わたしの名はフレイ 作家・デザイナー見習い
神々とともに生きる詩人 一等星シリウスの導きを信じて

星がプラスで、ブラックホールがマイナスなら、きっとブラックホールをブラックホールに詰め込めば、星は生まれるはずだ

-1×-1は1になるはずだろ?それなら

マイナスにマイナスをかけるとプラスになるって、
僕は教わったんだ。
でも、僕は不思議だったんだ。
「マイナスにマイナスをかけてプラスになるなんて、
おかしい。
なぜって、それなら、
闇を闇にすれば光が生まれることになる。
そうだ、きっと、
ブラックホールの中にブラックホールを詰め込めば、
星は生まれるんだ。」
そう、これこそ、
この世界最後のノーベル物理学賞を取った、
ダビデの発想である。
ダビデは、ブラックホールの中にブラックホールを詰め込むことで、
星だけではなく、
この世界すべて、全宇宙が発生することを発見した。

神は確かに居て、奇跡を起こしたが、その後に消え去ったため、わたしたちは奇跡を一切知ることができなかった

神は確かに居た。
神が奇跡を起こしたことをわたしたちは知っている。
神はとても巨大で、偉大で、強大な、
最高の奇跡を、ほとんど永遠の時間にかけて、
ものすごく高速で、スケールが巨大で、
それはそれは素晴らしいものだったと、
わたしたちは伝説によって伝聞で知っている。
神は偉大である。
しかしながら、その後に、
神は消え去ってしまった。
神の奇跡によって起きたことが、
本当はなんだったのか、
わたしたちは知ることができない。
そう、神が起こした奇跡の100%、
一切ひとつとして、
この世界には残っていない。
わたしたちは、どんなに悲しんでも、怒り狂っても、
この「神はもう居なくなった」という事実を変えられない。
それはそれは素晴らしいものだったと、
それだけを言い伝えから知ることしかできない。

神を信じれば神になれるなら、神以外のものを作った理由はきっと信じないものたちを懲らしめるためである

神を信じれば正しい。
神を信じれば、神になれる。
神を信じれば、誰よりも天才になって、
賢くなって、全知全能の救世主になれる。
この世界に奇跡を起こすためには、
神を信じるしかない。
しかしながら、それならば、
どうして神は神以外のものを作ったのだろうか。
神を信じることが正しいならば、
神を信じないものをどうして神は作ったのだろうか。
そう、それはきっと、
神が神を信じないものたちを、懲らしめるためである。
神を信じないものは悪魔であり、
悪魔には天罰が下るはずである。
なぜならば、悪魔は神を賛美するために生きていない。
神が地上を創造したのは、
明らかに神を賛美するためであり、
地上の被造物の価値とは賛美することであり、
それなら、悪魔は、神を賛美しない報いとして、
神によって天罰を受けるべきである。
そう、神が信じるものを救うなら、
信じないものを救わないということである。
それはすなわち、
信じないものを地獄におちたままにするということであり、
信じないものを懲らしめるということである。
そう、ユダヤ人は、そのように考えるに至ったのだ。
それならば、神の代理人であるキリスト教の神父は、
神を冒涜するものに罰を与えるべきであると、
ヨーロッパ人は考えてしまったのである。
そして、未来がもし天国ならば、
天国をもたらすことができる人間は、
神のような救世主であるはずだが、
なぜ未来が天国であるかといえば、
それは最終的に行き着く永遠に続く楽園であるはずである。
そう、ここから証明される事実は、
「終末において天国を実現する神のようなキリストが現れる」ということである。
そして、それはイエス・キリストである。
なぜかは分からない。
なぜなら、キリストは神であり、神の言葉を人間が理解することはできない。
神の全知全能の言葉を、人間が理解することはできないはずである。
しかしながら、神の言葉が間違っているはずがないから、
神の言葉は、真実として信じるべきである。
しかしながら、本当にキリストは神であるだろうか。
しかしながら、キリストを神でないと信じるのは、
キリスト教徒とは言わないはずである。
しかしながら、ヨーロッパ人はキリスト教徒である。
それならば、キリストを神であると信じるべきである。
なぜなら、神であるキリストを信じないものは、
神によって救われず、
結果地獄におちることになるからである。
よって、イエス・キリストが神であると信じるものは、
死んだとしても終末の世界で復活し、
善良なものは永遠の命を天国において得られるはずである。
よって、天国に逝きたいものは、
善良なる人生を歩むべきであり、
地獄におちたとしても、神を信じれば救われるのである。
このことが、論理的に破綻していても構わない。
なぜなら、論理は人間の限界ある理性であり、
実際は理性ではなく経験がなければ確かな確証は得られないが、
未来という天国の証明は、
実験可能なものではない。
考えられず、実験することもできないものは、
信じるしかないものであり、
そのようなどうでもいいことを考えるよりも、
善を為して生きればよい。
なぜなら、聖書に書かれていることに間違いはなく、
キリストの言っていることには悪のようなものがない。
それならば、聖書はどんな誰が見ても正しい文書である。
正しい文書の意味が分かったならば、
それで信仰の意味は成立している。
すなわち、わたしたちはこのキリスト教の原理を信じることで、
一人前のキリスト教徒であると言えるのである。