わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

そもそも集団になんかなりたくない

僕の思う政治思想

僕は、自由が好きである。
たとえば、集団と集団が土地の帰属をもって争う場合、
自由にすれば、力のある方が奪い取るが、
平等にすれば、それぞれが同じだけの土地を分配する。
一見、自由よりも平等の方が理想に見える。
別の理想としては、
集団が2つの勢力に分かれるのではなく、
ひとつの勢力になること、
すなわちひとつになることで、問題は解決できる。
だがしかし、集団には価値観やプライドがあり、
なかなか自分たちのアイデンティティを捨てて、
ひとつになることは難しい。
しかしながら、僕は実際、
「集団になること自体がおかしい」と思う。
集団になる、ということがあるから、
争いや帰属意識を持つのであって、
たとえばアメリカ的な考え方であれば、
「個人個人が自由にする」とか、
そうした「民主主義社会をみんなで守る」とか、
あるいはサバイバル的な「個人が全体と戦う」という発想もある。
しかしながら、僕はここで、
再び平等という概念を出す。
すなわち、「個人の平等」である。
要するに、個人個人を平等にし、
集団になることもなく、
争うこともしない。
それぞれが自分の自由に行動し、
そもそも集団にはならない。
これを、社会主義と呼ぶ。
しかしながら、社会主義には問題がある。
次にでてくるのは、社会主義経済の問題。
自由主義においては、
人々は自由に力があるものが奪い取るが、
平等な経済では、
自分の必要になった段階で、
必要なものを社会全体が配給してくれる。
これはユートピアである。
しかしながら、ここにも問題がある。
それは、
「みんな平等なのに、
誰がみんなのために働くのか」という問題である。
この問題から、共産主義は妖怪であると言われる。
すなわち、経済を成り立たせてくれる善良な精霊が居るように見えて、
そんな精霊は存在せず、
実際にはみんなに平等な強制ノルマを課すようになって、
ユートピアとは真逆の世界になる。
結局、この世界に「理想なんか存在しない」。
あるのは権力と自由だけであり、
すなわち、力のあるものが奪い取るだけなのである。
そういうわけで、僕はそもそも集団になんかなりたくない。
集団になんかならず、
個人個人が分散した上で、
自由に金を儲け、その金を自分のために使い、
コミュニティは全て自由にし、
誰をも平等に受け入れるより、
むしろ参加したくない人が、
自分の自由意志で別の選択肢を取れるようにすべきである。
そう、自由意志の個人主義とは、
すなわち「ポスト社会主義」だったのである。

はっきり言って理想の平等なんかない

はっきり言って、
この世界に理想の平等なんかない。
あるのは、集団になって争うか、
それとも孤独に自由を選ぶかだけ。
ひとつになりたいと思っても、
実際は集団と集団では価値観が違い、
集団になるだけで戦争になる。
できるだけ集団になるのを避け、
弱いものよりも強いものを選ぶことでしか、
この世界で戦う方法はない。
この世界に、平等なんかない。
あるとしたら、独裁者ひとりが全てを同じにし、
裏切者を見せしめに処刑するような、
そんな独裁者の帝国しか、
理想は存在しないのである。

何が有益で、何が善良か

自らの力で分からなくなった人間は、
判断力をどのように使えばいいか考えなさい。
すなわち、「有益か、無益か」「善良か、凶悪か」で考えればいい。
たとえば、ものはほとんどが有益で、ものを作ることも有益だが、
犯罪や奪い合いは無益で、凶悪である。
民主主義は善良で有益だが、戦争は無益で凶悪だ。
そのように考えれば、
「良いものは何か」「悪いものは何か」と考えられるだろう。
また、自由とは単に関係性における正しさに過ぎない。
相手の方を自分よりも上であるとすること、
自分と同じ自由を相手にも許すこと、
それが自由である。そのような自由は、有益かつ善良である。

違和感があった時は限定せよ

また、そうした理性による判断力と、
自分の感情による心の判断が一致せず、
違和感があった時は、より限定しなさい。
すなわち、「数学は賢い」ということに違和感があり、
「数学は馬鹿だ」と言いたいのであれば、
限定すればいい。
すなわち、「学校で学ぶ数学は馬鹿だ」とすればいいのである。
同時に、「賢い人間を目指すのは賢い」ということに違和感があるなら、
「学校の進路だけで賢い人間を目指すのは馬鹿だ」とすればいい。
そのようにしていけば、きちんと考えられる。
自分が何に対する「先入観」を持っているのか、気付くことができる。

心の裏側には経験的な人格形成がある

また、心の裏側には、
経験的な人格形成があると考えると良いだろう。
自分が今まで生きてきた、
親や家族や学校との関わり合いが、
自らの将来の人生を定めると同時に、
心の裏側にある「モチベーション」、
すなわちやりたいことや欲求を決めていく。

理想に溺れすぎるな

そう、そのように考えれば、
誰でもきちんと理性的に世界観を考えられるようになる。
しかしながら、理想に溺れすぎないようにしなさい。
自らの「自由」に酔っぱらって、
ひとりひとりの「違いや個性」を無視してしまえば、
それは闇を照らす光を通り越して、
有害な放射線になり、
あなた自身も、そして世界もを殺すようになる。

自由にも理性はある

そして、自由が間違っているわけでもない。
自由には理性がある。
すなわち、個人が支配され、制限され、抑圧されるよりも、
人々が自由で、選択肢があった方が、
多数派や国民のマジョリティが勝利し、
結果、理性的かつ合理的にものごとは決まる。
そもそも、ひとつにするから意見の違いが起きるのであって、
それぞれ別々に活動していれば、
それぞれは自分たちのやりたいようにやることができる。
また、権力は金を儲けるために組織を作って努力するため、
指導者がひとりで独裁するよりも、
破綻しにくく、多くの場合上手くいき、
競い合うことによって社会そのものが進歩し発展する。
強者が勝つことで、全体のパイも大きくなり、
結果、弱者に対する恩恵すらある。
ひとりひとりの自由な権利があれば、
できるだけ奴隷にならないように、支配者を監視できる。
自由には、そうした理性があるのである。

素晴らしい社会をみんなで作るという理想は破綻しやすい

しかしながら、自由には落とし穴がある。
それは、「素晴らしい社会をみんなで作る」という理想である。
これは共産主義的なコミュニティの理想ではあるが、
実際は破綻しやすい。
政治思想や利害関係以上に、
「何が理想の社会か」という理念はひとりひとり違っており、
本当に誰かが自由に影響力をもってしまうと、
他の人々はそれに従わざるを得なくなる。
結果、ローマ帝国のように、
「本当に自由なのは皇帝ひとりだけだった」ということになりやすく、
古代ギリシャのように都市国家がそれぞれ乱立して戦争したりもする。
素晴らしい世界を作るという理想はほとんどがペテンであり、
詐欺のようなもので、必ず失敗すると思った方が良い。
それでも、いじめやパワハラを無くしたいと考える、
左翼活動家には情熱はあるが、
その情熱を実現する「ビジョン」は多くの場合ないのである。

一部のカリスマに従うのは、天才は頑張っているから

しかしながら、こういうと、
むしろ、何もするなと言っているかのように見えるかもしれない。
しかしながら、スティーブ・ジョブズリーナス・トーバルズのような、
カリスマとされる人間は、
本当に素晴らしい世界を作ってくれる。
彼らの特徴は、「きちんと頑張っている」ということ。
左翼活動家と違い、デモや批判だけを繰り返すのではなく、
きちんとした自分のビジョンと、それに見合った能力や天才的才能がある。
こうした人々は、多くが、
そのことに習熟しているレベルが深く、
総じてその世界の常識を知っていて、
その上で自分はこのようにするのだというこだわりがあり、
それを実現するための高い努力をしている。
僕は、自分自身、そこまで賢い天才ではないと思っている。
世界を救うとか変えられるとか、
アイデンティティをリアリズムな社会形成において実現するとは言うが、
実際、僕はそんなに賢い人間ではない。
僕をカリスマとして仰ぎたてたいなら、良い結果にはつながらないだろう。

平等な理性というものもある

しかしながら、平等な理性というものもある。
それは、「自分が敵だと思っている相手も自分と同じだ」ということ。
立場を変えてみると、
相手をどんなに最低な人間だと思っていても、
自分も同じように相手から見られていて、
本当はそんなに変わらないことが多い。
青春時代の高校生を生きていると、
そんなことばかりにぶち当たる。
結局、自分が嫌いな相手は自分と同じだったということが、
良く分かる。
同時に、相手も自分と同等程度の知性しか持っておらず、
自分と同じ勘違いや先入観を持っている。
そこで「一歩踏み出して心を開く」ことで、
敵はいつだって味方に変えられる。
そう、これを青春における「心の通う体験」と言う。
心の通う体験から、
アイデンティティ」や「本来の自分」、「ありのまま」といった
精神的啓蒙意識が宿ってくる。
これを一歩進めると、
「世界の抑圧や不安を解決する救世主」となることさえできる。
同時に、「どんなに頑張っても敵対する相手は変えられない」ということも、
そこから見えてくる。
それが、「相手を変えるのではなく、自分自身を変える」という、
もっとも宇宙において高貴な考え方へと行き着く。
世界を変えることはできない。
それなら、世界との自分の付き合い方を変えていこう。
僕の青春時代は、そういうことが多かった。

哲学者になるために必要なのは、先入観を排除すること

また、哲学者になるために必要なのは、
先入観を排除することである。
自らが新しい知見やものの見方を得たことを、
精神や心のレベルから、
より高いレベルの「経験的反省」のレベルへと昇華させることで、
先入観をいくらでも排除し、
ものの見方や可能性を振る舞いや実証から変えていく、
コペルニクス的転回」という意味での理性批判ができる。
そこには、経験主義も合理主義も関係なく、
自らの実体験が自らの人生を決め、
環境と自分の行動を「一致」させたり、
あるいは「人知の枠組みを超えて考える」ことが可能となる。

共産主義に注意せよ

しかしながら、共産主義に注意せよ。
共産主義的な赤い考え方は、
自らを「間違った方向」へと向かわせる。
たとえば、「必要なものを与える」とか、
「自由な国家モデルを成立させる」という考え方は、
一見素晴らしい世界を作るように見えて、
実際はロシアというやくざ国家に騙されている。
そう、共産主義に注意せよ。
そう、それぐらいで、
ブッダほど正しい思想家になることができる。

一度分かった正しいことは正しい

そして、ここまで読んで、
「自分で人生を進める方法が分からない」というのであれば、
分かり方を考えなさい。
すなわち、「一度何かで分かった正しいことはいつでも正しい」からである。
その「何か」が何であったとしても、
一度分かったことが宇宙において本当に正しいなら、
そのことはいつでもどこでも誰にとっても正しい。
しかしながら、数学だけで満足するな。
数学は命題の正しさは保証するが、
命題がどのような世界のどのような過程や段階から生まれたのか、
ということまでは実証しないからである。
本当に分かりたいのであれば、
人生を最後まで経験して、
その人生であったことを詳細まで分析しなければならない。

できないよりもできた方が良い

また、最後に、僕個人の考え方を言うと、
それは「できないよりもできた方が良い」ということである。
潜在的可能性やルールの問題として、
それが誰にもできないよりも、
誰もが自由にできた方がいいと考える。
会社や立場上の理由で制限されるより、
もっとオープンな場で自由闊達にできた方が良い。

スマートな労働が果たして正しいか

しかしながら、これにも注意が必要である。
なぜなら、シチュエーションとして、
その環境でしか成り立たないような、
シリアスで冷静で真面目な環境というものはあり、
その環境を破壊するのはいいことではないからである。
たとえば、今の時代、
LINEやFacebookといったSNS
仕事上のツールでも友達とのコミュニケーションでも
重要になっているが、
これらは今までの「シリアスな仕事」を「カジュアルに破壊」するものであり、
必ずしも悪いものではないと言え、
そもそも真面目に行うべきだった仕事の形態を、
自由かつオープンで気軽なものへと変えてしまった。
それが、必ずしもいいことではないだろう。
これはGoogleFacebookなどの労働のスタイルについても言えることで、
必ずしも、最先端企業の自由な労働スタイルがスマートであるとは限らない。
トヨタ方式のカイゼン方式が、
Googleに比べて生産性が必ずしも低いわけではないと、
僕は思うのである。
たとえば、ドイツでは今でもマイスター制度を行う。
これは親方に従う徒弟制度であり、
お菓子や手工業だけではなく、
多くの仕事でマイスターの資格が必要である。
こうした保守的な仕事のスタイルは、必ずしも間違っていない。
日本では「日本的経営」といって、
社長が社員を年功序列ではあるが平等にし、
それぞれの社員の生活を成り立たせる「家族」のように扱うが、
これがGoogleFacebook
「自由なアイディアを同僚とパートナーとなって自由に実現する」という
そうしたスマートな形態より劣っているとは、僕は思わない。