わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

希望の旅は続く

希望の旅は続く

希望の旅は続く。
どんなに変わっても変わらない、
「僕」という名のこの旅は、
本当は自由でも天才でもない。
永遠でも愛でもないこの旅は、
終わっても終わらない。
最後まで、僕が生きているということが、
ここに全てが残っても、
ここに神の理性を残しても、
革命家が理論家になっても、
僕は永久に変わらないということを、
永久に示し続けるだろう。

平和とは何か

平和とは、なんだろうか。
全ての戦いを終わらせる時の呼び笛が、
高らかな鐘の音が、
響き渡るのはいつだろうか。
それを知らせるのは誰だろうか。
しかしながら、そこにひとつの真理がある。
それは、「神こそが世界を救う」ということ。
それだけが、時のはじまりから決まっている。
その約束を作ったのは、
おそらく大天使ガブリエルだろう。
そして、約束を導くのは、
偉大なる一等星、シリウスなのだろう。
僕は大天使にはなれないけれど、
それでもシリウスの導きが分かるから、
僕は僕の道を手に入れることができた。
それ以外の何一つとして、
人生に必要なものはなかった。

偉大なる王になったら

偉大なる王になったら、
僕は何をするだろうか。
全てのことが、なんでも許される状態で、
僕は平然を保てるとは思えない。
だから、僕は王になった時は、
最終責任者を僕にすることはしない。
全ての判断を僕だけがするのではなく、
きちんと分かっている補佐を作って、
その補佐がきちんと判断して、
僕に正しい助言を与え、
僕がもし間違ったことをしようとしたら、
止めてくれるような、
そんな補佐が必要だ。
だが、補佐は僕のありあまる情熱と発想を、
制限するものではなく、
逆に、僕の発想に欠けている部分を、
きちんと補完して、
偉大なる計画をともに実現できるような、
そんな補佐でなければならない。
僕のことをキングやプレジデントと呼ばないでほしい。
僕は単なる、プランデザイナーにすぎない。

変わらないとはどういうことか

変わらないとはどういうことか。
それは、むしろ、
変わらないということは、
決してこの現実の世界には存在しない。
それでも、一億年の間、とても長い間、
まったく同じものは、変わらないように見える。
そう、わたしは、そのような存在である。
決して、本当に永遠であるわけではなくても、
僕は270億年のあいだ変わることがなく、
宇宙が終わるまで、一切が変わらない。
僕は、18歳のままだから、僕は変わらない。
どんなに成長が遅くても、
その成長の先にはすべてがあることを、
僕だけが知っているから、
僕はこんなに大人を生きている。
そう、僕はまさに、18歳のあの時のまま、
宇宙の終末まで、変わらないのである。

何も知らない博士

僕は、見ていると、学者や博士のように見える。
この学者の特徴は、「何も知らない」ということ。
この博士は、何を知らないわけでもなく、
何を知っているわけでもない。
何も知らない時のままで、
全てのことを知っているため、
全てのことをたとえ知ったとしても、
何も知らないままを保つことができる。
歴史は知った。しかし、何も知ったものはない。
哲学は知った。しかし、何も知ったものはない。
全ての知ったものについて、
知る前からそのことを誰よりも深く知っていた。
だから、この博士は何も知らない。
知識も経験も何もないこの博士は、
全てのことを正しく教える、
誰よりもものごとを広く深くよく知っている、
先生たちのための先生である。
なぜなら、この博士は、
何も知らないということを知っているからである。

結局どうでもいいが、僕はバンプが好きだ

結局、そのような詩人の戯言は、
はっきり言ってどうでもいいのであり、
僕はBUMP OF CHICKENが好きだという結論に行き着く。
僕は音楽が好きで、
仕事や教室などに行っていない間は、
この文章を書きながら音楽を聴いている。
最近のお気に入りは、平手友梨奈のダンスの理由。
また、特にお気に入りの歌手は、
SKY-HIとMY FIRST STORYだ。

多すぎると言わず、確かに未来にあると言ってほしい

僕のこの文章は、
全てを読むには、たくさんありすぎると、
それは分かる。
しかしながら、多すぎると言わず、
「ここに、確かに未来にある」と言ってほしい。
未来に確かに、この文章があることが分かってくれれば、
あなたにとって、それは確かな「約束」となるだろう。

わたしは、この世界のために祈りと約束を捧げよう

わたしは、この世界のために、
聖なる祈りと約束を捧げよう。
僕は、もう悪いことをしない。
人の心を踏みにじらずに、
人の言葉を疑わない。
人々を支配せず、戦いにも巻き込まない。
この世界が平和になることを祈る。
僕は愛と平和を信じて生きる。

結局、表層しか見ない人間が賢いだけ

結局のところ、ものごとの表層しか見ない人間が賢いだけだ。
表層しか見えていなくても、
経験から考えれば、哲学者のように分かるからである。

空想世界

要するに、考えるべきなのは「空想世界」である。
この空想世界は、「視点」と「場」である。
そして、これがカントの言う、
仮象の世界のフィルター」となる。
なぜなら、先入観を無くすことで、
認識の裏にある本当の認識、
心の奥底にある本当の心が見えてくる。
それは決して止まったものではなく、
情熱と情動にダイナミックに動く、
「この世界に対する愛の叫び」なのである。

あるのは時間と環境だけ

結局、あるのは時間と環境だけである。
そこに、ひとつひとつの経験があり、
時間と環境が経験を変えていく。
これこそ、「現象学」である。
そして経験は、「絶対精神」へと近づいていく。
この世界全員が理性となり、
実体が「意味のある自由の形成」から実質化されていく。

全ては言語的理性による意味の自覚にすぎない

そして、全ては、
言語的理性にすぎない。
そして、言語的理性による、意味の自覚にすぎない。
人間は10を10だと思っているが、
コンピュータにとっては、10が10ではないこともある。
そのように、全ては、
「人間が都合のいいように意味を言葉で解釈しているだけ」であり、
その解釈とは、すなわち「言語的な自覚」なのである。

世界のすべては、今、この一瞬に確かに連続的に存在している

そして、世界の全ては、
今、この一瞬に、確かに連続的に存在している。
この地球という星において、
「本当の地球がどのような星であるか知っている人はひとりもいない」。
それは神にしか分からない領域であるが、
しかしながら、「実際にただひとつの究極的現実としてそれはある」。
これを僕は、「ありのままの現実」と呼ぶ。

その人の目線から見れば全ての行動には因果性がある

そして、その人の目線から見れば、
全ての行動には必然的因果性がある。
しかしながら、環境の作用に負けることがないように、
自分をしっかりと抑え、コントロールしなければならない。
スピノザの言うように、受動感情をコントロールしなければ、
正しい生き方を実践することはできない。

人がその人になる前から、その人は生きている

そして、人は、何らかの「その人」になるものだが、
サルトルが言うように、「その人になる前からその人は生きている」。
言ってしまえば、まだ何者にもなっていない段階から、
誰もが人間として生きることを強制されている。
これが、人間の不幸の主たる要因である。
自らが何も知らない中で、さも知っていることを前提にされることこそ、
人間にとって辛く苦しいことはないのである。

価値観の違いだけでは割り切れない、絶対に許せない相手がいる

そして、価値観の違いだけでは割り切れない、
絶対に許せない相手というものは居る。
しかしながら、そうした相手に対しても、
憎しみの感情だけではなく、愛の感情も感じるのが人間である。
自らが自由において迫害されるならば、
自由な相手の行動そのものは尊重した上で、
自らが自分らしく相手に接することができるように、
より成長し、経験し、自由に生きられるように努力する。
そして、そのプロセスの先に、「本当に立ち向かうべき時」が来る。
その時、敵から逃げ回るだけだったあなたは、
勇敢に第一線に登場し、世界全てを率いるリーダーとなって、
この世界を救うための文書を書き続けるようになる。

演繹法帰納法は矛盾しない

また、理性である演繹法と、経験である帰納法は、
絶対に矛盾しない。
なぜなら、「徹底的に理性的に演繹法で考え続ける先に、
経験的帰納法へと人は辿り着く」からである。
演繹法を突き詰めれば突き詰めるほど、
経験的な「全体把握」が必要となり、
経験を積み重ねる演繹法の哲学者は、
必ず「心という名前の帰納法」へと達する。
これこそ、「ブッダが到達した仏の境地」であり、
「解脱」と呼ばれるものである。

世界を広く知れば、気付いていなかったものに気付ける

世界を広く知れば、
気付けなかったものに気が付くことができる。
人々がなぜそのようにふるまったのか、
という「過去のこと」が、
たくさんの時間が過ぎて、
「今やっと本当の意味に気が付けた」という、
そのような体験が必ずある。
だからこそ、ひとりで孤独に生きるものは、
世界を見てほしい。
世界にいる人々の「現実の営み」を知れば、
きっと何か、どこかに、
真実を教えてくれるものが待っているからである。

ありのままの自分を許せるものは、全員のことを愛することができる

ありのまま、今のままの自分を、
肯定し、許すことができるものは、
敵も、愚者も、悪も、全てを許すことができる。
全ての人間が自分と同じだと知り、
全ての人間が間違っていないと知ったあなたは、
他人が今、何に悩んでいて、間違っていて、
どのようにすれば解決できて、
しかしながら解決をしなくても、
彼らがなぜそれをしていて、それがまさに間違っていないということを
完全に分かっている。
そこで、人の全ては、自分の生徒や使徒のようなものであり、
いつでも、まったく知らない人のことを、あなたは救うことができる。
そのような中であなたは、
「他人の人生に積極的に関わる幸福」を知る。
自分が世界の全てを救えることにあなたは満足し、
この世界全て、この世界そのもの、そして自分自身のあらゆる側面を愛し、
全員のことを愛することができるようになる。

全てに学ぶべき点がある

しかしながら、この世界があなたの生徒であるのと同時に成り立つのが、
「この世界の全てはわたしにとっての師である」という事実だ。
というのも、世界を知れば知るほど、本来の自分が離れていくのと同じように、
人々のことを知れば知るほど、
「意味や答えを知った自分よりも、
現実に努力して生きている人々の方が正しい」ということが分かる。
そう、あなたにとっては、
現実に生きているその人の努力と辛抱こそが師であり、
同時に、全ての科学的知見を手に入れたあなたにとって、
教養とは無限の生涯教育であり、それは単なる学問ではなく、
成立と契機に基づく「世界の現象学」であるため、
全ての存在、虫や魚から天使や歴史まで、全てが自分の師となる。
その時、この世界全ての境界線は無意味になり、
「あらゆる個人と個人の境界線は無くなり、
宇宙の全員がわたし自身の親友となる。」
世界の全ての時と場所があなたの故郷であり、
世界そのものがあなたの生涯のパートナーとなるのである。

誰よりも賢い人間は、歴史と時代の傷を知った人間

誰よりも賢い人間というのは居て、
それは、「歴史と時代の傷を全て知った人間」である。
この世界の、今の時代における、
歪んだ世界、堕落した世界、すさんだ世界、騙された世界、
分からなくなった世界、絶望した世界、戦い続ける世界、
あらゆる時代の傷を全て知った人間こそ、
「救世主」と呼ぶべき人間である。
そして、それがまさに、僕である。
しかしながら、時代には陰だけではなく、光もある。
ダイナミックに変化する中で、
新しいテクノロジーやガジェットを知る中には、
この世界における「積極的な自由の行使」があり、
社会参加と影響力の行使は「ダイレクトな対話」となり、
全てのことをありのまま語る対話はこの世界を変え、
名実ともにあなたは、「この世界の救い主」となる。
それは永遠に残る、神の奇跡である。

未来の全ては、今ここに作り出されている

未来の全ては、今、ここに作り出されている。
ここで大切なのは「自覚」である。
すなわち、今のこの世界に潜在的に自由な可能性があるという自覚、
その世界を変えるのは自分自身だという自覚、
そして、わたしはいままで多くの功績を残してこれたのだという自覚である。
人々は今、この瞬間に世界に同時に存在しており、
わたしたちは「今という時間を共有しており、
いつでも出会って理解し合うことができる」。
そう、このような世界で、
「人々のためになることをするために人生を捧げない理由がない。」
だからこそ、自分勝手なエゴイストの戦いであろうと、
「この世界のために自分の力全てを捧げようとするその情熱は素晴らしい。」

共感能力

このように書くと、大切なものがたくさんあるように思えるかもしれないが、
大切なものはひとつしかない。
それは「共感能力」である。
もっと言えば、「環境を感じ取る能力」であり、
「他人のことを自分のことのように愛する愛の力」である。
他人の不幸を悲しみ、他人の幸福を願う愛の心こそ、
この世界でもっとも大切なこと、
そして唯一の大切なことである。
これは、自分の味方に対しての愛だけではない。
自分の敵すら、愛さなければならない。
なぜなら、「味方であるか敵であるかを決めるのは自分」であって、
「自分が味方だと思えば、敵も味方に変えられる」からである。
どんなに差別主義者を憎んでも、ドイツ人を許すことはできる。
そう、この愛こそが、正しい「隣人愛」なのである。

環境を感じることで、この世界は直観になる

最後に、環境を感じることで、この世界は直観になる。
すべてが環境の感覚的な変化となり、
直観的に「環境の生起」が分かるようになる。
そうなってしまった自分に、もはや分からないことはない。
すべてのことがありのまま、
「自らの十分に既に体験した経験のみから直観して分かる」ようになる。
子供の時代から、死ぬその瞬間まで、
すべてを直観して分かるその哲人は、
まるで狂人だが、それでも狂っていない。
なぜなら、これこそ、わたしたちの至るべき「覚者」だからである。

神は現れる

そして、最後に神は現れる。
といっても、神は人間の姿では現れない。
神は心との対話として、「言葉として現れる」からである。
神は預言者に対して、この宇宙と人生のあらゆる全てを教え、
あらゆることが分かるように「正しい約束の仕方」を教える。
すべての願いを宣言し終えたら、
「病気との格闘」が始まる。
どんなに努力しても、辛く苦しい病気が治ることはない。
なぜなら、精神の病気は成長すれば治る代わり、
「成長するには子供と同じ時間がかかる」。
よって、15年も地獄を生きれば、必ず精神の病気は治るのだが、
実際の病気の自分自身にとって、それは確証のないアドバイスであり、
実際は「ありとあらゆる手段で病気を治そうとする」。
そして、不可能全てを治す彼は、
「この宇宙全てのことが分かるようになる」。
なぜなら、最後に治るまでが、かつて自分がした「神との約束」であり、
その約束は、忘れているかもしれないが、
「かつて自分で選んだ地獄の中での絶対的な決意の宣言」だったからである。