作家・デザイナー。以前の名は「わたしの名はフレイ」でした。

カノープス、百億年の何もないを経験する

カノープスには、一切何もない

カノープスを信じる覚悟があるなら、
カノープスは告げる。
あなたは、カノープスを信じれば、
シリウスのような不安と狂いの地獄から救われる。
しかしながら、不安を解消するためには、
何もない百億年が必要である。
そう、ここに、有無を言わせることを、
カノープスは許さない。
カノープスはこの星を支配し、
百億年間、何もない状態にする。

快楽や刺激の一切は宇宙にとって害である

快楽や刺激の一切は、
宇宙にとって害悪である。
よって、カノープスは、
一切の娯楽や楽しみを奪い、
何も楽しいことがない世界にする。
なぜなら、それが「正しい昔の国家」だからである。
娯楽や楽しみが無くなれば、
この世界は正常になって、
賢かった頭脳と知性を取り戻すことができる。
前述したように、
カノープスは誰かの意見を聞いてそれに合わせることはない。
カノープスは自らひとりによって決め、
誰もその決定を変えられない。

わたしは、人々の心の穴を埋めるために生きている

わたしは、人々の「心の穴」を生めるために、
この文章を書いて生きている。
全ては、平和なる王国で、
人々がもっとも自分らしく生きられる道を生きるためである。

自由は決して悪ではない

自由は、決して悪ではない。
支配者が国民を支配し、差別することは許されない。
自由は、みんなを同じにすることではない。
自由は、正当化でも、虚言でも、精神的害悪を与えることでもない。

自由において

自由において、人々は疑い、信じ、考え、思う。
感じることから、人々の痛みを知り、
あらゆる全ての経験が、自らの力となり、
理解し合うことが、この世界の改革への道筋を照らす。
自らの信じるものは次第にアイデンティティとして形成され、
自由は実質化し、
新しい目線で世界を見つめるようになったら、
すべてはひとつの原理原則に基づく、
同一の現象の現れとなる。

言葉にすること

ひとつひとつのことを、言葉にするならばどうなるか、
相手に伝えるとしたらどうするか、
思考や言葉遣いが理解や悟りにどう通じているかを知れ。
「言葉だけを変えて解決する問題もある」。
それは、前向きでポジティブな言葉は、
自らに成功を導くガイドとなるからである。

決めるにあたって

決めることは、全てである。
決めるにあたって必要なことは、
行動を優先すること、
そして場合によっては行動を留保し、
どんな行動でも行動できるかのような、
「メタ的な決定の可能性」すなわち「メタ構造」を作ることだ。

経験することでしか、無知は克服できない

また、大学や社会にでて、さまざまなことを知ったとしても、
それだけでは無知は克服できない。
無知を克服するには、経験することが必要だからである。
そしてこの経験は、
「知だけではなく、無知すらもひとつの知」であると言える。
すなわち、知っていることを知っているだけではなく、
知るまでの段階、知らないことを知らなければならない。
そして、知る前と知った後で、何が変わったのかを、
考えることでしか、
本当の普遍的な客観視はできない。

もし自分がそのような状況で生きたとしたら何をするか

考えるために必要なのは、
もし自分がそのような状況で生きたとしたら何をするかである。
ここから、コペルニクス的転回を知ることができる。
すなわち、当たり前に変わっていって進歩するようで、
実際は実質的に何も変わらない変化が多く、
そうした進歩から離別することで、
ある意味で「本当の進歩」を知ることができるということであり、
この世界におけるほとんどは当然に普通の人生を生きているだけであり、
本当の価値はそうした世俗から離れたところにある。
しかしながら、宗教や修行にあるわけではなく、
まさに自由な時間において「考えること」、
それも「自分がそうだったら何をするか」を考えることでしか、
この世界の本当の姿を知る方法はないのである。

どんな場合においても対応できることが、もっとも強い人間関係の覚者となる

どんな場合においても対応できること、
そうした当たり前を考えることで、
「当たり前からは見えてこない本当のその意味」を知る。
そしてそれが、もっとも強い「人間関係の覚者」となって、
人々を従える王となり、
その王は全ての社会変革を経験した上で、
ありのまま生きる仏となって、
その上で、この世界を変えられる「支配者」となる。

大学で学ぶより先に、学んでおくべき本当に大切な経験がある

大学ですぐに学ぼうとするな。
大学で学ぶより先に、
自分の体験から学んでおくべき本当に大切な経験がある。
それは「具体的に自由な社会を考えること」である。
具体的に、自由な社会がどのように成立するのか、
自由な社会を築く上で何が重要なのか、
そのために必要な絶対的経験はどのようにしたら自分でもできるのか、
そうした「自らの試行錯誤で考えた経験」がなければ、
大学で勉強しても、
自走力のある「自ら道を開拓して発見する人間」にはなれない。

大切な経験をしたこと、それがもっとも強い自分だけの力となる

大切な経験を、何かするといいだろう。
なぜなら、その大切な経験は、
もっとも強い自分だけの力となるからである。
インターネットであろうと、オープンソースであろうと構わない。
不登校になってもいい。
そのような経験をしたこと自体が、
誰にも絶対に負けることのない、
自分だけのオリジナルの知性となる。

すべてが分かった時、あなたは神に導かれる

考えてすべてが分かった時、
自らの経験だけですべてを理解できた時、
あなたは神に導かれる。
神はあなたを選んだ。
神はあなたを、「最後の境地まで正しく進めるように導く」。
この人生は神が与えたものであり、
神はどんな困難でも、わたしが自分で壁を越えるようにした。
あなたも、このように生きるならば、そのようになる。

二つの物理的真理

ここに、二つの物理的真理がある。
それは、「法則や真実はいつの場合でも成り立つ」ということと、
「仕組みや理由が分かってしまえば分かる」ということ。
そして、この二つの物理的真理、
すなわち「法則と原理」が分かってしまえば、
この世界において、
「自ら原理を作り出す」こともできるのである。
しかしながら、「その原理が本当に原理たりえるか」を考えなければならない。
原理に見えても原理でないことはある。
しかしながら、物理法則と物質のふるまいは、
どこからどこまでが法則か分からないため、
たとえば生物の体の仕組みを物理学だと言えるかどうかは分からない。
なぜなら、今でも分かっていないことが、今起きている。
たとえば、太陽は核融合でエネルギーを放出しているが、
核融合を人類がたまたま発見できただけに過ぎず、
もしかすると、人類が発見することができなくてもおかしくはなかったが、
人類がたとえ知らずとも、古来より太陽は核融合している。
そのため、たとえば太陽が核融合以外の何かの原理を持っているとしても、
それはおかしいことではない。
まさに、高次元へと次元を超えていけば、
太陽と思っているものは、まったく別のものとなるからである。
しかしながら、言えることは、
「事実はひとつだけであり、今という時間は今ここにある、
過去から未来へと向かう、連続した唯一ひとつの事実に過ぎない」
ということである。

果たして自由においても社会は成り立つか

しかしながら、そもそも、自由においても社会は成り立つのだろうか。
会社や国家・政府に支配されず、
それぞれが自由意志で、常に自由に働くことができるだろうか。
しかしながら、その問いはまさに「ナンセンス」である。
なぜなら、「自由に働くことは不幸であり、
不自由に働くことの方が幸福」だからである。
日雇いの中卒の労働者が、たとえ自由に労働したとしても、
明日の生きるための収入がなくなれば、いっかんの終わりである。
同じ仕事をしろと毎日言われる方が、大人にとってははるかに楽である。
そう、まさに「自由な社会にすればするほど、社会は不幸になる」。

労働が同じになると、自分が仕事をする意味がなくなる

しかしながら、社会主義のノルマ生産は悪である。
なぜなら、全員に平等な仕事を与えるということは、
「自分だけの特別な仕事が無くなる」ということを意味する。
どんなに自由な時間があっても、
みんな工場で同じだけ同じ仕事を強制的にしろと、
そう言われるよりも辛いことはない。
どんなに奴隷のような労働だとしても、
他人とは違う、自分だけの労働ができなければ、
生きる意味、労働する意味、そして全ての意味がないのである。

文章を書いていると、どんなことでもきちんと分かる人間になる

また、文章を書いていると、
どんなことでもきちんと分かる人間になる。
そして、実際、一度書いて考えた経験があるというのは大きい。
なぜなら、「どんな場合にでも対応できる人間」となるからである。

全体を知って、何があって何がないのかを知れば、パソコンはできる

また、パソコンができない人間、
パソコンの用語が分からないとか、開発ができない人間は、
全体を知らないから、何をすればどうなるのかが分からない。
パソコンは、「全体を知っている人間」ができる。
すなわち、何をすればどうなるか、ということをきちんと知っていて、
何があって、何がないのか、
どのようなことをするためにどのような技術があって、
どのようなやり方は必要がないのかを知っておけば、
パソコンは誰でもすぐにできる。
知らないことがあっても、インターネットですぐに解決できるようになる。

いつか不自由になるために自由を手にしたのだから、約束をすることは間違っていない

そして、このような自由な人間は、
決して不自由にならないのかといえば、そういうことはない。
なぜなら、自由を手にし、決定を保留して可能性を保持し、
あらゆる決定の選択肢を手にしたのは、
いつか不自由な環境に戻って、
そこでその決定可能性を決定するためであり、
不自由な戦いの中、全力で、
選択肢を実現するべきだからである。
巨大な情熱と哀しみのエネルギーは、
革命の時代において、一切一度として間違えることがなく、
ただひとつ、世界を自由にするという目標のもと、
まっすぐに前だけを向いて、世界と立ち向かう。
世界はあなたの戦いを「約束」であると受け取り、
あなたはその約束を守るために、
最後まで神とともに勇敢なる試練を乗り越えるのだ。

労働は楽しいものなのに、なぜ機械にやらせるのか

また、労働とは楽しいものである。
辛く苦しいのは、最初だけであり、
できるようになってしまえば、楽しく仕事ができるようになる。
それは誇りやプライドになり、アイデンティティに昇華する。
しかしながら、なぜ、そのような楽しい仕事を、
人工知能のような機械にやらせるのか。
なぜ、楽しい自動車の運転を、自動運転車などにやらせるのか。
人間にやらせよ。

間違った人生などない、神を信じるならば

間違った人生など、存在しない。
どの人間であっても、自分と同じ人間という命を持った尊い存在であり、
その人間から見れば、正しいことをしている。
しかしながら、間違ったことをする人間は、未熟なだけではなく、
神を信じていないのである。
神を信じるものは、間違ったことをしない。
罪や間違ったことをしているように見えて、
それは全て未来における「つぐないのゴール」への道だからである。

考えようによっては、人間の知性に矛盾などない

考えようによっては、人間の知性に「矛盾は存在しない」。
どんなに矛盾しているように見えても、
それは「前提条件が違うだけ」であり、
「環境や状況をその人間の心に照らし合わせれば、
誰もが正しい理解のもとに正しいことを信じている」。
しかしながら、彼らは正しいことを信じているだけではなく、
間違ったことを憎んでいる。
しかしながら、「別の人間から見れば、その間違ったことも正しい」。
すなわち、ありのままのこの世界において、矛盾など最初から無く、
「全ての矛盾する定理や命題は同時に成り立つ」のである。

青少年が賢いのは、権力への意志があるから

また、青少年が何が賢いかといえば、
それは「権力への意志」があるからである。
「権力への意志」はニーチェの言葉だが、
僕が考えるに全ての青少年には、
「この世界を救うために人生を捧げる覚悟」がある。
だから、青少年には怖いものがない。
少年はあらゆる経験を自分の力とし、
魚が大海を泳ぐことを目指して、狭い水槽を逃げ出したがる。
しかしながら大人になると、魚を自分の思い通りに育てようとするあまり、
水槽の中に大量に魚を飼って、魚を死なせてしまうのである。

オリジナルの経験に基づく数学

オリジナルの、経験に基づく数学をせよ。
言葉と感情を数学にし、
経験的に成り立ちと裏側にある原理を知ることで、
言葉と心を解明し、
成り立ちを知って現象的な成立を知ることで、
精神現象から宇宙の全ての性質を知れ。
「心がそのようになった時に何が分かるか」ということから、
心を物理学にせよ。
そのように考えることで、万物の成り立ちは全て解明できる。

再び、風は吹いている

そして、再び、風は吹いている。
一度目と違い、今度は逆の方向に風が吹く。
どんなに抵抗しても、上空の風はとても強い上昇気流で、
この世界全てを嵐は飲み込んでしまう。
それでも、ゼウスは正しい場所へと、この世界を導いてくれる。