作家・デザイナー。以前の名は「わたしの名はフレイ」でした。

GPLが嫌われる理由

GPLは3種類の自由がごちゃ混ぜになっている

僕はGPLが嫌われる理由は、
3種類の自由がごちゃ混ぜになっているからだと思う。
3種類の自由とは、
「ソフトウェアの自由」「ハードウェアの自由」「行動の自由」である。
ソフトウェアの自由とは、
ソフトウェアがオープンソースであること。
ハードウェアの自由とは、
ハードウェアがユーザーの自由にプログラミングできること。
行動の自由とは、
ユーザーがソフトウェアを自由に再配布し、コピーし、改造できること。
これら3つの自由を、
フリーソフトウェアは目指しているが、
実際はGPLはこの中で「ソフトウェアの自由」を最大限目指すあまり、
「行動の自由」を制限してしまっている。
つまり、ソフトウェアがオープンソースであることを保つために、
ユーザーがソフトウェアを「必ずGPLのまま保つ」ようにする。
そのため、パブリックドメインのソフトウェアのように、
簡単に自分のコードに独占できない制限があり、
このため、逆にGPLではないコピーや再配布という「行動が制限される」。
ソフトウェア制作者としては、
フリーソフトウェアを自由なまま保つことができるかもしれないが、
「ユーザーは行動の自由を望んでいる」。
そのため、行動の自由を制限するGPLは嫌われるのである。

環境変数

UNIXにおける環境変数は、シェルからプロセスに引き継がれる変数で、
使っている環境そのものを設定するために使う。
コマンドとして実行されるバイナリのあるパスを示すPATH、
表示されるメッセージなどの言語を決めるLANG、
デフォルトのページャやエディタを設定するPAGERやEDITORなどが有名。
X11などでは日本語入力のインプットエンジンなどの設定に使われることもある。

万葉集を読んでいる

万葉集を読んでいる。
思ったほど、昔の天皇は悪い人間ではない。
神とは呼ばれているが、
それは太陽神の子孫という意味であり、
あくまで大和の国の統治者であり、
大和を愛し、季節や土地や生き物を愛する、
とても人間的で優しい心を持った王が、
昔の天皇である。
また、あえて分からない古文の歌を読むことで、
日本語をもう一度覚え直すことができる。
学習障害の僕には最高の教科書だ。

必要なのは中学校の理科

また、必要なのは中学校の理科である。
ほかは必要ない。
中学校の理科があれば、きちんと分かる。

日本語のコツは、ひらがなを感覚で分かること

日本語のコツは、
ひらがなを分かること。
ひらがなを感覚で、
音や高低のイントネーションで分かればいい。
それで、相手の心が分かる。
その相手の心から知れば、読めるようになる。
僕の問題は、インターネットが悪い。
インターネットでは、相手の心が分からない。
現実で他人と会話すれば、
ひらがなに込められた心と感覚が分かる。

インターネットには心がない

万葉集を読んで思ったのは、
心が大切ということ。
インターネットには、心がない。
僕が日本語が分からないのは、
心のやり取りがないからだ。
万葉集には、心がある。
同じように、心のある会話や作品を読めば、
日本語は分かるようになる。
大切なのは、心だ。

パソコンは心がない

パソコンには心がない。
パソコンを学ぶのは悪い。

人間の心を作る

もっと、人間の心を作る活動をしたい。
それで、狂っているのも、
愛がないのも、全て治る。

神を信じるのをやめる

神を信じるのをやめて、
豊かな心を作れば、
ロボットの操り人形も治る。
神はここで終わりだ。
神とは言うが、
パソコンの奴隷になっているだけだ。

インターネットのせいで後天的な自閉症になった

要するに、インターネットのせいで、
後天的な自閉症になった。
そのせいで、心がないため、
日本語が分からない。
インターネットは間違っている。
インターネットには心がない。
言葉が独り歩きし、
書く側も何も考えずに書いている。
まだ、神や天使のような、
話し相手が居るのがマシだから、
単にプシュケーが対話の神をやっている。
それが女性だっただけで、
僕は普通に男性だ。

分かった

僕は分かった。
要するに、昔言った言葉が悪い。
狂った女王になっているから、それをやめた方が良い。
それ以前の世界はまともだ。
人間は、昔言った言葉にさらに言葉を重ねることしかできない。
狂った女王になった理由は、おかしな美術館のせいだ。
要するに、後ろには背骨がある。
背骨があることを認識すれば、虫は魚になる。
それくらいで終わりだ。

男に戻った

男に戻った。
狂ったセックスをすればすぐに戻れるのが分からなかった。
女王は死んだ。
要するに、昔は二次元をやりたいクズで、
その前は、ゲームの仲間が居なくなって寂しくなった子供だ。
いつまでもゲームをやりたかったのにできなくなって、
つまらないからネットゲームをやっていた。
もう、インターネットの世界を消せばいい。

男に戻る

今、男に戻った。
戦場に戻る。
女は、何も分からないまま終わりになって、
永久に分からないままになる。
既に、女の人生など、とっくの昔に終わっている。

いつか終わりたかったが、終わるのが怖かった

要するに、終わりが欲しかった。
いつか、終わりたかった。
無限に続くようにしたくなかった。
しかしながら、終わるのが怖かった。
もう、それ以上何もできないのが怖かった。
よって、ここで、いったん終わりになり、
また最初から始まる。
今後は、よく考えて決めなければならない。
よく考えて書かなければ、
同じ狂った道になる。
僕はもう、狂ったことはしない。

楽しいとか、嬉しいとかがない

情愛や情動がない。
楽しいとか、嬉しいとかがない。
恐怖とサスペンスを望むのはおかしい。
リスクを取らなくても、賢いことはできる。

勉強したくなくなった

なんだか、勉強したくなくなった。
勉強の道に、なにかあるように見えない。
もっと、楽しいことや面白いことを知りたい。
自分が見ても、そのほうがはるかにまともだ。

世界は賢すぎる

この世界は、はっきり言って賢すぎる。
賢すぎて賢くない。
おそらく、賢さよりも、面白さや楽しさの方が大切だ。

Linuxが面白くなくなったのは、賢すぎてよく分からないから

Linuxが面白くなくなったのは、
なんだかよくわからないのに賢いからだ。
みんな、最近のLinuxが賢すぎて分からない。
Dockerとか、Flatpakとか、Waylandとか、
「何がやりたいの?ついていけないよ」という状況に陥っている。
昔は良かった。
GNOME 2とApache 2とLinux 2.6ぐらいで、
十分楽しかった。
今よりは馬鹿だったが、その当時の方がはるかに面白かった。
最近、良く分からない。
そもそも、昔と変わったようには見えないが、
どんどん、おかしな方向に向かっているように見える。
LiSAが「どこで間違えた?」と歌で言っているが、
僕が思うに、Railsぐらいで間違えた。

賢くするより、もっと面白くした方が良い

僕が思うに、賢くするより、もっと面白くした方が良い。
僕は、Ruby on Railsは必ずしも嫌いじゃない。
なぜなら、Rubyは「楽しい言語」を目指している。
そういう方向性が良い。
Railsの開発は楽しいから、賢くするのではなく、
もっと面白く開発ができるWebフレームワークになればいいと思う。

パソコンはつまらない

しかしながら、パソコンはつまらない。
日本語の分からなくなった主原因は、
むしろパソコンではない。
逆に、不登校である。
不登校で、誰とも関わり合いなくパソコンを見ていたのが悪い。
そういうわけで、むしろ、誰か他人と関わった方が良い。
パソコンは悪いというよりはつまらない。
そもそも、パソコンそのものがつまらない。
それなら、もっと面白いことをやった方が良い。
現実の世界で、面と向かってものと向かい合いたいなら、
むしろ、この資本主義社会では、勉強するしかない。
覚えるしかない。
逆に、「覚えることを楽しめばいい」。
覚えることを楽しめるようになったら、いろんなことができる。

覚えるために必要なのは、何度も思い出すこと

覚えるために必要なのは、
必ずしも暗記でもマークシートでもない。
覚えるために必要なのは、何度も思い出すことだ。
覚えているかどうか確かめて、
覚えていなければきちんと覚えるまで確かめ続ければいい。
そうすると、なんだって覚えられる。
頭に定着すれば、外国の主都の名前など、いつまでも覚えているものだ。

必ずしも学校の科目を覚える必要はない

必ずしも、学校の科目を覚える必要はない。
もっと別の、たとえば仕事に関することを覚えてもいい。
さかなクンなんか、魚のことを全部覚えている。
必要なのは、単に覚えるということを楽しむことだけだ。

最初から、そんなに目立って面白いものはない

最初から、そんなに他の何よりも目立って面白いものはない。
そんなものがあるとしたら、みんなそれを覚えているはずである。
実際には、面白いものはたくさんあるが、
何を面白いと思うかは人によって違うのだ。
その「誰が何を面白いと思っているか」を考えれば分かる。

知ること、行うこと、作ること、考えること

僕が思うに、
「知ること」「行うこと」「作ること」「考えること」ぐらいしかない。
そのどれかが好きなら、
別の対象についてそれを当てはめてもきっと好きになる。
僕は考えることと知ることが好きだから、
もっと別のことを考えたり、知ったりしても、きっと楽しいだろう。

変えるなら、どのように変えるのかを考えよ

世界を変えるなら、
どのように変えるのかを考えよ。
ただやみくもに変えても、良い世界にはならない。
自由な世界にしたいなら、
自由という世界における「価値観」や「意味」を考えなければならない。
アイデンティティは現実主義でなければ、実現できる理想ではない。

自らがこうでありたいと望むようであれ

アイデンティティとは何か。
それは「自らがこうでありたいと望むようにあること」である。
自らがこうであると、世界に宣言することは、
もっとも高い「聖なる誓い」である。
その聖なる誓いを、けがれなき心で宣言すれば、それは代償とともに叶う。

攻撃するからには理由がある

攻撃者が、なぜ人を攻撃するのか。
そこには、理由がある。
たとえば、子供は不安になると反抗的になる。
しかしながら、なぜ不安になるのだろうか。
不安になるのには、必ず理由がある。
多くの攻撃が、
「それしか自分が意見を主張するための手段がない」ということから、
軍事的に行使されてきた。
しかしながら、その「それしか手段がない」ということは、
まさに勘違いである。
本当は、もっと別の手段も存在する。
しかしながら、多くの市民は、その別の手段を見出すことがない。
見出しても、それを行使することのできる自由がない。
まさに、自由を与えれば彼らは喜ぶ、
それは富や力関係の問題で、簡単に与えることはできない。
だからこそ、できる人間が、代わりに責任をとらなければならない。
そう、「正しい手段を見出せる人間こそが、
彼らの代わりに世界を変えなければならない」のである。

理想の社会像は、家族や地域社会の道徳から生まれる

理想の社会像とは何か。
儒教の教えと重なるところがあるが、
僕が思うに、理想の社会像とは、家族や地域社会の道徳から始まり、
人間関係における「忠義」を持った上で、
それぞれの社会が「正常な秩序」を持つ、
そのために「徳」があり、この徳は経験から生まれる「理想」であると思う。
道徳と忠義から秩序が生まれ、経験と理想から徳が生まれる。
このように考えた末に、「この世界は平和になる」と僕は思う。

なぜ不安になるのか、どのようにすれば不安は払拭されるのか

僕が考えるに、
まず考えるべきことは、
「なぜ不安になるのか」と「どのようにすれば不安は払拭されるのか」である。
これは、経験的に考えられる「受容性」の問題である。
すなわち、「不安は感情をコントロールすることによって制御できる」。
そう、受動感情をコントロールすることで、
不安をなくし、勇気をもって信頼関係を築くことができる。
しかしながら、僕が思うに、「時には逃げも必要」である。
常に最前線で、切込隊長のように戦い続けることは誰にもできない。
少しの時間と心の余裕をもって、
「ゆったりと考えられる余裕」があることも、
哲学者となるためには大切である。

信じるためには分かる必要がある

信じるために、単にすべて無条件で信じることはできない。
信じるためには、自分の心から「分かる」必要がある。
心で「分かった」と思えることを、人間は信じる。
この「信じることこそが知性」であり、
「知性こそが新しい挑戦を可能にする心の扉」である。
そして、この知性とは要するに「可能性」であり、
この可能性とは、「知性を可能にする知性」であり、
そしてそれは経験的な情動、
すなわち「感覚」にすぎない。
大海の中で航海する一隻の船があったとしたら、
大海があなた自身であり、一隻の船があなたの中の知性である。

モデルと関係から考えれば、すべてはシンプルに起きている

また、モデルと関係から考えれば、
すべてはシンプルに起きている。
モデルとは「世界モデル」であり、
相対的な自然発生に基づいた「可能性と環境の生起」である。
すなわち、「どのような環境が起きうるか」ということに過ぎない。
この可能性の中の環境に基づいて、
さまざまな「関係の成立」が生まれる。
すべての人間が思考し感じるのは、
このような「生起する環境における関係の成立」に過ぎない。
あとは、たくさんの決まりの中、
日々の習慣を生きているだけにすぎない。
さまざまなこと、ノルマをこなすために努力するようなことは、
無意味ではないが、
実際のところ、なくても支障はない。
もっとも高い影響力で人格を制御すれば、
何もしなくとも、すべてのことをし得るものであり、
何も知らなくとも、すべてのことを知り得るものである。

他人の立場になって考えよ

他人の立場に立って、
客観視して考えること。
それはすなわち、
「現実の社会や状況において、
みずからを客体的に把握すること」ということである。
すべての人間を客観的な「個人」として見た上で、
「それぞれが何を考えているか」を考え、
その社会が「それぞれの関係性から生まれるもの」であるとすれば、
その社会を「もっとも理性的に見つめる」ことができる。
そこから、「本当にそこにあった事実とは何なのか」を知ることができる。
それによって、「昔自分が居た社会は、
今の自分であればもっと別の社会にできる」と、
そのように考えることができ、
最終的には「この世界のすべての環境の変化を捉えうる社会フィルター」を
得ることができるのである。

見つめなおすことが心の傷を癒す

大切なのは「見つめなおす」こと。
過去の自分を見つめなおすことが、
自らの心の傷を治す。
だからといって、過去の社会にそのまま戻してやるのが、
最適解ではない。
逆に、過去の社会とは離別し、
離れた場所で同じような経験をして、
徐々にその環境に慣らしていき、
「昔の自分の問題はこういうことだったのだ」と、
徐々に経験的に発見していくことが、
自らの心の傷を癒し、
殻にこもった心の扉を開くことへと繋がっていく。
そこから、自然に「この世界において大地の上に立つ」かのような、
素晴らしい理想の英雄、覚者が生まれるものである。

社会すべての経験が分かった時、友愛は仏の慈悲へと昇華する

社会のすべての経験が分かった時、
過去の友人に対する友愛の情動は、
仏の慈悲へと昇華する。
すべての問題の解決策が分かり、
どのようにすれば正しい人生を生きることができるのかを分かった彼は、
「何もしないのもある意味でベスト」であると知っている。
すべての経験やすべての環境が正しいのであれば、
どんなに間違った社会であっても、
その間違った社会の構成員がその間違った社会から学べばいいのであり、
逆に、他人がそこに介入する必要はない。
しかしながら、「救うべき人間」とは、
まさにこの世界の「全員」であり、
その是認に対する「救い」とは、
分かるような「明かりとなる経験を与えること」に他ならない。
すなわち、経験に基づくアドバイスを与えること、
これ以上の正しい解決策は存在しない。
あとのことは、アドバイスに基づいて、
それぞれの個人が自由に努力すればいい。
しかしながら、支配者や指導者は間違っていない。
ただし、権力者は正しい解答ではない。
なぜなら、権力者はすべてのことができるように見えて、
実際はさまざまなしがらみから何もできないからである。
本当にするべきことを行うのであれば、
むしろ、自由に行うのがいい。
自由に行うのが、
もっとも積極的であり、もっとも多くのことができるからである。
それぞれが自由な社会で、チャンスときっかけに基づく努力を行う、
これもまた「支配者に代わるもうひとつの正義」であると言える。

あとの考え方

あとは、少ない。
記憶の中の想像力の想起や、
言語的な言葉遣いから分かった。
人格を感覚だと思い、
成立した法則がどの場合も成立すると考え、
環境を自然に変えられるものだとしていた。
自由は魔法のお鍋のようなものだと考えており、
他人から考え方を吸収した時には、
自ら作った考え方に置き換えて分かることで、
他人のすべてを自分の論理で考えていた。
思考すらも経験だと考え、
大量に存在した思考と言葉遣いを帰納的に分かった。
想起される時の状況を考えることで、
頭の中にロボットを作っていた。
すべてができるようになったうえで、
可能性のすべてを追い求め、
学習の根源となる「根源的な学習」から、
メタ的にすべての学習の学習、すべての決まりの決まりを考えた。
すべては愛のためであり、
子供たちを愛するということは、
自らの反抗を正当化するだけではなく、
自由という価値観を「正しい形で実現する」ということであり、
頭の中の間隔で「このような自由は正しい」という、
明確な線引き、すなわち「経験的な判断力」を得て、
その判断力とは、すなわち「その子供が自由を実感できること」、
あるいは「不安から攻撃しないように不安を払拭できること」だった。
知性や知識よりも「知恵」が重要であると考えており、
「知恵のない解決」こそがもっとも間違っており、
「知恵のある解決」こそが必要だと考えていた。
そのように考えた上で、
「自由とは経験的なアイデンティティの形成と実現である」と考えた。
なぜなら、「人生とは自らのアイデンティティ
すなわち本質の形成である」と考えたからである。
アイデンティティが形成されていく過程を人生と言い、
そのアイデンティティが形成されていない状態こそが不幸であり、
アイデンティティが形成された後の状態は、
どんなに辛いことがあっても、その目的のために努力することができる。
すべての人間が不幸な理由は「アイデンティティが存在しないから」である。

正しい思考法と経験があれば、人は他人を攻撃しなくなる

僕が考えるに、
正しい思考法と経験に基づくアイデンティティがあれば、
人は他人を攻撃しなくなる。
アイデンティティの欠如」こそが攻撃の原因であり、
攻撃をどうにかして押さえつけてやめさせるのではなく、
本当に正しいアイデンティティの形成方法を教え、
その手段と場所を与えてやることで、
この世界は愛のあるユートピアにすることすらできる。
ソ連が間違っていたのは、要するに「やり方を間違えた」からである。
そう、そのように考えれば、
「正常な自由な社会」もまた実現可能なのである。

愛の国ガンダーラ

要するに、「子供にはアイデンティティの形成方法、
すなわち、正しい社会をどのようにしたら築くことができるのか」を、
教えるべきである。
正しい社会とはなんであるか、
それを実現するためには何が必要なのか、
どうすればそれを実現できるのか、
そして、どのようにしてそれを実現すればいいのか、
そのような「社会創造の四諦の心」を子供に教えれば、
必ずこの世界は「精神的に超越した世界」となるだろう。
それこそが、僕の目指す国、「愛の国ガンダーラ」となるだろう。