神々とともに生きる詩人

一等星シリウスの導きを信じて

作家・デザイナー。Assyのリベラル文学研究所もご覧ください。

格言

格言

知性とは、抽象的にカテゴライズされ、具体的な場合と一般的な法則の間で常に相互に作用する、条件下された想定の成立である。
発見とは、認識の相互作用と、自由なコミュニケーションにおいて、それぞれの環境の相互作用と環境への適応から生まれる、経験的な気付きである。
知識とは、それぞれがそれぞれの人生で得ることのできた、世界観においての前提や背景となる概念的な様相である。
成長とは、アイデンティティの形成過程における、感情の移り変わりと、決意や覚悟を得ることのできる考え方や見方の変化である。
愛とは、それぞれが自身のエゴを認め、相手のエゴを自分に重ね合わせることで、築かれた絆を、自己が自己を経験していき、それを無限に再体験し続ける中で形成される、世界に対する希望や願い、欲望である。
自由とは、自然の可能性を万人に許すことである。
自由とは、平等な「個人」という中で、ひとりひとりを数ではなく、人格として比較することである。
自由とは、力で人々を押さえつけて従えるのではなく、自由な相互の合意のもとに社会を形成することである。
自由とは、どのような形態の社会についても、どのような人々のどのような関係における社会であっても、同等に扱うことである。
自由とは、何かを行動し、行為する前提となる、環境、すなわち世界そのものを作り、世界の可能性を高めることである。
知識とは、知性によって作られる全ての理解と事実であり、知性とは、知識の発見のために使うことのできる全ての精神的な能力である。
全ての人間は、人格としてその人間の心と意識の中に存在しており、どのような人間であっても、その行動や生き方はその人から見ればまっとうで正しいものである。
しかしながら、人間は無意識や無自覚の上に失敗や過ちを犯しており、そのような失敗は成功や力と裏表であり、成功は必ず失敗とともに現れる。
子供が子供をいじめるのは、平等な自由が与えられていないからであり、自由を与えた上で、正しい社会を誰かが長となって築いてやれば、いじめのようなことは起きなくなる。
どのような状況において知識や発見が生まれるのかを分かったものにとって、学校や教えは必要なく、自分の想像力だけで正しい考え方を必ず経験から作り出す。そのような人間を哲学者と呼ぶ。
あるひとつの「人間的な環境」があり、その環境をさまざまに「自由に変えられる」ような手段がもしあったとすれば、人間はその環境を変えることで、どんなことでも経験的に分かることができる。しかしながら、ここには別の考え方を持った「他者」が必要である。しかしながら、それは人間である必要はなく、機械であっても構わない。
言語を上手く考えることで、人間は「次元を超越する」ことができる。
それぞれに平等な同じだけの自由を許さなければ、それは真に平等な社会とも、真に自由な社会とも言うことはできない。
きちんとした発想と考え方があれば世界は変えられる。その考え方は、環境における経験的な新しい見方の発見による、現実と理想の経験的な重ね合わせと照らし合わせから生まれる。
高い理想を掲げれば、平等な社会は成功する。
しかしながら、責任者や指導者が公正でなければ、その時点でどんな社会も成功しないだろう。
それぞれの社会が自由であるためには、それぞれの区分において独立性と自主性を認め、経済や組織がそれぞれの自助の精神のもとに自律していなければならない。
子供であっても、大人と同じ条件のもと、同じ経験と知識があれば、大人と同じことをする。子供を子供として扱うべきではなく、大人と同等の存在として扱わなければ、子供が反抗するのは当たり前であり、自由や権限においても大人と同じ権利を与えるべきである。しかしながら、そのためには大人と同等の条件を満たさなければならず、そしてそのためには自由を与える前に成熟した社会や環境をどのようにしたら築くことができるかを、正しく教えなければならない。
公正でない指導者が支配する社会では、どんな公正な若者も生まれない。
啓蒙において重要なのは、高度な高等教育の知識よりも、さまざまな常識やリスク、そして心理学的な人生の考え方の周知徹底である。
成功よりも失敗の方が多くを学ぶ機会がある。
たくさんの失敗を経験したものだけが、さまざまなことを学ぶことができる経験を知っており、そこから、この世界を成功と救済へと導ける、本当に正しい考え方を学び、発見することができる。
学習とは、知識を学ぶことではなく、生きる術を学ぶことであり、経験とはそのためにある。そして、その経験を得るためには、たくさんの世界を知っておくことが必要である。
本当に必要な知識は、世界には存在せず、世界から生まれることもなく、自分の考える思念からしか生まれない。本当の知識は、自分で作り出さなければ、発見することはできない。
世界の知識を全て知り尽くすためには、人々の声や意見を聞き、直接に関わり合って話し合うことがもっとも近道である。
チャンスとは、放っておいて誰かが与えてくれるものではなく、自ら作り出すものであり、果実をつかみ取るようなものではなく、惜しみなく溢れ出す泉の源泉を見つけるようなものである。
自分が作り出すのではなく、人々が作り出すことができるようにそれらの人々を教え、助けることができた時、それを指導者と呼ぶ。そして、誰しもが指導者であり、どのような人間であっても「師」であると悟ることができた時、あなたは師を経験するスタートラインを切ったのである。
上手く話すよりも大切なことは、人々が上手く分かるように話を横から導いてやることである。
本当の知識を知ることができるのは、自らが無知であるということを知っている人間だけであり、自らが何を知らないのか分かっていない人間は、逆に自らが何を知っているのかも分からない。
「自らが何を知らないのか」ということだけを考え続ければ、この宇宙の全ての謎を解く偉大な発見をすることができる。
直観とは感覚的な知識の「手段の成立を行う術・ガイド」であり、このガイドを上手く使うことで、どのような不可能な世界も現実に形成することができる。
愛を語る資格があるのは、自分の愛がどれだけかけがえのないかを知っているだけではなく、相手の愛もどれだけかけがえのない愛であるかを分かっているものだけである。
愛するとは、相手のことを自分のことよりも大切に思うということである。そのために、自分が相手に愛されたいと思うのは、愛を増幅させる。なぜなら、一流の宝を見つけた時は、その宝を自身の家に持って帰りたいものである。しかしながら、大切なものを得るということは、そのために代償を犠牲にすることであり、相手のために自らの全てを捧げるということが、時に間違った結果を生むということは、人類始まって以来、人間の愛の論理の常であるところである。

格言2

賢者はいつまでも賢者であるとは限らない。なぜなら、賢者の奥底にある「闇」の部分は変わらない。光が青から赤になっても、闇は同じまま、黒のままである。よって、善や成功の部分が変わったとしても、悪や失敗の部分は同じ過ちを繰り返すものである。
平和のある自由はもっとも栄える。しかしながら、平和のない自由は永遠に滅びる。
どっちつかずで、すべてのものをひとつも否定しようとしない人間は、その時点ですべてのものを全部、全否定しているということに気が付いていない。
狂いが上手く事を運ぶのは18歳までであり、18歳以降になると、その狂いが自身を蝕み、新しい一歩を踏み出すことのできないような、巨大な壁となって現れる。しかしながら、狂いを治すための手段や方法は、それまでの人生における成長と同じである。しかしながら、その今までの解決策を、同じようにいつまでも使えるとは限らない。
いつまでも同じものしか見ることができないのに、正しい世界を見ることができるはずがないが、常に正しい希望を見続けていれば、その希望を見失うこともない。
10を100だと信じる人間が、1,000に到達するためには人の10倍の時間が必要だが、100倍の時間をかけてしまえば、そのような人間であっても人々を超えることはできる。
すべてを否定した人間は、その否定を改めなければ何かを肯定することはできなくなる。しかしながら、否定を忘れることで、それが可能になることはある。ただし、否定を忘れるためには、何らかの解決策が必要になる。否定をいつまでも信じ続けながら、否定の感情を忘れることはできない。
自らを愚か者だと思う人間は、もっと大きな愚か者の存在を知らないだけであり、ほとんどの人間は愚か者だと思っている時代が偉大である。
自身の行為を最低の戦いや滅亡だと思っている人間ほど、その戦いに打ち勝つための愛と正義のある努力を同時にしているものであり、多くの場合その努力の原因となっているモチベーションこそが諸悪の元凶なのである。
人々を上手く救うことのできる人間でないものが、どれだけ人々を救おうと努力したところで、結局それは滅ぼしているだけである。しかしながら、王はそれで構わないことの方が多い。なぜなら、滅ぼし続けるなら、必ずその結果国は栄える。それはなぜなら、今の王や首相であれ、法律であれ、同じことをしているからである。
しかしながら、国を滅ぼす行為を許さないその心こそ、大切に保つべきである。国を滅ぼすことすら許してしまった時、人生はそれ以上、完全に無意味になる。
神を詐欺師であると思った時、あなたは神を信じている。
神は、あえて無意味な嘘偽りを言う。なぜなら、嘘偽りを信じている人間は、人々を救うことができるままで、赤ん坊から成長するからである。
神の王国の国民は、神とともに成長し、神の兄弟となる。
知識を知らない状態で、知識を知りたい欲求のもとになっている夢は、たいていの場合、知識を知ったところで大きく変わらない。知識を知った後よりも、知識を知らずに考えていた時の方が、願いや夢は既に叶っていることの方が多い。そして、多くの夢は、知識を知った時点で終わりになる。生物学者になりたいならば、生物学など学んでも、目的のものは何一つ得られない。