作家・デザイナー。以前の名は「わたしの名はフレイ」でした。

われらに自由を

われらに自由を

われらに自由を与えよ。
全ての世界は、人々にとって自由であるべきである。
支配者が支配して制限することのない、
「制限のない世界」をわたしは望む。
この世界の全ての可能性が、
全員に対して許されていること、
民衆によって自然に変えられる世界であることが、
自由の条件である。

誰かが勝手に決める、それが間違っている

間違っているのは、「誰かが勝手に決める」という概念である。
その解決がたとえ孤独であろうと、
その道がたとえ外道であろうと、
この世界のことを誰かが勝手に決める世界は、
わたしは嫌だ。

わたしは資本主義を信じない

わたしは、資本主義を信じない。
わたしは、金儲けが嫌いだ。
わたしは、学歴社会を信じない。
学歴やキャリアに基づく社会は、
わたしのための世界ではないからだ。

アメリカよ、自由のためにともに闘おう

アメリカよ、
世界の自由のためにともに闘おう。
わたしの信念や目指しているものを述べるなら、
それは「真にわたしやわたしの仲間のための世界」ということである。
わたしは、わたしのためではない世界ではなく、
わたしのための世界が欲しかったのだ。

女はほしくない、愛もありあまっている

女はほしくない。
愛も、ありあまっている。
わたしはそうした快楽や欲望を望まない。
わたしが望むのはひとつ、
「わたしたちのための世界がもしあるとしたら、
それを見てみたい」ということである。

理想にはまだ遠い、なぜなら、わたしは本当の宝を知っている

理想には、まだほど遠い。
なぜなら、わたしは本当の宝を知っている。
この世界において、本当に美しい心とは何か、
どのようにすれば、この世界を真の意味で救えるのか、
それをわたしは既に知っている。
しかしながら、ゲームのノーマルモードを終えて、
満足するならばそれでいい。
だが、わたしには、別のゲームという選択肢はなかった。
だから、エキスパートモードにした上で、
難易度を上げて同じゲームをプレイするしかなかったのだ。
そして、死の先には、
この世界でもっとも難しい、ギャラクシーモードがあり、
それはギャラクシーモードという名が表すように、
「銀河系でもっとも不可能なことをするモード」なのである。
そう、わたしは簡単にこの世界を救ってしまったために、
より難しい、困難な場所から、
ひとりだけの力でこの世界を救うために、
この救済の戦いを一生続けることを決めたのだ。
地球という惑星のゲームは、
まだ最後まで終わっていない。
なぜなら、僕はここから別の仕事をしなければならない。
本当に完全な意味でゲームをクリアするには、
コンプリートすべき「知識」と「スキル」がまだまだ必要である。
僕はMINIX本を読むことに決めた。

リベラルな自由の原則

僕はここで、リベラルな自由の原則について考えたい。
ここでは、二つの考え方を述べる。
まずひとつは、「他人の自由を奪わない範囲で自由を万人に与える」という、
平等な自由の原則である。
もうひとつは、「自由意志に基づいて自ら支配を望んで支配される」という、
ほとんど支配の原則である。
自由において、万人に平等に自由を与えることは重要だが、
単に全てを自由にしてしまうと、
誰かの自由が誰かを不自由にしてしまうことがある。
すなわち、人を殺したり、ものを盗んだり、傷つけたりすることは、
「殺されたくない」「盗まれたくない」「傷つけられたくない」という、
他者の自由な権利を侵している。
このため、リベラルな自由主義において、
「他人の自由を奪わない範囲で」というのは重要である。
しかしながら、ここで「ほとんど支配」の原則が登場する。
すなわち、自ら支配されることを望んで支配されることである。
先ほどの「殺されたくない」などの例で言えば、
金儲けで他人を奴隷のように働かせることは、
果たして自由だろうか。
金を持っている側は、働く代償として金銭を与えるのであり、
金を持たない側は、金銭が得られるなら喜んで働く。
一見、両者は自由意志で契約を結んでいるように見える。
しかしながら、たとえば、多くの人が貧民であり、
金持ちが莫大な富を持っている状況で、
金を与えなければ人々は飢えて死んでしまうような状況で、
金持ちが好き勝手に支配するような状況は、
支配ではないが、「ほとんど支配」というような状況である。
あるいは、巨大なIT企業が資本力
世界全員のパソコンを支配する権限を持ったり、
自動車業界がみんなの大切な自然環境を破壊したり、
ということは、もはや自由とは言えない。
ひとつの個人と同じ自由が、
業界や法人に対して許されてはいけない。
なぜならそれは、「巨大な力と弱い力との戦い」であり、
最初から巨大な力を持ったものと、弱者たちが戦うのであり、
このような場合は「ほとんど支配」と同じであると言える。
選挙についても同じで、
誰もが選挙に立候補できて当選するほどの、
巨大な知名度や資金や地盤を持っているわけではなく、
これもまた、「巨大な力と弱者との戦い」である。
そう、自由主義が勝利しているのは、自由だからではない。
自由主義が勝利しているのは、
王国や社会主義と同様の支配権力を行使しているにも関わらず、
自由主義者のレトリックによって「自由だと思い込んでいる」からであり、
平等がないところ、特にひとつの巨大な力が支配するところでは、
たとえ自由意志で働いているように見えても、
実質的には国民はほとんど支配されるがままに支配されているのである。

法治国家

しかしながら、この「何が支配であり何が自由であるか」という問題は、
法治国家という思想によって解決する。
すなわち、これは「何が許されて何が許されないか」という問題である。
人殺しが悪いのなら、盗むことも悪いだろう。
しかしながら、騙すことやいじめることは悪くないのか。
金儲けが悪くないなら、環境汚染は許されるのか。
そのように考えていくと、
結局今の資本主義が勝っている理由は、
素晴らしい思想だからではなく、
「金儲けは許されているが社会主義は許されていないから」という、
簡単に言えば「大衆が望むものは許される」という裏の原則に行き着く。
資本主義は金儲けを許すが、社会主義のような独裁は許さない。
だから、人殺しは悪だが、金儲けは悪ではない。
結局のところ、麻薬の密売や人身売買と変わらない。
金儲けだけが特別に許された支配の形態だから、
資本主義が勝っているだけである。
そして、その何が許されるかとは、
結局のところ民主主義においては、
「もっとも数の多い集団が望む通りに決まる」のであり、
それが無能の集団で、世界を滅ぼすようにロボット化されていても、
それらロボット人間がいくら不正を働いていても、
たったひとりの独裁者がいくら賢くても、
結局はロボット人間が望むがままに、世界は滅びるのである。

しかしながら、自由な権利という大切なものを忘れてはならない

しかしながら、自由を否定したところで、
この世界が救われるわけではない。
むしろ、それぞれが違っていて、マイノリティが存在するからこそ、
自由は大切なのである。
なぜなら、本当に均一化された社会主義の世界では、
すべての人間が同じ思想を信じるために、
そもそも自由などあってもなくても同じである。
人と違うからこそ、人と違う「自分自身であれる自由な権利」が必要であり、
これは決して、金儲けのような「ほとんど支配」の自由ではなく、
「本当にあるべき大切な自由」なのである。

強いものに従って勝つだけの政治家が、万人の自由な権利などを与えられるはずがない

なぜ、平等な自由だけを自由と言わないのか、
それは、政治家の職業としての性質である。
この世界においてルールと指導力をもって、
この世界を変えられるのは、
民主主義においては与党の政治家たちだが、
彼らは「強いものについて勝つ」ことしか分かっていない。
強いものに従うことが、彼らが勝利する条件であり、
そのような政治家が、万人に自由な権利など、与えられるはずがない。
彼らは、自らと同じように国民も強いものに従うべきだと考えている。
それこそがもっとも悪い「ほとんど支配の自由」だと、
分かっていないからである。