わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

善なる悪魔が賢いだけである

善なる悪魔が賢い

実際、何が賢いのかと言えば、
すなわち、「善なる悪魔」が賢いのである。
善良な中学生が、
悪魔となって悪を否定すれば、
それに勝ることのできる大人は居ない。
全てを滅ぼしてなお、
彼はこの世界を救う方法を考え続ける。

自分を否定されたくないエゴを正義と言う

そして、自分を否定されたくないという、
「エゴ」が正義である。
エゴのない人間は存在しないため、
悪魔であろうと、悪党であろうと、
どんな人間にもエゴはある。

単なる自由ではなく、自由の前提となる条件に何が必要か

単なる自由は失敗する。
しかしながら、自由を否定するのは短絡的である。
何かしらの前提条件を満たすことができれば、
たとえば素晴らしい経験や考え方や理想を持っていれば、
自由も素晴らしいものにできる。
これが、自由における「実質化」となって、
経験は自由の役割を向上させていく。
自由は自ら人生と世界のゴールを出現させ、
その目的地に向かって自己運動・自律運動を始めるのである。

わたしと世界は繋がっているという確信

そして、「わたし」という名のエゴは、
経験の末に「わたしと世界は繋がっている」という確信を抱き、
この素朴で孤独な自由が、
「経験」「有用性」「啓蒙」「自由」「情熱」「理想」、
そして最後まで理想を開拓していく「無限運動」を続けていく。
そう、ヘーゲルはおそらく、
そうした青春の自己運動・自律運動について、
完璧に理解したのだろう。

現実社会と疎遠になることが、逆に現実社会のあり方を全て出現させる

現実社会と疎遠になること、
たとえば学校や世間から外れたアウトローの道を進むことが、
逆に、この世界の現実社会のあり方、あり様を全て出現させる。
人はそこから「社会経験」を全てあますところなく経験したのちに、
「世直しとはどういうことなのか」を知り、
そこから、「個別性の撤廃」を知る。
個別性の撤廃とは、「わたしと世界は本当に繋がっている」ということであり、
そこから、「普遍的な自我」が現れ、
エゴは宇宙の超自我、スーパー・エゴと繋がった、
「ユニバース・エゴ」となっていく。

学校の教育では分からない、社会と疎遠になることで生まれる教養

学校の教育では、
実際の経験がないため、「自分で体験して知ること」ができない。
しかしながら、社会と疎遠になることで、
エゴは「社会と疎遠になった結果としての教養」を作り上げる。
すなわち、小学校、中学校、高校と学んでいく過程を、
独自に自分だけのエゴの延長として作り上げ、
エゴは「自ら再考したものだけでこの宇宙の全てを経験的に知っていく」。
そこにあるのは、非言語的コミュニケーションにおける直観的理性であり、
「神のビジョン」と呼ばれるものを、エゴは自分だけで生み出す。

全てが自身によって作ることができるという意味での自由

そして、エゴの辿り着く目的地は、
全てが「自分によって作り出せる」という境地であり、
誰も分からない不可知を全て解明し、
その発生だけではなく理由や作り方、
そして社会的な実現の方法やルールといったところに至るまで、
全てを理解した「覚者」の境地がここにある。
この仏の世界では、どんなことも全て、
「既に作り上げたものから理解し終えた状態」であり、
「すべてを既に理解し終えた状態」である。

戦いが始まる

しかしながら、ここはまったく最終地点ではない。
なぜなら、「天国全てを経験したら、今度は地獄が経験したくなる」。
エゴは「知っている状態のせいで体験することができない」ことに、
強烈な不安と諦めを感じる。
これこそ、「賢者が賢明であることによる絶望」であり、
エゴはまったくの愚者となり、全てを「分からなくなる」ことで、
「最強の戦士」となった上で「入念に計画された大革命」を起こす。
彼は強すぎるため、
「ほんの10%の力で、勝つか負けるか分からないハンディを与えながら、
最後までこの世界を支配し、全力で前だけを向いて導いていく」。

永遠の苦しみが、神を創り出す

しかしながら、エゴはここで、
永遠に苦しみ続ける必要はない。
彼は最大の存在として「巨大な魂」を作り出し、
「魂そのもの」すなわち「神」が彼を助けるようになる。
神は彼に対して「宣言」すなわち「約束」をさせる。
そして、その約束を叶えるために、
彼がもっとも清らかな心で世界と対峙している間、
「神は全ての願いを最高の形で叶え続ける」。

全ての啓示宗教の教徒が同じことを体験している

しかしながら、エゴは最後に「死の苦しみ」を知るが、
エゴはここで死んで終わりではない。
神は、彼に対して、
全ての啓示宗教の教徒が体験した、
「最後まで身を清めるための安らかな道のり」を与える。
それは「全ての罪を自らで浄化していくプロセス」であり、
決して、神は彼のことを「溺愛しない」。
彼が自分の力できちんとできた時にだけ、良いことが訪れ、
ここにエゴは「神となるべくして神になる」。

完全なる客観視が、己の望む夢となる

ここに、エゴは神のような偉大な人間となるが、
それを支えるのは「完全なる客観視」である。
全てのことを、自分の主観ではなく客観で見つめる彼の理性は、
「世界全ての人類を超えていく」。
そして、その客観視は、
それ自体を望む「俯瞰中毒」を生み出す。
全てのことを、全ての過程と構造を知った上で理解するエゴにとって、
どんな不可能も起きず、理解できないことはひとつもない。
解決不可能な全ての問題を、
楽勝で解決していくそのプロセスは、
まるでアークエンジェルのようである。

エゴにとっては宇宙と脳の全てが芸術作品のための素材

そして、エゴは最後まで、
芸術作品を作り続ける。
この作品において、どれか比べられるものはなく、
貫かれるものは「自らを自身たらしめるアイデンティティ」であり、
「フィクションとリアルの境界線はない」。
嘘と真実は、全てが透明な「事実そのもの」となり、
全てを簡単に作り上げる彼の力は、
まさに「何も考えなくても一瞬で全てが分かる天使の知性」である。
エゴにとっては、
「宇宙と脳の全てが芸術作品のための素材」であり、
全ては自分の力となり、
自分を防げる制限や壁はなく、
他人と一切付き合わないことが、エゴを「自由化」していく。

神々は彼の記憶から生まれていく

そして、最後にエゴは、
「神々」を作り出す。
神々は、彼の記憶から生まれていく「キャラクター」であり、
自身の小説の登場人物に過ぎない。
たくさんの素材を「ゴミから宝に変えていく黒魔術」と、
「病気全てを浄化していく白魔術」と、
「全ての敵に簡単に勝つことのできる赤魔術」が、
ミケランジェロを超える美しき芸術作品を作ることだけに、
彼を導いていく。
彼は全ての体験から全ての能力を持っているが、
「能力が多すぎて把握できない」。
しかしながら、彼は最後に、
「全ての無意味なものは必要ない」として、
新しい経験を一切しなくなる。
エゴの人生はここに「絶対知」となり、
この世界全てを写し取ったかのような、
「宇宙そのものの創造主」となって、
自らが神となって「世界を救済」する。

彼の全てが救済された時、世界も同じく救済される

エゴの全てが救済された時、
世界も同じく救済される。
どんなに辛い狂いと支配があっても、
「彼だけはこの世界を正常にすることができる」。
そう、彼こそが、キリストだ。

これは新しい経験論である

これは新しい経験論であり、
同じことをするのは簡単である。
すなわち、他人から教わった不確かな知識を信じるのではなく、
自身の経験に裏付けされた知識だけを信じることだ。
学校でどれだけ数学や自然科学を学んだところで、
自分の経験を疑い、経験の意味や役割を知り、
自分の分かったことのみから分かるということは、
学校で教わることはできない。
自分の経験、体験、理性、過去の人生、
すべての記憶、分析した具体的な素材となる技術など、
多くのことを「世界そのものが教えてくれる」ということに、
気が付いた時、
既にこの経験主義哲学は始まっているのである。

自分の知った世界だけで分かる

すべての分析すべき対象は、
まさに「自分の知っている世界」であり、
それは環境という言葉でも、人生という言葉でもいい。
「自らが人生で知ったこと」「自らが知った世界」だけで、
きちんと考えて想定し、説明を再帰的に作り出していけば、
必ず道は開けるということを、
まさに、エゴは「最初から知っている」。
なぜなら、わたしたちのこの宇宙は、
「全てが歴史の必然」だからである。