならば、
誰だって楽に戦いが経験できる。
しかしながら、愛のバラにはトゲがある。
戦いばかりを経験するものは、
自らの自由を失った地獄の戦いへ、
必ず導かれる。

安心したいならいつでも安心できる

安心したいと願うなら、
本当はいつでも安心できる。
自分の間違った欲求を棄て、
宇宙に判断を委ねればいい。
宇宙は自らの心と精神を楽にし、
「そのままで無条件に許してくれる」。
これが、自由である。

自分だけで判断しようと思うほど道は険しくなる

しかしながら、宇宙に判断を任せることが
できない状況もある。
そのような時、自分だけで判断しようと思えば思うほど、
地獄は険しくなる。
だからといって、感情のコントロールを放棄してはいけない。
やるべきことは最後までやらなければ、
達成と解放は訪れない。

子供たちのためにこの人生を選んだ

僕が子供の頃、
僕は「真実と自由が欲しい」と思っていた。
学校で学ぶのが嫌だった僕は、
「学校は真実を教えてくれない」と思っていたし、
その結果、やみくもに反抗する友人たちを見て、
「自由が無いからそのような反抗をするのだ」と思っていた。
子供たちは、真実と自由を求めている。
そして、彼らを救うためには、
彼らの代表である僕が彼らのために考え、
行動し、経験し、熟慮と判断を重ねて、
彼らのために教えなければならない。
友人からいじめられる僕の友人たちに、
僕は愛と自由と勝利を与えるために、
この世界で心の本質について考え、
環境における真実の実現や形成の方法を悟り、
人々に啓蒙すること、
そのために僕はこの孤独な人生をあえて選んだのである。

僕は世界の真実を知りたかった

また、僕はこの世界の真実を知りたかった。
この世界がなんであるのか、
そのことに対する答えを知りたかった。
それについていえば、まだ答えはでていない。
この世界が何なのか、僕はまだ何も分かっていないから、
僕はまだ生きる理由があるのである。

人生とともに変わっていくもの

また、人生とともに変わっていくものがある。
「段階」と言ってもいい。
まず、最初は友人たちへの「愛」があり、
次に、「自己放棄」した上で大切なものを見つけ、
夢に向かって「大いなる意志」を抱き、
その夢の実現のために「環境を出立」する。
そして、人々を見るにつけ、
「理性」を信じて全てをひとつひとつ知っていき、
そこから「価値観の変化」を体験して、
「経験」を信じるようになり、
「社会がそのように行き着く先」を見るようになって、
「必然性」を信じるようになる。
しかしながら、それだけでは人生は終わらない。
「大いなる俯瞰的視点」を得ることになり、
「それぞれの自分勝手を許さない」ようになると、
逆に「たったひとりの王」となって、
迷いの末に「自らの判断を放棄」するようになり、
「もう一度神の存在を信じる」ようになる。

全ての世界を知ることから、経験的地平が見える

しかしながら、そのような段階の常にあるのは、
「主体的理性に基づく世界知識の拡大」である。
全てを意識の高まりとともに知っていき、
それぞれの個人個人の「経験」を「アイデンティティ」とする中で、
人々の「存在を吸収」し、
その上で「自らのアイデンティティを形成」する。
そこには「意識と環境の関わり合い」があり、
「チャンスの実現」を知ることで、
「自由自在に環境を実現できる」ようになる。
そして、最後に、
歴史における「本当の営み」を知り、
全ての可能性が「ありのまま」となって、
可能性は「全員によって平等に実現」され、
同時に「全員が必ずここに到達すると確信」するほどの
「経験的地平」を知ることができる。
そこでは、全てが「直観的感覚」であり、
全ての「自由」がそこに存在する。
全ての行為は「知った上で、自由な上で変えられるようにすべき」であり、
そこにはあらゆる「制度の設計」があり、
そのための「手段や前提となる経験」は「全て自分の内にある」。
そして、この世界において、正義とは自由であり、
人々との間の「交流の共有」であると悟り、
「人々を変えられることこそが知性である」ということを知る。
これが、「仏」である。

思考実験

人間の思考実験は、
精神の現象を捉えるところからはじまり、
仮説を立てて証明することから、
社会がその社会に行き着く理由が分かる。
そこから、社会をどのようにすれば実現できるのか、
また、心の裏側にある学習と行動の「本能」は何なのか、
見えてくる。
経験から見方は変わっていき、
環境における変化は、
社会や世界そのものの自然な変化を捉えていき、
それらすべては意識の可能性となって、
自由自在な理性となる。
王は世界に現れ、
全てを滅ぼそうとするが、
その先に栄光の未来があると信じるかのように、
神は永遠を信じる彼に対して、
未来とそれを予言する言葉を与えるだろう。

サルトル

サルトルが言うように、
理性とは集団における客体化に過ぎない。
その自由を保留し、必要となれば行使すること、
それこそが自由である。
自由とは同時に、みずからの本質を決めることであり、
「本質が決まっていなくても、本質があるかのように扱われる」ことこそが、
サルトルの言う自由の刑ではないかと、僕は思う。