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世界平和を信じる

世界平和

僕は、世界平和を信じることにした。
自由な上で、戦いや争いを信じる必要はない。
みんなでひとつになって、
この世界における争いごとを無くしていくために
率先して努力しよう。

文化的なものを作ろう

平和を信じるだけでは物足りないと言うならば、
文化的なものを作ろう。
舞台、歌、曲、物語、建築物、衣服、料理などを作ることで
日本という国はもっと魅力的な国になれる。

外国人と仲よくしよう

僕は英会話学校に行っているが(今日も行ってきた)、
外国人は日本人と何も変わらない。
日本に来ている外国人が日本が大好きであることもあって、
さまざまなコミュニケーションも通じるし、
心も通う。
外国人と仲良くしていこう。
戦争になってしまうと、
このような交流はできなくなってしまう。

英語は単語ひとつを大きくはっきりと発音すること

また、英語のコツは、
単語ひとつひとつの発音を、大きくはっきりと言うことである。
単語ごとに、「パックト」とか、さまざまな日本語にはない発音をする。
この「単語ごとの日本語にはない発音」が言えるようになれば、
英語は話せるようになる。

自由と平和がなければ無意味な世界になる

僕が思うに、自由と平和があるから、
この世界の普通の日常があるのである。
相手のことを好きだとか嫌いだとか言えるのも、
自由と平和があるからである。
そして、自由は世界平和のための自由であるべきであり、
利益追求、金儲け、ビジネス、利潤と利権をめぐって争う、
「金の亡者」「拝金主義」のような自由は必要ないのである。

自由のない平等も平等のない自由もどちらも悪い

また、平等は間違っているわけではないが、
理性がない。
不可能な平等をいくら目指しても、
現実には、手助けできる量よりも、手助けすべき量の方が多い。
自由のない平等も、平等のない自由も、どちらも悪い。
平等を目指すのはいいが、自由との両立は難しい。

しかしながら、できる範囲で弱者を助けていこう

しかしながら、僕は弱者のことは好きである。
僕の職場も障害者施設であり、
デザインの勉強を就労支援としてやらせていただいているが、
人生に必要な多くのことを教えてもらったし、
とてもいいスタッフに巡り合えた。
このような施設は必要であり、
決して無駄な施設ではない。
弱者のことを助けるための事業は必要である。

GPLの意味は、自分のものにせずに共有すること

僕は、GPLはまったく自由なライセンスではないと思う。
それは、自由なライセンスではなく、
共有のライセンスだからである。
誰も、コードを自分のものにすることはせず、
広く公共のために公開し、
そのコードを別の人が使っても構わないとすることで、
コードを共有する「巨大な共栄圏」が生まれる。
これがGPLである。
Red Hatが作ったコードを、他の会社も使うことができ、
逆に、コミュニティが使ったものを使って
金儲けやビジネスをやってもいいのである。
この「共有のコミュニティをグローバルに築く」ことができる、
ということが、GPLの本質であると思う。
GPLの強制力は、
この巨大なコミュニティに「参画する」ということである。
GPLコードはパブリックドメインと違い、
自分の著作物の一部に含めることはできない。
GPLコードを含むコードは必ずGPLでライセンスされる。
これが、巨大な共有財産を公開・提供・共有する、
オープンソースコミュニティとなるのである。

Linuxはごちゃまぜであるところが優れている

また、FreeBSDなどの
「OS一式を全て同じプロジェクトで開発する」モデルとは違い、
LinuxGNU/Linux)は
さまざまなソフトウェアプロジェクトの成果のごちゃまぜなのだが、
この「ごちゃまぜ」であるところが優れている。
インターネット上にオープンソースプロジェクトは「分散」し、
それぞれがGPLあるいは
パーミッシブライセンス(BSDやMITライセンスのような緩いライセンス)で
公開され、それらを取りまとめて
ディストリビューションがシステムを作る。
このモデルは、安定したOSを作るという面から言えば「複雑すぎる」のだが、
大きなひとつのコミュニティとして、分散したプロジェクトが存在するという、
すなわち「共栄圏」を作るという意味で言えば、
むしろ、ごちゃまぜであることこそが優位性なのである。
これは、Windowsフリーソフトと似ているが、
Linuxオープンソースは全てがオープンソースライセンスであるため、
再配布が自由に許されている。
だから、Red HatDebianのパッケージとして、
時には改良を加えたパッケージをたくさん再配布して提供できる。
このモデルは、一見古く見えて、本当はインターネットとの親和性の高い、
新しいソフトウェア開発のモデルとなるのである。

コンピュータを使う権利はみんなにある

GNUFSFの言う自由とは、
要するにコンピュータを使う権利がみんなにあるということである。
プログラムとは要するに「命令の羅列」である。
どんな風にコンピュータに命令するか、
ということを決めるのはプログラマであるよりもまず所有者である。
プログラマがプログラムの命令の変更や決定を「独占」するのではなく、
コンピュータのユーザに広く「公開」することは、
必ずしも必要ではないかもしれない。
しかしながら、そうしたことができるような自由な権利のあるソフトウェアが、
ひとつやふたつあったとしても、
コンピュータユーザのためにならないことはないだろう。
Windowsは確かに、会社の作った信頼性のある商用ソフトウェアで、
経済にも技術にも貢献しているが、
ソフトウェアの中身を自分で見たり、
研究したりすることができる「自由」には貢献しない。
それなら、そういうフリーなOS、
まさにそういう権利が「かつてあったUNIX」のようなOSを
みんなで作って配布しようと考える集団、
それがGNUであり、FSFなのである。

オープンソースでみんなで作りましょうという理想

しかしながら、そうした精神的なことを言うGNUとは違って、
LinuxMozillaオープンソースは若干違う。
LinuxMozillaは、
「みんなでソフトウェアを作りましょう」ということであり、
オープンにすることが、そのままソフトウェアの品質に繋がるという発想である。
たとえば、Linuxカーネルi386だけではなく、
AlphaだろうかPowerPCであろうが、
貢献されたコードの中で使えるものはどんどん取り入れる。
最近は金儲けのために作っているという人もいるかもしれないが、
基本的に来るものは拒まず、去るものは追わず、
善意のボランティアで貢献されたコードはなんでも取り入れる。
これがインターネットの「誰でも関わることができる」という特徴に重なって、
ソフトウェアが「どんどん進歩していく」ということ、
そうした未来志向の考え方がオープンソースであり、
本当のことを言えばLinuxオープンソースGNUフリーソフトウェアは、
まったく別の考え方なのである。

フリーソフトと似ている点・違う点

一般的に「無料で使えるソフトウェア」とされるフリーソフトと、
フリーソフトウェアあるいはオープンソースは、
似ているところと違うところがある。
似ているところは、
「自分で作ったものを配布します。
責任は取りませんし、保証もしません。
勝手に使ってください。」
というフリーソフトに対して、
オープンソース
「さらに設計図であるソースコードも添付して公開します。」
という考え方を付け加えたものであると言える。
違うところは、
フリーソフトはあくまで「無料」であり、
フリーソフトウェアオープンソースは、
コンピュータユーザーの「自由」を意味している。
だから、オープンソースソフトウェアを使って、
無料でなく商用で儲かるようなことをしても構わない。
しかしながら、これはGPLでは現実的には難しい。
GPLソフトウェアは、GPLで定める「再配布」や「コピー」の自由を
必ず与えてソースコードを公開しなければならない。
しかしながら、BSDライセンスのようなパーミッシブライセンスは、
自分でコピーを再配布する際に、それを同じライセンスにしなくていい。
ライセンス条項を表示し、著作者を明記するならば、
必ずしも同じようにソースコードを公開しなくていいのが、
BSDライセンスやMITライセンスの特徴であり、
こうしたライセンスもオープンソースであると認められている。
しかしながら、FSFGPLを適用すべきであるという主張もあり、
たとえばUNIXにおけるX Window System
多くの商用UNIXでは、
もともとのMITライセンスのようなフリーなものではなく、
ソースコードのないプロプライエタリ(独占的)なものだった。
このような形態でGPLソフトウェアを配布することはできないため、
GCCなどを商用UNIXたとえばMacに搭載したいなら、
必ずGPLでそのユーザー向けにソースコードを公開しなければならない。
この強制力は必ずしもベンダーにとって「損」であるわけではない。
たくさんの企業の改良した改良部分を公開させることで、
それがアップストリームに共有されれば、
別の会社が改良されたコードを使うこともできる。
これは「権利を奪う」のではなく「権利を共有する」ということであり、
みんなで権利を与え合うことで、
結局みんなは共有財産から最大限に「得」をするのである。

オープンソースでは、損をする人間が居ない

また、僕の個人的な考え方を言うと、
オープンソースでは、損をする人間が居ない。
ソフトウェア制作者は、
自分の使いたいコードを作ればいいのであって、
自分で作った「自作版」あるいは「改良版」を
公開するかしないかという問題であり、
自分ひとりでフリーソフトを作るよりも、
みんなで作った方が開発するのも楽であるし、
みんなからバグの修正パッチなどもでてくるし、
保証もしなくていい。
開発をやめる時も、引継ぎをするもしないも自由である。
また、ユーザーにとっては、
無料でソフトウェアを使えるだけではなく、
ソースコードも公開されており、
そこにどんな編集を加えても自由であるため、
クローズドなものよりも扱いやすい。
そして、ソフトウェア開発ベンダーにとってみると、
自社の内部で作ったソフトウェアは、
自社だけで使っていたのではもったいない。
かといって、販売して成功するかどうかは不透明である。
これをオープンソースで公開することで、
コミュニティを形成すれば、
コミュニティの開発能力が企業の助けとなってくれるし、
そもそもコミュニティがあること自体が企業の強みとなる。
それから、ソフトウェアエンジニアやシステムエンジニアから見ると、
オープンソースソフトウェアは自由に使え、
商用利用もできるため、
開発コストを大きく抑えられる。
1,000万円の予算を浪費しなくても、
自社で作るソフトウェアと同じように、
オープンソースなソフトウェアを使える。
また、契約がオープンであるため
IBMのような商用ライセンスにつきものの「制限」がなく、
自前のコードと同じようにコードを閲覧できる。
システムに障害が起きたとしても、
ソフトウェアのどこに問題があるかを、
実際のコードを見て検査することができる。
また、経営者にとってみれば、
オープンソースは買収やM&Aとはまた違う、
新しい企業合同戦略のひとつであり、
Microsoftに一社では対抗できなくとも、
みんなでGPLソフトウェアを開発して、
一社では開発できないソフトウェアを開発し、
業界に一石を投じることができる。
最後に、ネットワーカーにとってみると、
オープンソースプロジェクトは日夜進歩しており、
新しいバージョンが発表されるたびに「楽しみ」をくれる。
みんなでソースコードを公開して開発するのは、
どんどんソフトウェアがいろんな人間のパッチを取り入れて
更新され続けるため、
オタクにとっては見守るのが楽しいのである。
こうした理由から、オープンソースは「損」をすることがない。
しかしながら、逆に「得」をすることもまたできない。
Microsoftのように、Windowsを売りまくって大儲けすることはできない。
あくまで善意のボランティアであり、
それ以上でもそれ以下でもない。

オープンソースのベネフィット

また、他にも「オープンソースのベネフィット」として良い点がある。
特に、ソフトウェアの品質の問題として、
Windowsのような会社にしかソースコードを読めないのと違い、
みんなの意見でソースコードを改善していくため、
コードそのものの品質やバグの無さに貢献していく。
今でこそ、Windows NTカーネルは安定しているが、
昔のWindowsはよくフリーズしていた。
Linuxはそうした昔の状況で見ると、
Windows 9xよりよほど安定して動いていた。
また、「自分で好きなものを自由に作れる」ということが、
新しい革新的なソフトウェアを生んでいく。
ウィンドウマネージャやデスクトップ環境として、
GNOMEKDE以外の環境があることはこのことを大きく特徴づけており、
どんなソフトウェアでも、自分の考えるように作っていい。
それから、ソフトウェア開発プロジェクトの透明性にもつながる。
誰かが勝手にソフトウェアの実権を得られるような、
ひとりの社長やCEOが決める会社のプロジェクトとは違い、
オープンソースは多くの場合民主的な透明性のある、
しかしながらインターネットユーザーが多数参加できるモデルを採用しており、
みんなの意見が透明性のある管理形式の中で取られることが多い。
最後に、オープンソースのベネフィットは、
無料でWindowsと同等のOSが使えること、
そのOSの内部の仕様に自分でアクセスできるという、
「OSオタクにとっては夢のような環境」が得られる。
OSの詳細をいくら知りたくても、Windowsではアクセスできない。
Linuxなら、醜いパソコンオタクでも大歓迎、
どんなシステムにもオープンにアクセスできるのである。
これは技術オタクには素晴らしい環境であり、
そのため、どんどんコードがオタクによって、
奇抜なアイデアあるいはまともな意見から適切に開発されていく。
何も分かっていないコードをベテランが直し、
誰も作れない最先端の技術を天才的発想で作っていく。
こうしたベネフィットは、OSだけではなく、
たとえばPythonRubyのような言語処理系においても同様で、
そうした「OS以外のオープンソースプロジェクト」の普及は、
際限を見るところなく日夜進展しているのである。